日本における家庭医像の更新

 Reeveら*1によると,英国では「GP,家庭医は専門医にのぼるはしごから落ちた医師である」というLord Moranの50年以上前の呪いのような言説にどうしたら対抗できるのかということに関して,英国の若手GPの研究者が果敢な試みをおこなっている。

 日本の場合,GPのような仕事をしている多くのプライマリ・ケア現場のソロプラクティス開業医は,もともとは病院などで専門医として仕事をしていたキャリアを持つ人が多く,「はしごから落ちた医師」ではなく,専門医へのはしごをすでに登ったあとの医師が地域で家庭医として働いているという事情が英国とは異なる。このことはむろん日本における医療の近代化,民主化の道程においてポジティブな役割を果たしてきたことは確かであるが,プライマリ・ケアにおける現代の健康問題への対応としてスペシャリストの問題解決法,あるいはその加算がほんとうに有効なのかというとかなり疑問であるといえるだろう。特に,多疾患併存~Multimorbidityやスムースではない病診連携,多剤投薬などの問題がクローズアップされてきていることがその症候であろう。そして,実は,このブログはそのことについて継続的に考えてきたといってもいい。
 今後の日本のヘルスケア・システムにおいては,自分のやりたい医療を自分の城で好きなようにやるといういささかファンタジーめいた開業医像はほぼ成立しなくなるだろうと思う。僕の予想では地域包括ケアの拠点となる家庭医によるグループ・プラクティスと,人件費を最小限におさえることで経営的に成立させて,少数の特定の患者集団に対して,いままでのようにやりたい医療を自分が納得する形で提供する(といっても医療制度的にそんなことはできないのだが)タイプのマイクロプラクティスに,今後日本の診療所は二極化する。このグループプラクティスは,公的・私的病院群,さらには自治体がその設立に乗り出してくることはまちがいない。医療マーケットのパイの分配の観点から,そうした動きは医師会の反対もあってタブー視されていたが,例えば富山市のようにすでに切羽詰って診療所新設に市として乗り出した実例は出始めている。

 また,実は介護福祉関連施設,あるいは住居をはじめとした生活支援をおこない,地域包括ケアをみすえた展開を行っている医療施設をもたない企業や法人の中で,そうした施設群にフィットした診療所開設を考えているところが結構あることは注目しておいてよい。近くの既存医療機関あるいは診療所との連携に様々な限界を強く自覚しているところにその傾向がある。診療所を作る主体のイメージの更新も必要である。
 ということで,おそらく,オーナー型ではなく,勤務医型の診療所家庭医がこれから必要になるのだが,そのためにはもういちど日本の家庭医像についてそのイメージを更新する必要がある。もっと正確にいうと脱構築していく必要があるだろう。また最初から家庭医をめざす医学生や初期研修医のキャリアパスの正当性,あるいは妥当性を確立する上でも,この家庭医のイメージの更新は重要な課題である。
 そして,Reeveらの論文に描かれたGP,家庭医の3類型は英国NHSという文脈を超えて,この問題を考える重要なヒントをあたえてくれる

① オール・ラウンダー家庭医
 非常に広い範囲の健康問題に対して,専門医型のケアを提供するタイプの診療ができる家庭医。ここでいう専門医型のケアとは,専門医が実際にやっている診療を標準化したものを当てはめるタイプのケアである。専門医と相似形の診療をする(できる)わけではない。専門医らしいティテールはない。


② Special interest(得意とする専門領域)をもつ家庭医
 ある領域に関しては専門医に近い知識と技術をもっているタイプの家庭医


③ Expert Generalistである家庭医
 Expert Generalist~卓越したジェネラリストの特徴でるところの「個々の患者に特異的なニーズを定義し取り組む」ためにInterpretive medicine(解釈学的医療:以前のブログエントリーで紹介した)を行う家庭医


 彼らは,Lord Moranの階段を脱構築するために1.のタイプの家庭医を3.のタイプの家庭医に変容させることでうまれる家庭医こそが必要だろうと言っている。つまり,非常に幅広い健康問題に対して一定の標準化された対応を行うことと,個別の患者ニーズの個別性を前提とした医療を実施する家庭医である。
 これは仕事の内容や対応する健康問題の種類(たとえばこどもも大人も診るなど)にとらわれないタイプの家庭医の定義でもあるし,日本においても現実的な家庭医像の更新につながると思う。

 日本において家庭医はサブスペシャルティをもつべきか否か,という論点に関しては,いわば上記の②のタイプの家庭医でいくかどうかだが,彼らはそれについては言及していないが,文脈からすると否定的であるといってよいと思う。僕は個人的には好きなようにSpecial interestを学び身につければ良いとは思うが,おそらく,診療の2つの違うスタイルを併存させるのは経験上困難だと考えている。やはり,① + ③が家庭医らしい家庭医だと思う。

 ちなみにこの家庭医像は,英国の医学生にも新鮮に映っているという。

White Wall

 

*1:Reeve, Joanne, Greg Irving, and George Freeman. "Dismantling Lord Moran’s ladder: the primary care expert generalist." Br J Gen Pract 63.606 (2013): 34-35.

番外:タイムラプス動画

 ちょっと本来のこのブログの目的からはずれている投稿がつづいていて,スミマセン。今後の事務所(仮)からの各種発信のための方法やがジェッドのお試しをやっているのでした。これは4Kではありませんが,Galaxyの動画色合いがとても気に入っています。こんどは4Kに挑戦したいところです。

www.youtube.com

 写真はお台場のガンダムUCの実物大の素晴らしい像です。ギミックもカッコいいですよ。

 

https://www.instagram.com/p/BZssLeUgQBS/

Instagram

読書をソーシャルに結び付けられるか?

 読書というのは,日常的な,あるいはソーシャルなネットワークからいったん切れて,コンテンツに孤独に向かい合う楽しみのことである。したがって,読書自体をリアルタイムに共有することは難しい。読み終わった後にさまざま語り合うことは可能だが,たとえば音楽コンサートにいって,同じ体験をしたものどおしのコミュニケーションとはかなり異なるものになる。

 ただ,たとえば小説を読んだ後,それについて語り合いたいというような気分は,やはりソーシャルなものと結びつけたいきがしていて,たとえばブッククラブという形式に興味があるのでした。

 今回のPodcast配信は,そのあたりをゲストと探っています。

 

 

https://www.instagram.com/p/BYFXMwfAhBm/

あったな~

soundcloud.com

ポッドキャスト再発見

 この2ヶ月はブログの更新ができずに申し訳ありません・・・

 じつは,このところPodcastというメディアに非常に興味を持ちまして,いろいろ調べたりトライしたりしておりました。むろん昔からその存在は知っておりましたが,最近あるきっかけから,雑談や対談系のポッドキャストで,とくにエンジニアに方たちが運営されているものに注目しています。例えば,RebuildやBackspace.fmのようなものです。内容も面白いのですが,対話や雑談は特に音質がいいと,とても癒やしてきな効果があるような気がします。また,ながらで聴くことも可能なのも,動画とちがって魅力があります。

 自分でもできないかなあ・・・と考え,マイクやミキサーを購入したりして,いろいろ試しています。とくに,SoundCloudのサービスがポッドキャストと連携していることを知り,開始のハードルがかなり下がりました。

 やっと念願の対談・雑談型のコンテンツをつくることができたので,ここにアップしておきます。

 今後発信は,Blog,Podcast,あとSNSでやっていこうと思っています。

 あと動画ブログ,すわなちVLOGにも興味があるんですが,これをやりはじめると,そうとう生活に支障がでそうなので,ちょっと控えておこうと思います。

 

soundcloud.com


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ブログ開設4周年

 ブログ「藤沼康樹事務所(仮)」開設4周年を迎えました!

 この間と投稿数もあまり延ばせず,すくないエントリーでしたが,一つ一つのエントリーはかなり気合をいれて作りました。案外,投稿を楽しみにしておられる読者の方も結構いらっしゃって,嬉しいです。

 今後はこのブログを起点に,その他のメディアにも情報発信を目指したいと思います。今後ともご愛顧のほどよろしくお願い致します。

https://www.instagram.com/p/BTgSkYPA5Ah/

グルーミング

家庭医療学と糖尿病診療の関係について

2型糖尿病と患者中心のアプローチ

 2012 年 及び2015[1]に、ADA(米国糖尿病学会)/EASD(欧州糖尿病学会)による 2 型糖尿病治療の新たな Position Statement (合同声明)が発表された。このガイドラインは「患者中心の治療」という考え方を取り入れ たことで,従来の「疾患の管理」に主眼のある治療ガイドラインとは様相の異なるものとなっている。このガイドラインにおける「患者中心の治療」とは「個々の患者のニーズや価値観,選好を尊重した治療」とされ,診療における意思決定は患者 の価値観に基づいて,患者の視点で行われるべきでとされている。

 さて,家庭医療においては,あらゆるプライマリ・ケアの診療場面において,この患者中心性をCore value1つとして位置づけ重視してきた歴史的経過がある。また,家庭医の間では「糖尿病ケアには慢性疾患ケアの全てがある」という認識があり,レジデンシー(専門医養成過程)や生涯学習でも重要な課題として位置づけられてきた。

 このエントリーでは,家庭医療学及び家庭医の診療について概括し,現代の糖尿病診療に資することを目指したいと思う。

 

家庭医療学は実装科学である

 家庭医療学(Family Medicine)を定義するならば「質の高いプライマリ・ケアを効率的・効果的かつ公平に地域に提供することに資する学問領域」ということになるだろう。従って,家庭医療学はヘルスケア・システム,診療の質,費用対効果,公平性,地域などに関する多彩な学問のハイブリッドであるといえる。

 例えば,心房細動治療のエビデンスとして抗凝固療法の有効性が提示された後,その治療がプライマリ・ケア現場に適用される際の障壁となるバリアー因子を調査・介入を行い,抗凝固療法に対する忠実度(Fidelity)を改善させる研究がある。こうった研究は,実際にプライマリ・ケア現場でそのエビデンスがもたらすアウトカムの測定といった第二世代橋渡し研究であり,実は家庭医療学の研究体系に包含されるものである。つまり,家庭医療学は自然科学の一分野ではなく,プライマリ・ケア領域における実装科学(implementation science)とみなすことができるだろう。

家庭医療の原理

 家庭医療の原理というときの「原理」とは,なんらかの基礎科学領域(例えば解剖学,生理学)から演繹的にみちびきだされたものではない。衆目一致して地域から信頼されているプライマリ・ケアに関わる医師の診療自体を収集し,帰納的にみちびきだされた認識や行動の理論=行動原則(Principles)という意味で「原理」という言葉を使っている。

 代表的な家庭医療の「原理」は,Saultz[2]が提唱している近接性,継続性,包括性,協調性,文脈性の5つの要素である。これらは,プライマリ・ケアを実施する家庭医・スタッフ,医療施設,医療システムがよりよく機能するための指針といったものである。

近接性:アクセスしやすいということを意味する。居住地から近く,そこにいけば馴染みの医師あるいはスタッフに相談にのってもらえるということである。一方なぜアクセスしにくいのかを考えることも重要で,地理的条件,施設側,制度・システム側,地域住民側の要因等をどのように最適化するかが課題となる。

継続性:同じ医師がある特定の慢性疾患を継続的に診ると言うことだけを意味しない。例えば,数年間健康問題が生じず来院しなかったとしても,なにかあったらまたこの医師に相談しよう」という保健医療上のリソースとして,患者に位置づけられているならば,対人関係における継続性が維持されていると捉える。そのような継続性を提供できるようなコンピテンシーの獲得が家庭医教育のおおきな焦点の一つとなっている。

包括性:診療の幅広さを意味するが,現代日本では高齢者の多疾患併存状態(Multimorbidity)のケアに関して特に課題になる。各疾患をごとに専門医が担当し,それぞれが疾患ガイドラインで推奨されている検査や治療を実施するような分断されたケアは,多剤投薬をはじめ患者負担を大幅に増やし,QoLを低下させる[3]。ジェネラリストである家庭医がMultimorbidityのケアの担い手になるためにもこの包括性を獲得するためのトレーニングが必要である。

協調性:日本は地域包括ケアの時代となり注目される領域である。様々な医療機関介護施設の施設間連携に関する垂直統合と,地域における多職種連携によるケアの実践である水平統合という2つの統合の中で,チーム内の権威勾配に自覚的なりながら医師としての役割を果たすことが求められている。

文脈性:文脈(context)にもとづいて,様々な判断をすることである。個人のライフヒストリーや価値観と言う文脈,家族と言う文脈,そして地域や制度と言う文脈のもとでケアを実践することを意味するが,これは後述する患者中心性と深く通底するものである。

 

家庭医の臨床的方法論 患者中心の診療~共通基盤の形成

 McWhinney[4]は,地域で衆目一致して「優れた家庭医」の診療は,疾患の医学的診断と同時並行的に,症状や問題が患者自身にとって,どのような意味があるのかを探っていると観察研究を通じて明らかにし,生物医学的な診断プロセスであきらかになる次元を「疾患=Disease」,患者自身による現在の症状や問題の定義を「病い=Illness」として,疾患と病いの両面へのアプローチが家庭医の診療の特徴的な構造であることを提示し,疾患と病いへの統合アプローチを患者中心の医療の方法(Patient centered clinical method)と命名した。

 患者中心の医療の方法で目標は「共通基盤の形成」であり,医師と患者の間で,「何が問題なのか」「診療の目標やゴールは何か」「そのゴールに到達するためにお互いがどんな役割を果たすのか」の3点ついて合意形成することである。この共有化された意思決定(Shared decision making)は,「患者の問題を定義するのは医師である」あるいは「患者の治療方針を決定するのは医師であり,患者は医師の指示に従えば良い」といった医師中心の診療プロセスとは根本的に異なるパラダイムにある。

 こうした臨床的方法論に役に立つツールとして,解釈モデル,高齢者総合機能評価,家族と個人のライフサイクル,健康の社会的決定因子,健康生成モデルなどが取り上げられるのが家庭医の教育の特徴でもある。

おわりに

 患者中心性を重視する現代の糖尿病診療において,家庭医療の教育や研究の成果が貢献できることは少なくないと思われる。今後の有機的なコラボレーションを今後目指していきたい。

[1]: Inzucchi, S.E., Bergenstal, R.M., Buse, J.B. et al. (2015) Management of hyperglycaemia in type 2 diabetes, : a patient-centred approach. Update to a position statement of the American Diabetes Association and the European Association for the Study of Diabetes. Diabetologia 58: 429-442

[2]: Saultz JW (2001) Textbook of family medicine, McGraw-Hill, Medical Professions Division p1-36

[3]:  Fortin M (2012) A systematic review of prevalence studies on multimorbidity: toward a more uniform methodology. The Annals of Family Medicine 10(2) : 142-151,

[4]: Stewart, M (2003 )Patient-centered medicine: transforming the clinical method. Radcliffe Publishing, p17-30

 

(このエントリーは,糖尿病 Vol. 60(2017) No. 5に寄稿したものに加筆訂正したものです。)

https://www.instagram.com/p/BTgTxU8g6Mt/

昼寝

小説よまない家庭医にすすめたい恋愛小説「マチネの終わりに」

 今回は私が注目して,フォローしている現代作家平野啓一郎氏の手による小説で,2016年の話題作でもあった恋愛小説「マチネの終わりに」(毎日新聞出版)を取り上げます。この作品は,アラフォーの天才クラシック・ギタリストの蒔野と,同じくアラフォーで紛争地ジャーナリストであり,クロアチア人の有名映画監督を父にもつ洋子の恋愛模様が描かれます。また,中東紛争,難民問題,東日本大震災そしてサブプライムローン問題など様々な世界情勢も物語をドライブする要素として盛り込まれます。
 平野氏の小説群は,昨今の会話を中心とした小説と違って,描写を駆使して物語を進めていくタイプの文体なので,気軽に流し読めるタイプのものではないのですが,文章自体は冗長さがないので,ちょっと精神を集中すると,一気に物語にはいりこんでいけます。
 物語自体は比較的シンプルといえます。二人が出会う⇒お互い惹かれあう⇒すでにいるパートナーの関係に悩む⇒すれ違う二人⇒別れる⇒お互いもとのパートナーと家庭をもつ⇒すれ違った真実の理由が明らかになる⇒再び二人が出会う⇒余韻をのこして終幕,といったストーリーで,物語自体は,よくあるパターンのものといえるでしょう。むろん,その間に蒔野の師匠,同僚の死,ギタリストとしての停滞,洋子の父との和解などのエピソードが盛り込まれるのですが,それを単に通俗的なものがたりにおわらせないのは,文章のちから,特に描写力によるところが大きいと思います。単に懐古趣味的な美文ではなく,現代性をふかく追求した帰結としての描写です。また,40代というライフサイクル上の移行期の困難性もよく描かれているなと思います
 実は蒔野と洋子は,ほぼ3回くらいのFace-to-Faceの時間の共有しかなくて,しかもほぼ「会話のみ」で,熱烈な恋愛関係になりますが,この会話のやりとりが非常にスリリングで,魂に触れる言その人の核心にいたる会話というのが,具体的に存在するのだという実感が得られます。おそらく洋子は蒔野の音楽をもともと知っていたこと,蒔野も洋子のルックスに惹かれたということを前提に関係がはじまってはいるのですが,コミュニケーションが人の人生にこれほどの影響を与えうるのか,という発見がありました。
 また,洋子が長く離れていて音信不通(亡命に近い状態)だった父親と,海辺で和解する場面には,むしろ父親の年齢に近い自分としては,かなりこころを揺さぶられました。そして,最終章では,二人はそれぞれの職業的キャリアの頂点にいるのですが,ニューヨークの公園の池の畔で数年ぶりに再会する場面の描写の美しさは印象的です。
 

 以下はちょっと蛇足ですが・・・

 プライマリ・ケアは異なる人生に出会う仕事であり,また個人から地域にいたるまで,様々な物語に出会う仕事でもあります。また、人間は苦痛や苦難と折り合いをつけるためになんらかの物語構造にそれを取り込むことで乗り越えようとします。たとえば、かぜをひいてしまったとき、「あの時に雨に打たれて帰宅したせいだ」、がんの病名を告知されたとき「なぜ自分がいまガンになってしまったのか、あの時のあの事件のせいではないか」といった物語の構造をもった解釈をしようとするものです。また、神経難病と長く生きてきた患者は「病気と折り合うための心構え」といった物語を語ることがあります。おそらく、医療、ケアの場面において、物語はキーとなる働きをしているものです。
  小説やマンガなどを読める力は職業人生のなかで残念ながら徐々に失われていきがちですが,依然として医療者にとって必要な力だと思います。「マチネの終わりに」は,「最近小説なんかぜんぜん読んでいないよ」という方が、物語の面白さを再発見できる、おすすめしたい一冊です。

 

(このエントリーはプライマリ・ケア連合学会実践誌2017年春号に寄稿したものに一部加筆訂正を加えたものです)

 

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