プライマリ・ケア連合学会設立の意味を振り返る

 医学の世界に限らす比較的少数派のグループは、立場の違い、理論的違いによる対立と分裂が生じやすいものです。逆に集団として大きな力をもつと、内部の対立があっても全体としてのまとまりはなんとか維持されます。例えば政権与党内には様々な派閥があり、それぞれが別の政党であるといってもおかしくはない政治理念の違いがあるのですが、政権という一点でキメラ上にまとまっています。医学界においては、日本内科学会がそうした政権与党的な構造をもっていると思いますが、僕は会員ではないし、関わりは少ないので、妥当性のある見方かどうかはわかりません。

 プライマリ・ケア連合学会の母体となったかつての3学会、すなわち総合診療医学会、プライマリ・ケア学会、家庭医療学会に関してみてみると、それぞれの学的基盤はかなり違っていたことは確かだと思います。僕はむしろ、この3学会の統合は学問の統合というよりは、今後の日本の少子高齢化を軸とする人口動態の変化、それにともなうヘルスケアシステムの再編成、そして国民の医療に対する意識の変化等に、医師の学術団体としてどのような社会的役割をはたすべきなのかという大義Cause)にもとづいて行われたという印象をもっています。ただし、各学会メンバーの、それぞれの学会への思い入れは、小規模集団だからこそ強いものがあり、合併による様々なルサンチマンが生じたことは確かでもあります。また、合併にかかわれなかった(あるいは声がかからなかった)、多くの関連学会や研究会、関連施設団体にもそうした感情が生まれていたことが今となって、はじめてわかるところもあります。

 日本は、少子高齢化と人口減を基調とする人口動態が確実視されていますが、これは見方をかえればこどもと高齢者をあわせたレイヤーの人口が増えることであり、このレイヤーは居住地の周囲でほとんどの時間を過ごす人たちであるということが重要です。いわば地域ベースで生活をするレイヤー中心の社会に日本が変化しているということであり、医療や介護、保健のしくみに関しては、地域ごとの最適解を探索する時代になったということです。おそらく日本のすみずみまで、同じシステムのもと、同じ内容の医療や介護が提供されるというこれまでの通念が変わってきています。これが地域包括ケアの時代の本質だとおもいます。

 地域包括ケアの時代において、どのような医師像がもとめられるのかということについてはまだ十分議論されているとはいえませんが、

*地域ベースで多職種と文化や価値が共有できて、連携実践ができること(水平統合

*大~小病院、あるいは療養施設の医師同士が施設違いを超えて、文化や価値の共有でき、質の高い施設間連携ができること(垂直統合

*上記の水平、垂直統合の基盤が患者中心性、あるいはPerson centredであること

といった構成要素が重要になると思います。

 地域包括ケアにおいては、文化や価値の共有ができていることを規範的統合(normative integration)と呼びますが、地域~大学病院までこの規範的統合ができるような医師が配置されることが地域包括ケアの時代にもとめられますが、このスタイルの医師はジェネラリスト医師あるいは総合診療医がもっとも近いといえるのではないでしょうか。そして、この日本における総合診療医は、従来型のLone physician(孤高の医師)像に対して、Saba[1]が提案したCollaborative alternative(協働的オルタナ医師)像とホモロジーがあると思います。

 日本における総合診療は場によってその診療スタイルをかえる、System oriented specialtyですが、Generalism(総合性)という価値を共有しています。そして、ある時期は大学病院、ある時期は診療所、といった働き方が可能です。おそらく地域包括ケアの時代を世界に先駆けて、いち早く迎えざるを得なくなった日本において、これから登場しつつある総合診療専門医をめぐる制度設計のためには、世界的に20世紀以降のジェネラリスト医師が家庭医、総合内科医、ホスピタリスト等に分化していった歴史を見直し、それらを再び統合するというヴィジョンがなければなりません。このヴィジョンなしに、様々なステイクホルダーの利害調整に終始するような制度設計は「なにも変わらなくて良いし、このままなんとなくうまくいくんじゃないか」という医療界特有のレガシー発想に他ならないのです。

 

[1]: Saba W, et al. The myth of the lone physician: toward a collaborative alternative. The Annals of Family Medicine 2012;10(2): 169-173.

 

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専門医から内科系総合医や家庭医への転向

 最近、長らく循環器内科医を病院でやっていたが、諸事情で診療所開業することになったが、どんなふうに自分を整え、診療にフィットさせたらいいのだろうか?とか、あるいは眼科医をずっとやっているのだが、内科の勉強も続けていきたいのだが、どうしたらよいのだろうか?といった相談を受けることがあります。

 これまでは、あまりそうした相談を表立ってするような「空気」はなかったので、時代の変化を感じます。

 50代半ばをすぎて、大きな仕事の転回点を迎えるわけですが、ライフ・シフトの時代になり、その仕事はおそらく10年でおわることはなく、どうしたら70代や80代すぎても、医師として社会貢献できるのだろうかという課題があらたに浮上もしているのです。

 そして、ながらくやってきた専門医としての診療スタイル、知識や技術ベースのブラッシュアップなどをそのままもちこんでもうまくいかないだろうという直感もあるんだろうと思います。

 こうしたキャリアの転換で私が必要だと思うことは

1.それまでの専門医のスタイルを否定しない

2.これからの総合医としてのスタイルを否定しない

3.自分が学びほぐし(Unlearning)、学び直しが必要であることを認める

4.自分がどのようなタイプの人間なのか、どんなバイアスをもっているのかに気づく機会をもつ

5.中年以降の自分自身が現在直面しているライフサイクル上の課題、そして今後直面するだろう課題に自覚的になる

ということが、実は大事だと思います。

 おそらく、そのためには学習共同体の形成がキーになるでしょう。いわゆるバリント・グループの形成を思い浮かべるかもしれませんが、私が考えているのはどちらかというと現代のオンライン・サロンに近いような仕組みで学習共同体が形成できないかということです。

 そして、地理的に遠くても、同じようなニーズをもっているキャリア転向組の医師、そしてちょっとメタレベルに立ってアドバイスができるメンター的な役割をはたす家庭医がそのグループに参加できるといいですね。

 そしてかくいう私も、そうした役割をはたせるような仕組みをつくりたいと思います。気軽にお声掛けください♫

 

jazzy

医学教育について15年前に考えていたこと

 今回は、今から15年ほど前、卒後臨床研修必修化直前に日本医療評価機構日本医師会の合同で開催されたシンポジウムでの僕の講演記録です。非常に古いものなのですが、当時医学教育にかなり燃えていた時期でした。
 もう15年前なので、話の内容はそうとう古くなっています。しかし、おそらく当時の卒後研修の変革前夜の熱さをちょっと感じることができると思い、エントリーにすることにしました。
 では、はじまります〜

 

司会 それでは、続きまして、藤沼先生。藤沼先生は、家庭医療学センターのセンター長でございます。新潟大学の医学部を卒業され、大変臨床研修に関心が高くて、家庭医療学にも関係しておられますし、また日本プライマリ・ケア学会等にも関連が深い先生でございます。どうぞ先生、よろしくお願いします。


藤沼 どうもありがとうございます。きょうは、表題についてのお話をさせていただける機会をいただいて、本当に光栄に思っております。 私は、いくつかの顔がありまして、一つは診療所の所長で、○○先生と同じように日本医師会のA会員でありまして、東京都の北区医師会で普通に医師会業務をやっております。また勤務している生協浮間診療所に併設している北部東京家庭医療学センターというところで家庭医療学関係の研究や教育にも携わっております。また医学教育全般に関心がありまして、一応自分では、専門は家庭医療学と医学教育学であると自称しています。


 きょうは、特に評価についてというお話だったので、私たちの施設における実践も交えながら私が学んでいる医学教育学の観点から、アセスメントとかエバリュエーションというのが、最近どういう動きになっているかということをちょっとお話ししたいと思います。 


 私は現在スコットランドにあるダンディ大学というところの医学教育学センターというセクションが提供している、遠隔教育による医学教育学のコースを受講しております。実際勉強している領域は、「カリキュラム開発」、それから「ティーチング・アンド・ラーニング」といって、これは教育学原論みたいなものです。それから、「アセスメント」というのは評価、きょう話題になっているものです。それから、「教育学研究」、そして「教材開発」といった内容をカバーしていまして、このコースの学生はみんな現場で教育に携わっている医師がほとんどです。診療等の仕事もやり、現場で学生を教えながら、それをセンターの方にフィードバックして、向こうからフィードバックしてもらうというようなコースです。
 先日佐賀で行われた医学教育学会に、ダンディ大学医学教育学センターの前主任教授のハーデン教授がいらっしゃいまして、ミーハーっぽいのですが笑、一緒に写真を撮らせてもらったりしました。

 

 実は、このコースを始めるときに、私は卒後研修に関心があるのだということをまずチューターにお話ししたら、だったら、向こうのチューター、まあサイコロジストなのですけれども、日本の卒前教育の問題点を一応整理しておきましょうというメールをいただきまして、いろいろ文献を向こうにも渡したり、レポート書いたりして、最終的にこういう結論になりました。  
 一つは、例えば何々大学医学部を卒業した時点では、うちの卒業生はこういう能力を持っているということが明確でない、つまり教育目標がハッキリしていないということが一つ。
 それから、実際にやってみる経験というのは少ないということで、クラークシップとかが従来少なかった。
 それから、とにかく最後に総括する評価、つまりhigh-stake testと言われているものが、実はかなりの部分が知識の想起を中心とするという国家試験になっているために、学習自体がsurface learning、つまり表層的な学習になって、deep learningつまり深い学習をすることはむしろ国家試験をパスするためには、ちょっと危ないと。なぜなら、全体をひろく、まんべんなくカバーしないと、深みにはまって試験に落ちますので、だから学生は余り深みにはまるのを拒否するのです。
 それから、あとはやっぱり情報をかき集める。問題解決にも、情報をかき集めるという方に主眼が置かれている。つまり、学生は教育目標よりも評価を見て、その学習スタイルを決めるものなのです。
 それから、例えばイギリスだと医学部は5年あるいは6年制なのですけれども、3年、4年、5年となるたび、だんだん医者らしくなってきたねという話になるんですけれども、日本の医学部の場合はいつまでも学生であるということです。メンタリティが、プロフェッショナルという形で涵養されていかないということがある。
 それから、あとは、まあ、これが向こうの先生がびっくりしたのですけれども、国試合格したら、突然医師免許が来て、しかも責任としては医師の責任をとらされるということで、この格差たるや大変なものがあって、これをかなり向こうの先生は問題視していました。相当ドロップアウトがいるのではないか。あるいは、デプレッションになったりとか、メンタルプロブレムを抱えたりとか、転科だとか、そういったことがふえるのではないかということを言っていました。
 それから、あとは病院ベースの教育が圧倒的で、地域ベース教育がないということが問題とされました。
 このあたりの問題を抱えた学生が、卒後研修に参入してくるのだということです。

 
 今の医学教育全体の世界的な流れ、トレンドですけれども、かつては、とにかく今、現時点でできる力をたくさんつける、あるいは、今、覚えている知識をたくさんつけるということを目標にして、とにかく講義をたくさんやり、実践もたくさんやるという形だったのですが、世界的には、もう全部教えるのは不可能、無理だという前提に立って、むしろcapabilityを、つまり今後自分で学び取っていける力をつけた方がいいと。自分の診療のコンテキストに沿って、きちっと自分で学習し、成長できるような医者を育てた方がいいのだということで、自己決定型学習法ですとか、あるいは問題解決、あとはモチベーションをきちっと維持する力とか、そういったことを養っていく方がいいのだという方向に流れています。これは実は日本の初等教育で盛んに言われている生きる力を養う教育とパラレルなものであるというふうに思っているのですけれども、これが今の世界の医学教育のいろんな改変を支える中心的なコンセプトといえます。Education for capabilityという考え方です。


 そういうずっと生涯にわたって伸びていく医者のためのカリキュラムの要件というのは、既にいろんな研究があります。一つはコア・カリキュラムをきちっとつくることです。コア・カリキュラムをつくるということは、要するに教育目標がきちっとしているということです。しかも教育目標はできるだけ少なく厳選されている方がいい。コアは小さければ小さいほど逆に得るものは大きいと言われています。そして、その学習者のニーズとモチベーションに合わせたエレクティブをきちっとやらせる。選択をきちっと用意するということが重要なのだというふうに言われています。  
 それから、あとは、実際にやってみる。見学ではなく実践であると。クリニカル・クラークシップ、あるいはクリニカル・ラボだとか、模擬患者、シミュレーターみたいなものをきちっと用意して、実際自分でやってみるということを保証していかなければいけない。  
 そして、教育の場として地域を重視しろと。これは今、本当に世界的な傾向です。イギリスでは、病院では余り身体診察を教えるほど患者がいないので、ほとんど診療所でGP(家庭医)がヒストリー・アンド・フィジカルあるいは、いわゆるclinical methodは全部教えるという形になっています。また、診療所とかコミュニティでの問題解決の仕方と病院の問題解決の仕方は質的に全く違うので、例えば、使うリソースに関しては地域では、保健、福祉のリソースを使ったりします。大きな病院の問題解決のやり方がそのまま地域で通用するわけではないということです。コミュニティとホスピタル、両方併用して、きちっと経験する必要があるのだということを明らかにしているという点で、まあ、そういうところからみてみると、日本における今回の卒後臨床研修の改革はなかなかいいというふうに思います。  
 それから、これもすごく言われているのですけれども、generic competence、一般能力と言われているものの教育が重視されます。まあ、社会人としての医師の一般能力みたいなもので、例えばマネジメント能力、チームワーク、コミュニケーション、問題解決みたいな、こういったことをきちっと教育するのだと。例えばダンディ大学ですと、解剖学のときにコミュニケーションスキルを評価しています。また、ちゃんとプレゼンテーションができるか、あるいは仲間うちで相談して役割分担がうまくできるかみたいなことも全部評価されていますから、この神経の名前は何だみたいな、そういう暗記した知識だけで点数がついているわけではないということになっています。  


 これらの視点から見ると、今度の新臨床研修制度は、非常に大きな変化だなと思っています。一つは、プログラム、カリキュラム単位の認定になった。これはすごいことでありまして、施設の規模とか、施設の医療内容によって研修ができるかどうかを判定したのが、実質的に教育で判断することをめざすようになった。それから、もう一つは、learning outcomesという、これは教育学用語で、研修最終教育目標みたいなものですけれども、それが明示されたということ。この目標がクリアできるように、研修内容を組織化するカリキュラムを開発しなければいけない。これは実はoutcome-based medical educationという、目標から何を教えるかを考えていこうという、そういう従来の教育のベクトルの完全な逆転でありまして、これはもう非常に大きなことです。例えば大学でもしlearning outcomesがはっきりしていなければ、つまり卒業時点でこういうことができるということが設定されていなければ、例えば第一内科をローテーションしたときに何を教えるか決定できませんから、第一内科で教える内容を厚生労働省が明示したということは、すごく大きいと思います。まあ今までは、第一内科の教官が自分の教えたい事、あるいは興味のあること、あるいは教室のテーマなんかを教えていたわけですからね。outcome-based medical educationは医学教育カリキュラム開発における世界的な流れです。  


 では、ラーニング・アウトカムズ(教育目標)って一体何だという、つまり、最終的な目標は何だということです。これはダンディ大学のlearning outcomesというコースのテーマでした。
 まず、「できる」こと、それからそれを「適切にできる」こと、そしてやっている医者が「プロフェッショナルである」という、これらが教育目標における三つのゾーンを構成しています。そのゾーン毎にさらに細かな目標を設定したりしています。
 私が現時点で運営している卒後初期研修プログラムのlearning outcomesですけれども、歴史的に言うと1982年に非常に小さな小規模病院を中心とした、まあ、厚生労働省からは全く認可されない、「インディーズ・プログラム」と私は言っていましたけれども、インディーズの地域医療のプログラムが立ち上がって、私は83年にこれに参加しています。その後、ずっとインディーズでやっていたけれども、30人以上が私たちのところから卒業して、いろんな病院で活躍されています。そして、この数年は地域のいろいろなニーズに合わせて、家庭医養成プログラムに再編成しています。
 このプログラムの見直しの時は、本日いらしている○○先生等にもいろいろアドバイスをいただいたのですけれども、そして2004年から、私たちのところの法人の王子生協病院というところを管理型の研修病院、ここは150床ですけれども、いろんな周辺の医療機関と連携を組んで、卒後臨床研修プログラムの認定を今申請しているところであります。


 さて、WHOのチャールズ・ボレンが提起した21世紀に求められる医師像ということで、ファイブ・スター・ドクターつまり「五つ星医」というのが提起されていまして、これが私たちの最終的な医師像だ、というふうに設定しています。
 一つ目は、家庭や地域の文脈の中で、患者中心の医療が実施でき、予防医療、ヘルス・プロモーション、患者教育、週末期医療を科学的根拠に基づいて高い水準で行うことができる。そのために、生涯教育を自己決定的に実施できるという、これをヘルス・ケア・プロバイダーというふうに言って、一つ目の星(スター)にしています。  
 次に、患者ケアや施設やチームの運営において、倫理的に妥当で、かつ費用対効果を勘案して意思決定ができるという、この部分がディシジョン・メーカーという星とされます。
 それから、3番目が、患者と効果的なコミュニケーションを行うことができ、長期にわたる信頼関係を構築できる。また、医療チームメンバー、さらには地域住民とのコミュニケーションに優れ、エンパワーメントすることができる。私たちは地域医療期間で、診療所とか小病院でやっていますので、こういうことがすごく重要なのですけれども、これをコミュニケーターという星になっています。  
 それから、地域からの信頼を勝ち得ており、地域における優先度の高い健康問題を同定し取り組むことができる。個別ケアと地域ケアのギャップを橋渡しできる。日本の場合、診療所をやっていますと、診療所でやっている個別ケアの部分と、それから保健センターとか行政がやっているパブリックヘルスの部分の乖離が物すごく大きくて、その真ん中の領域というのは非常に抜けているのです。小集団の健康問題とか、そういったことに関しては、すごく日本では抜けている部分だと思っていて、そのあたりはやっぱり日本では家庭医がやる仕事だろうと思っていますが、これをWHOではコミュニティリーダーという星として設定しています。
 5つ目の星は、患者や地域のニーズにあわせて、施設内外の医療・保健チームの中で協調的に必要な役割を果たすことができる。これは、マネージャーと呼ばれます。
 そして、プログラム開発を行うということは、この五つの最終的なlearning outcomesにどう到達するかということをどう評価するかということになるわけです。


 私がきょう、お話しするプログラムの評価というのは、研修医のミクロレベルの評価が中心です。例えばこういう評価システムをつくりましたが、実際に本当にそれは正しいのかとか、信頼性とか妥当性はどうなのかという話になります。そのあたりを教育学的観点からお話ししたいと思います。  
 一つは、こういうアセスメントの話を考えるときに非常に有用な図がありまして、これはミラーという人が、1990年に出した論文の中に使っている図で、コンピテンスというのは、この四つの段階で考えなければいけないといっています。一つは、「Knows」、そのことは知っていますということです。知識として知っている。「Knows how」というのは、これはその知識を一応、応用問題として生かすことができる。例えば国試で言うと臨床問題みたいなものにその知識を使うことができるということです。patient management problemとか、そういうふうに言われているような試験でよく使われます。「Shows how」というのは、その知識を実際に実施できる。公表としてできる、示せるということです。ただし、ある限定した場面です。そして、「Does」というのは、これは実際に診療の現場でやれるということです。実際に働いている場所でやれるという、この四つのレベルに分けて考えろといっています。
 「authenticity」というのは、真正性といって、教育学的に非常に妥当性が高いという意味なのですけれども、真正性は、私達の文脈でいうとより現場妥当性が高いってことだと思いますが、できるだけ現場でのカリキュラム開発の方向に持っていった方がいいというふうに言われています。  
 実際に評価法は、世界的にはもうずっと40年近くかけて徐々に形成されてきているのですけれども、Knowsについては、例えばマルチプルチョイスとか、多種選択問題とかで評価します。それは知っているかどうかを評価しているのです。Knows howというのは、やっぱりマルチプルチョイスで評価できるようになってきました。例えば今の医師国家試験というのは、マルチプルチョイスだけれども、Knows howの部分を評価することはできます。Shows howの部分は、最近非常に注目されていますけれども、OSCEという、ここでは詳しく言いませんけれども、先ほど写真に出たハーデン教授が開発したのですが、これが開発されたのが1975年ですから、もう30年たっているのです。
 では、Doesの部分、ではこの部分をどうするのかという、実際にやっているところをどう評価するか。例えばエスタブリッシュされた医者を評価できるのかという。例えば10年目の医者の評価は、どういうふうにするのだという問題というのは、実はつい最近まで余り発達しなくて、2000年前後ぐらいからかなりいろんなペーパーが出てきているという、非常に新しい領域です。日本はやっとOSCEが出てきて、このShows howの部分を評価するようになりましたが、それが実際に卒前なんかで、かなり導入されているわけです。
 Doesの部分では、実地臨床を評価する方法はまだ研究途上です。これをやれば一発でわかりますよというのは、まだ開発されていないということになっているらしいです。最近いろいろ言われているのは、mini clinical examination、後で紹介しますが、それからポートフォリオという、このふたつがパフォーマンス評価のところでいいのではないかというふうに言われているようです。
 mini clinical examinationというのは、米国内科専門医認定機構というところの依頼を受けて、ノルチーニという教育学者の方が開発をしました。とにかくレジデントの患者の診療を短時間で観察する。約10分から20分。ある評価表に沿って評価する。そして、一般能力の評価をレーティングスケールで評価する。例えばこういう実地パフォーマンス評価のとき一番問題になるのは、たまたまレジデントが相性のいい患者と合ったからすごくよい点数がついたのではないかという、まあ症例特異性というのですけれども、そういったことが物すごく問題になるので、できるだけたくさんいろいろの人が、いろいろの場面で評価した方が、信頼性が上がるということになっています。ですから、これはすごく短い時間でできて、割と手軽にできるし、4回以上やるとかなり信頼性が向上するという結果が出ているようです。実際の項目は、資料に載せましたけれども、例えば医療面接、メディカル・インタビュースキルはちゃんとできていますかというのを評価します。それから、身体診察。人間性とかプロフェッショナリズム、臨床判断、いろいろ書いてあります。実際の用紙はこういう用紙でありまして、何枚かつづりになっていまして、例えばここにメディカルインタビュー、1から9までグレーディングします。それはどれかというふうに、見た人が丸をするわけです。そんなのでわかるのかと思われるかもしれませんが、実はメディカルインタビューの構成要素を例えば100項目ぐらい挙げて、全部逐一こうやってチェックしたのと、実際にメディカルインタビューは、全体としてどうでしたという評価と、実際よく相関すると言われているのです。だから、余り細かくやらなくても、その点について経験のある人が見れば、かなり信頼度の高い評価が可能だという研究が出ています。評価したら、その場でめくって、それを研修医に渡して、君の評価、今こうだというふうにしていた。「どうして僕はここ6なのですか」と言われたら、そこについてディスカッションして、即フィードバックをするという形でやっていく。これが今いろんな領域で、特にアメリカではやっているようです。


 もう一つ、実はきょう、私が一番お話したいところでもあるのですが、先ほどの、ただミラーの三角形というのは、いわゆる診断治療領域の知識、技能、態度というようなもの中心にしているのですけれども、実はこれからの医者というのはそれだけではだめで、学び方を知っているとか、自己洞察、リーダーシップ、チーム運営、メタ認知、表現力とかreflection(振り返る力)だとか、こういったことをきちっとできるということがすごく求められていると言われていて、この三角形のところにメタスキルという形で当てはめて、これも同時にやらなければいけないのだと。先ほど○○先生でしたか、おっしゃっていたようなことというのは、実はこの領域に当てはまるというふうに考えられると思うのです。


 医師という一つのプロフェッショナルに必要な要件、つまり言い換えればプロフェッショナリズムの実質的な内容というのは、これはマーストリヒト大学のスライドを日本語にしたのですけれども、三つの領域があるようです。一つは、「仕事をうまくやっていける」部分に関するものです。ちゃんと効率的にマネジメントしたり、生涯学習ができたり、自分の限界も知っているというのが一つの領域。それから、2つ目の領域は「ほかの人とうまくやっていく」ということについてです。たとえばチームのメンバーの役割を果たせる。ほかのメンバーに責任がとれる。あるいはdysfunction colleaguesというのですけれども、問題のある同僚にきちっと物が言えるのが実はプロフェッショナリズムだと。それから、3つ目は「自分自身に対してうまくやっていく」ということで、自分の行動を批判的に見直したり、あるいは他からのフィードバックに対してオープンである。何でも言ってくれと。あるいは、みんなで自分たちの診療の内容とかをチェックしようと。そういうような態度を持つということがプロフェッショナリズムだと。このところをきちっと見るために、振り返りということが今盛んに言われていて、看護領域ではものすごく盛んにやられています。チューターをつけて、毎日振り返りしていますよね。それを私は医学教育、卒後研修に応用したのです。


 今までの日本の卒後研修の中心的な教育ストラテジーは、とにかくたくさん患者を診て、たくさんいろいろなケースに出会うことしかなかったと言われていたのですけれども、実はこの間、来日したボルダージュ先生という、イリノ大学の医学教育学の先生のお話などをおききすると、それは実証されているわけではないようです。本当にたくさん診れば、いい医者ができるのかというのは、まだだれもわからないのです。ただ、現時点で実証されているのは、確かに鑑別診断能力というか、その場のclinical reasoning skillというのは、たくさん診た方が明らかに育つというふうに言われています。でも本当にそれで全体としていい医者になるかどうかわからない。そういう教育研究の成果を勘案して、この振り返りという方法を使って、先ほどのプロフェッショナリズムという部分をやろうというのが、私が考える卒後研修のストラテジーです。当然そのためには、たくさん診る部分は以前より減らしました。


 まず、振返りというのは、自己評価が基本です。自己評価というのは、自分のいいところ、悪いところ、あるいは強いところ、弱いところをきちっと認識するということです。これは、研修当初は毎日やります。1日のあったことをみんなで振り返ります。あと、こうした自己評価は同僚とやった方がいいというのが、私らの今までの結論です。先走って言うと、それをまとめるとポートフォリオになるのです。経験をまず記録する。そして、学びを振り返り、特にその学びが教育目標のどこに位置づけられるかということをやることが重要です。そういう視点で振り返る。できたこと、できなかったこと、課題は何かということを認識し、そして評価者による読み込みを行って、評価者とディスカッションする。
 私たちの経験では、とにかく手探りでやったのですけれども、ケースログ、ケースを全部記録させて、学んだことを列挙する。症例とか疾患の一覧ではなくて、何をその経験から学んだかということを教育目標に照らし合わせて全部整理させるということ。それから、あとは心に残った症例をきちっと分析するということを重視しています。これはsignificant event analysisという方法です。そんなことをやっています。
 これはある研修医の一年目のポートフォリオです。彼女はsignificant event analysisでチーム医療に関する振り返りを詳しく書いています。彼女本人は在宅を希望し、娘さんは施設を希望したというケースから学んだといいます。「娘は患者が家に帰ってきて面倒見る気は全くない。娘は施設に入れて、現在患者が住んでいる都営住宅に移り住んで、自分が今住んでいるマンションを売ってお金をつくりたいというふうに考えている」、それでいろんなカンファレンスをやったと。何度も繰り返して、一応ゆくゆくは施設になるかもしれないが、とりあえずは在宅でという形で、ご本人、娘さん、両者それぞれそれなりに満足いく方針になったと。これが経験の中で彼女がどういうふうにreflectionしたかというと、初めていろんな他職種のカンファレンスを経験して、チーム医療を実感したと言っています。在宅設定という一つの目標に対して、それぞれの職種でそれぞれの専門性から異なった視点で患者さんを見ているため、持っている情報もさまざまだし、意見も異なる。それらの意見を引き出し、有効に生かしていくのはチーム医療、医師の役割なのだなと自分なりに学んだという、私はこれは非常にいい学びだと思うのです。またチーム医療になると、医師は意思決定者。先ほど、五つ星医の中にデシジョンメーカーというのがありましたけれども、それをここで位置づけているのですけれども、デシジョンメーカーとして大きな責任と役割を持っていて、それを果たすためにはキュア、つまり医者の役割ではなくて、ケア、つまりほかの職種たちのケアの部分の知識もやっぱり必要で、それがないとやっぱりチーム医療ができないという振り返りをやっているのです。まあ、こんな感じでやっています。


 まとめです。とにかく、新しい卒後臨床研修制度においては、評価がキーポイントになる。そして、パフォーマンス評価法は、ごく最近開発されたばかりで、いろいろ手探りですから、ぜひここにいらっしゃる皆さん、関心のある方と一緒に開発などをしていきたいと思います。今のところ、mini clinical examinationとポートフォリオが有力だと考えていますので、一応この二つに僕らも少しトライしていきたいと思っています。

 

Onlooking

お節介な家庭医療がめざすこと

 25歳の男性が、咽喉が痛く、37.5度の熱があるとのことで、ある日診療所を訪れました。所見からウイルス性の咽頭炎つまりは、「カゼ」という診断をしました。ここで、薬を処方し、診察を終了するというのが、まあ普通の診療ですし、それ自体は正しい診療です。しかし、家庭医療学の観点から見た場合は、さらにいろいろ考える必要があります。

 

 処方箋を書きながら「他にかぜ引いている人います?あ,何人暮らしですか?」みたいな感じで、家族構成を聞きます。すると、23歳の妻と6ヶ月の息子の3人暮らしであることがわかりました。この時期の家族が直面する課題は子育てといっていいでしょう。「子育て大変ですか?」「奥さんの手伝いをしてます?笑」とさりげなくたずねると、もしかしたら育児に関する困難があることがわかるかもしれません。場合によっては、家庭医として、彼の妻の相談にのれること(産後うつ、妊娠中に指摘され放置されている高血圧や蛋白尿など)があるかもしれません。

 

 さらにこの患者さんは喫煙者でした。子育ての時期に禁煙を勧めるのは意味がありますし、禁煙のチャンスになるかもしれません。また、子供がよくカゼをひくというような情報があれば、禁煙のモチベーションの強化ができるかもしれません。

 

 はじめての患者さんだったら、さりげなく、血圧も測ります。カゼをきっかけに若年性項血圧が発見されることも、実はよくあります。また、職場の健診でなにかいわれていないか聞いてみると、肥満と脂肪肝が指摘されているが、放置しているのかもしれません。最後に「何か他に気になっていることある?なんでもいいですよ」と質問することなども有効で、意外な相談(勃起不全とか、爪白癬とか)をされることがあります。

 

 こうしたアプローチは、病院の専門外来などにおけるそれのような、従来の診療の枠組みをあきらかに超えているのかもしれません。カゼのような単純な医学的問題でも、家族に関心を寄せる、あらゆる機会を通じて予防医療を行う、ライフサイクルにそった支援の可能性をさぐるというような、家庭医療の原則にそってアプローチすることが可能です。

 これらのような、ある種のお節介を、お節介と感じさせないようなコミュニケーション・スキルも必要です。

 

 そして、家庭医は、何かあったらまたこの医者に相談しようと思ってもらう診療を心がけるのです。そのためには、年齢、性別、健康問題の種類によらない、非選択的な診療の能力をつける必要があり、そうした力を身につけるための研修が、本来の総合診療や家庭医療の専門研修プログラムが目指すところなのです。

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なぜ省察的実践家としての家庭医なのか?

 地域のかかりつけ医としての家庭医はどのようにして育つのか?これは私自身がどの様に自らを成長させていくかということでもあり、また若い家庭医をどう教育し、育てればいいのかということにもつながります。

 家庭医の仕事の特徴は何でしょうか?たとえば、ある医師が自分に出来ることの一覧を提示し、それに合う患者さんを診ることが、診療だとすれば(Selectiveな診療)、その医師は自分が診るであろう問題に対処するための準備をあらかじめしておくことが可能です。しかし、家庭医が真に地域で機能するためには、非選択的診療(Non-selectiveな診療)すなわち「よろづ相談」を行う必要があります。このよろづ相談というのは、あらかじめ準備しておくことが難しいのです。しかも、「それは自分の専門ではない」ということで、入り口で断ることをしないのが原則です。また、そもそも問題が生物医学的な視点だけでは対応できないこともおおく、心理、家族、地域、社会などの問題が複雑に絡み合っていたりしますし、診断をつけること自体が不適切な場合もあります。そして、意思決定や問題解決の際には、科学的な根拠(エビデンス)だけでなく、患者さんの考え、医師の価値観、メディアやコスト、医師患者関係の文脈などが相互に影響しあいます。

 こうした現実世界の問題解決が出来るプロフェッショナルのことを、教育学の領域では「省察的実践家」と呼びます。この「省察的実践家」は、日々の仕事の中で感じる、驚きや引っ掛かり、また失敗を、きちんと事後的に振り返ることで育ちます。家庭医を目指している若手医師には、日々の医療実践や患者さんとの出会いの中で感じる様々な気づきを流すことなく記録するように指導しています。これは医学的なものを超えて、患者さんの生活、チーム医療、社会的な問題など、様々な領域に及びます。それを、定期的に集団やチームで振り返ることで彼らは多くを学んでいます。これは家庭医の生涯にわたる学び方そのものでもあるのです。

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ソロプラクティス開業を考えている若い医師へのアドバイス

  最近、各専門内科や外科系各科の中堅医師から、「開業することになっているんだけど、なにを勉強すればいいの?」「研修しなくても大丈夫?」という質問をされたり、アドバイスを依頼されることが増えているような気がします。むかしみたいに、コンサルタントだけと話し合いながら開業するのは不安もあるようです。

 今回のエントリーでは、そうした方を想定して、症例を提示し、通常の生物医学的な診断治療以外のアプローチが診療所においては重要であることを理解できるように、かなり「入門的」なことを書いてみようと思います。

 

症例1 17才の女子高校生が3日前より生じた咽頭痛で来院した。扁桃の発赤、白苔付着があった。体温は37.6℃であった。

 初診患者を診る場合、今後その患者のかかりつけ医になるつもりがあるなら、「次に何かあったらまた相談してほしい」と考えたほうがいい。そのためにはこの患者にどうアプローチしたらよいだろうか。むろん十分にこちらの考えを説明し、納得のいく治療をしなければならない。

 そして、主訴は咽頭痛だが実は、いつもはこの程度では受診しないのだが、明後日学校の試験があるから今回は来院したのかもしれない。受診理由と主訴は違う。受診理由に応えるのが次の受診につながる。かかりつけ医は、主訴と受診理由の両方に応えなければならない。

 また、この地域で役に立つ存在になるためには、予防医学的介入は非常に大切である。たとえば処方箋を書きながら、喫煙の有無を聞くことは重要である。「タバコはすってないよね」という声かけはしたい。もう一つは、「ほかに心配なことは?どんなことでもいいですよ」と聞くこと。次になにか相談事があったら来てほしいからこの質問が重要となる。さらに17歳という思春期がどういう時代か。ライフサイクル上この時期がどういう時期かを知っている必要がある。

 

症例2 43歳男性で初診。主訴は頭痛のようだ

 新患である。その日はインフルエンザのシーズンにあたってしまい、時間的に余裕がなく、頭痛の性質と経過を聴取し、簡単な身体診察を行い、筋緊張性頭痛と診断。NSAIDを処方した。「あまり心配ないと思いますが、よくならなければいつでもどうぞ」と説明して診療を終えた。

 その翌日この患者は別の大学病院を受診した。

 なぜこの患者は翌日総合病院を受診したのだろうか?
 実はこの男性は、半年前から職場が変わり、終日コンピュータのディスプレイを見る仕事になり、肩こり、後頭部の「じわっ」とする痛みを自覚するようになったが、仕事の影響だろうと考えてそれほど心配していなかった。ところが2週間前に同僚がくも膜下出血で緊急手術をうけるという事件があった。そのことを夕食時妻に話したところ、「あなたの頭痛ってくも膜下出血じゃないの?お医者さんにみてもらったほうが、いいんじゃない?」といわれ、受診したのだった。

 しかし、めったに医者にかからないので緊張してしまい、質問に「はい」「いいえ」と答えるのに精一杯で、大丈夫といわれて「やっぱり仕事のせいだよな」と納得して帰ってきてしまった。妻にそのことを話すと、「ちゃんと検査してもらわないとだめよ。明日大学病院に一緒にいってあげるからMRIとかいう検査をお願いしましょうよ」ということで、翌日別の総合病院を受診したのだった。
 このケースが示しているのは、症例1で示したように、医学的診断治療に必要な情報である「主訴」となにを求めて受診したのかという「受診理由」が異なっていたということである。つまり、主訴=頭痛(Headache)、 受診理由=「くも膜下出血が心配」ということだった。
 患者は何か心身の異常を感じたり、怪我をしたりすると、「これは医者にいったほうがいい」と決断し、受診する。むろん、あまりに症状が重かければ、「この症状をなんとかしてほしい!」ということになり、主訴イコール受診理由になる。しかしプライマリ・ケア外来では、患者は自分でなんらかの決断をして受診にいたる。しかも、同じ程度の頭痛であっても、医師にかかるものもいれば、手持ちの鎮痛薬で様子をみるものもある。「医者にかかろう」と考えるなんらかのドライブがかかる理由は様々である。重い病気ではないだろうかという不安、こういう時は医者にいったほうがいいという家族内の基準、うつ気分がありものごとを悪い方にとらえてしまう状態、ライフイベントがあった、会社で医者にかかるように指示された、などがあり得るが、それらはすべて心理社会的な内容である。

 つまり、なんらかの相談で外来を訪れる患者は、医学的な主訴という医学生物学的分析が必要な要因への対応とともに、受診理由という心理社会的要因に対する対応が必要なのである。この診療の構造的特徴をかかりつけ医は熟知している必要がある。
 
症例3 1才男児が予約にてDTP1期4回目で来院。転居にて本日初診である。体温37.0℃、元気いっぱいでニコニコしている。

 この子にこれから先何かあったらまた、来院してほしいと思っているのだが、それではどうするか?

 それは、母子というユニットで考えることである。

 まずは、母親に育児上困っていることを聞くことが大切であり、質問に答えるスキルがなければならない。母子手帳を読み解く力、第1子にありがちな相談に応じる力が必要である。次に、母親の健康状態について気を配ること、とくに妊娠中に指摘されていた問題(尿糖陽性や高血圧など)を本人自身が無視している場合もしばしばある。母親の健康相談にものれるようなプレゼンスをもてば、よりかかりつけ医らしくなるだろう。

症例4 54才の鮮魚店主、男性である。2日前より急に腰痛が生じて来院。自治体健診は毎年受けているが、中性脂肪高値のみ指摘されている。

 一般的な症状に関する危険なサイン(red flags)をかかりつけ医は知っていなければならない。たとえば、急性の腰痛で高熱が出ていたら、菌血症・椎間板炎などを考慮する必要があるので「危険」である。しかし、実際には診療所では歩いて受診する腰痛患者が多いことと、歩いてこられるのであればほとんどは病歴と身体診察のみでよく、精密検査はいらないものである。

 そして、受診理由を明らかにする。

 痛み自体をなんとかしたいのか、あるいは、我慢は出来る程度だが、仕事上支障になって困っているのか、それを把握するスキルが欲しい。腰痛で、そうした診察をせずに漫然と専門科に紹介するような習慣になると、その問題で相談しに来院することが殆どなくなる可能性が高い。かかりつけ医はなんでも診れるようになる必要はないが、なんでも相談にのって問題解決への道筋をつけることはできなければならない。
 なお、中性脂肪軽度上昇なら、「健診でなにかいわれていませんか?」ときくと「特に何も言われていない」と答える患者は多い。健診異常は、しばしば患者自身の健康信念によって解釈されているので要注意である。「中性脂肪や尿酸はどうですか?」と的をしぼってきくとよい。

症例5 62才の男性会社員が、10年来の高血圧症で定期受診。血圧132/72であった。

 高血圧症のガイドラインは見たことがないという開業医は案外多い。医学教育においても、病棟研修中に高血圧症の治療がディスカッションになることはほとんどないし、外来研修でも、安定した問題ということで検討対象にならないこともある。

 しかし、診療所においては、血圧で薬を飲んでいるということはどのような意味があるのか。何のために、そして治療のゴールは何なのか。その根拠をかかりつけ医は知らなくてはならない。総合病院に安定した高血圧で通院するようになったきっかけが、それまで通院していた開業医では、高血圧についての説明をもとめても、あまりくわしい説明がなかったことである、という話はしばしば経験するところである。
 また、62歳ならば、定年の問題に注目すべきである。定年は非常に大きなライフイベントであり、そこから生活習慣の変化など、別の問題が生じていることもあり得る。「そろそろ定年ですね」という声かけは、隠れた、しかし重要な問題に気づくきっかけになるだろう。

症例6 54才女性で専業主婦。6ヶ月前に2型糖尿病指摘されて、食事指導、運動指導受けている。経口剤内服にて、HbA1c 10.8⇒9.4とコントロールは不良。娘17才、息子16才、夫59才、義母82才と同居。現時点では合併症はない。

 かかりつけ医はその患者の家族のことを把握すべきであるが、すべての患者に一律に家族の状態を聞くというわけではない。

 家族図を作成するべきトリガーがある。

 なんとなく治療がうまくいかない、どうも共通の理解基盤に立てない、服薬指導をしても飲まない、などがトリガーになる。

 この患者も実は薬を服用していなかった。そのような場合、カメラにたとえると、広角レンズを使ってアプローチするのが、かかりつけ医としての開業医の方法論である。一歩引いて患者の全景を診る。家族ライフサイクル論からすると、思春期の子供のいる家族は夫婦間満足度が最低ということである。思春期のこどもは激変期で、家族内ストレスも大きい。また54歳という年齢は親の介護に当面する年齢でもある。このような状況からこの患者が「自分の病気どころではない」と思っている可能性がある。そういう想像力をはたらかせることだ。

 実際この患者が糖尿病であるということを知っていた家族メンバーはいなかった。

 ではどうするか。まず、夫を呼べばよい。「こんど一度ご家族と一緒に来ていただけませんか?」という声かけはしばしば有効である。一般に思われているほど家族ケアは難しくはない。話すことで患者の振り返りが深まり変化が生じるものである。医師が「導く」べきなどと考えるべきではない。

 

症例7 18才 男子高校生が大学受験のための診断書作成希望で来院

 私は、現在の診療所に赴任してから約25年で、この高校生は乳児健診から診ているが、定期通院が必要な慢性の病気はない。しかしなにかあると来院している。慢性疾患はないが彼にとって私はかかりつけ医である。

 かかりつけ医とはある病気を継続的にフォローアップする医師という意味ではない。 その地域で暮らしていくうえで、医師が必要な場面があるとき、まず思い浮かぶ医師が、本来のかかりつけ医である。インフラみたいなものである。

 街が機能するためにさまざまな商店や学校などが必須のコンポーネントとしてあるが、とりあえずなんでも相談にのれるかかりつけ医もそうした共同体が存立するための要件のひとつである。こうした事例にやりがいを感じたときに、その開業医はかかりつけ医としてのマインドセットを獲得したといえるだろう。


症例8  89才の女性が来院。主症状は「夜間尿失禁」である。同居の息子夫婦に連れられて来院した。

 かかりつけ医としての開業医に今後求められる役割は、高齢者、特に虚弱高齢者のケアである。この領域についてのスキルを磨かないと、経営的にも厳しくなるだろう。通常の医学生物学的診断治療のみで解決可能な健康問題の割合は、虚弱高齢者の場合は約半分である。日本の老年医学に関する教育は貧弱なので、老年医学を、その基本的な視点も含めて学ぶことは、開業医の生涯教育上きわめて重要である。
 高齢者は漠然とした症状が多いので、まず、この人はどのような生活をしているかを調べる。ADL、IADL、認知機能、社会的サポート状況は最低限聴取したい。
 結局、この患者はもともと糖尿病、心不全で他院に通院していた。利尿剤が最近増量され、夜間尿が増えた。もともと膝関節症で動きがおそく、白内障の悪化でくらい廊下をトイレまで歩くのが困難だった。これらの要因が重なって、夜の排尿が間に合わなくなったことがわかった。これらに病態生理学的な因果関係はなかった。問題が累積した結果である。虚弱高齢者ケアにおいては、主訴に関係なく、全体を評価することが必要である。高齢者ケアは視野が広くないとできない。

ちょっと、まとめてみます。


患者さんへのアプローチ法:受診理由を探るための声かけのポイント

1.生活機能への影響は?
患者の健康問題は、患者自身の日々の生活、ADLなどの日常生活動作、あるいは仕事、学校生活などにどのような影響を及ぼしているか。
2.解釈モデルは?
患者は自分の健康問題は何に由来していると考えているか、その原因、今後の見通しをどう考えているか。
3.現在の感情は?
患者は自分の健康問題についてどういう感情をもっているか、あるいは感じているか。特にどのような不安をいだいているか
4.医療への期待は?
患者は医師あるいは医療者、施設に何を期待しているのか、何を求めて来院したのか。

After Party

 

 

13年前の「教育学」VS「家庭医療」の対談を読み直す

 今回のエントリーは,今からおよそ13年前に,当時東京大学教育学部教授でおられた佐藤学先生との雑誌企画対談を収録したいと思います。すでに,この記事を手に入れることは、現時点ではほぼ不可能なため,手元の資料をもとに再構成してみました。実際に出版されたときとは微妙に異なっていますが、ほぼ雰囲気は再現できました。

 この対談には現在の僕たちが直面する問題群や重要なキーワードがたくさんでてきますし,どのようなベクトルで行動すればいいのかのヒントが随所にあらわれているため,ぜひ若いヘルスケア・プロフェッショナルの人たちに読んで欲しいとおもったのでした。またベテランの医療者も自身の歩みを振り返るきっかけになると思います。

 当時は卒後臨床研修必修化を受けて,医学教育に関する言説が花盛りの時期で,僕もその一端にいた関係で,このような異例の対談が実現したのでした。

 今読み返すと,このときに自分が考えていたことが今も自分自身の課題になっていること,そして佐藤学先生からの影響の大きさに気づきます。

 それでは,スタートです!

 

藤沼(康樹) 僕自身が、診療所でプライマリ・ケアといって、(患者さんの病気について)最初に相談にのる仕事をしています。この雑誌の読者には、そういう方が多いのですが、教師というか、教えるものとしての仕事がすごく多いのが特徴です。もちろん、患者さんの病気について何かを教えるということがありますが、同僚である看護師さんたちと一緒に勉強をしたり、最近は研修医を受けたりもしていますので、教育にかかわる機会が増えています。
 あともう1つ、すごく重大な問題があって、生涯教育といって、医師としての自分自身をどう「教え」アップデートするか,あるいは成長していくかというようなことがあって、「教育」というのは、プライマリ・ケアの中でのキーワードだと思っています。その点で、先生の“プロフェッショナル論”というのは、僕らにとって非常に新しい視点でしたし、示唆的だなと思いました。


佐藤(学) いま、お話をうかがって、なるほどと思ったのですが、僕は、教師教育の研究という点で専門家教育に関心をもっているのですが、教師というのは、英語で“teaching profession”といいます。しかし、現在の教師たち、特に創造的に仕事をしているとか、社会的役割をきちんと果たしている教師たちの仕事を見ていますと、教えるよりも、はるかに学ぶウェイトが大きくなっています。
 だから僕は、21世紀の教師は“learning profession”、学びの専門家になるべきだと思っているんです。


藤沼 カッコいいですね!


佐藤 カッコいいでしょう?(笑)。 いつも思うんだけど、僕って、なんでこんなに次から次へとカッコいい言葉が出てくるんだろうって。天才じゃないかと思うんですよ(笑)。まあ、それはいいとして、“learning profession”だと思うんです。
 ところが、振り返ってみますと、“learning profession”は教師だけではなくて、医者とか、弁護士とか、大学の研究者のように、いわゆる専門職、広くprofessionalと呼ばれる人たち全員がそうで、何らかのかたちで教える仕事に携わっている人たちの学びのウェイトは、むしろうんと大きくなっているんじゃないかと思うのです。
 逆にいうなら、学びが豊かにならないprofessionalには仕事ができなくなってきている状況が広がっているのではないかと思うのです。これをやや理論的にいうならば、近代の専門職の規定の枠をもう1つ枠を超えたところに、新しい専門家が登場している。これは、われわれが無意識のうちなのですが、その状況に応じて、必要に迫られて、そういう状況を迎えているわけで、専門職の概念が大きな転換点を迎えていると考えるべきではないかと思っています。
 その問題を考える際に、いちばんネックになるのは、日本にはまだprofessionalという概念がないことです。これが最大の桎梏だと思っています。昨今、さまざまな専門職大学院が創られていますけれども、その多くは実務家の養成という発想ですよね。一方は、学問研究に専念する大学院ということで、完全に対極に分かれています。


藤沼 医者でもそうだと思います。


佐藤 そうですよね。そういう発想ですよね。
 日本で専門家という場合、その多くがspecialistを意味すると思うのですが、英語のspecialistを日本語に翻訳すると同じ「専門家」になってしまうものだから、professionalとの区別がつかない。だから、日本の中には専門家、専門職という意味のprofessionalという概念がほとんど成立していないのです。僕は、これがまず突破しなければいけない、大きな問題だと思っています。


藤沼 なるほど。


佐藤 そこで、professionとは何かということです。もともとprofessという言葉は、神様の宣託を受けた者、神の使命を引き受けた者のことです。ですから、professionalを最初に与えられたのは牧師です。その次にprofessionalと呼ばれたのはprofessor、大学教授です。その次が医者で、次が弁護士、その次が教師です。
 このことが意味しているのは、いわば人知を超えた仕事、本来、神様が行うべき仕事を、神様に代わってするということです。これが、近代になってきますと、神様が消えますから、残ったものは2つです。1つはpublic mission=公共的使命です。公共の福祉に貢献する、missionによって規定されている職業です。それからもう1つは、科学知識と技術です。医療が神様に代わって、祈りの作業から手当てに変る。よくいわれるhospitalというのはhospitality、つまりおもてなしだったわけです。それから、手当てにはhanding onという言葉があるように、手を置いて苦痛を和らげることです。ですから、中世の医療というのは修道院で行われました。
 それは、治療を行うと同時に、痛みを分かち合って、さらにいうと死を看取ったわけです。そういう宗教的な意味合いと、現実の医療とが一体になっていき、その中で技術の部分だけが突出して近代の専門職を創りだしました。ですから、近代の専門職というのは、基本的に科学技術に支えられているわけです。
 そういう意味での専門職ですから、そこでの実践というのは、科学技術を合理的に適用するのだという考え方です。もちろん、ここで専門分化は始まっているのですが、ともあれ、その近代の専門職がいま、壁に当たっていると僕は見ています。もともとmissionと専門的な知識・技術、そして社会的責任にによって支えられていた  professionalの概念がないので、専門家教育が(本当の意味の)専門家教育にならないわけです。


藤沼 ちょっと政治的な話になってしまうのですが、先生はこの本の中で、教育の公共性がネオコンみたいなかたちで失われていって、ある意味、市場原理の中で本来、公共性をもっている学校が、ショッピングモールのようになっていると…(おっしゃっています)。
 たぶん医療も、かなりそういう側面があると思います。


佐藤 あるでしょうね。


藤沼 たとえば患者さんのことを、最近はconsumerといったりします。
 そのあたりのことでいうと、医者は、今度はconsumerに合わせてどういう商品を提供するのかという発想で技術を身につけたりしなければならないのではないか?みたいな傾向が、けっこうここのところあって、そのあたりが医学教育の現場にも影響しているかなと思っています。
 僕なんかは、先生のおっしゃるpublic missionというのはすごく重要だと思います。たぶん、いまの医学教育というのは、ある意味でbiomedicalモデルでかなり押していきますから、医師にイメージというのは、ある意味で車の修理に近くなっているかもしれません。つまり、故障しているのはどこで、それをどういうふうに修理するかを勉強するというイメージです。ところが、医学部に入るときには、ぜんぜんそうじゃなくて、わりと「社会のためになるにはどうするか」とか、「どうしたら人の役に立てるだろうか」という感じで入ってくるのですが、だんだんそれが風化していってしまって、けっこうcynicalになるんです。


佐藤 まったくそうですよね。


藤沼 そのあたりの状況というのは、先生のご著書を読んでいると、学校の先生たちが陥っている状況と似ているなと思ったんです。


佐藤 医療も教育も似ていると思うんですが、末端に行くと、二極分解しているんじゃないでしょうか。ある宗教家が面白いことを言っているんですが、「いまや、宗教的なものは教会から最も遠いところにある」と。これは納得できますよね。つまり、教会が宗教性を失っているわけですよ。日本の寺院もそうですよね。宗教的な事柄が、ほんとうに宗教的なものとしてあるのは、いちばん末端の、宗教とはおよそ縁のない人たちのところにあって、彼らは祈ることで宗教的なものの価値を引き出しているわけです。そういう面は、やはりあると思います。
 だから、医療においても、最も医療的なものは、もしかすると大学の医学部から最も遠いところにあるのかもしれない。それで、プライマリケアに従事されている方の中に二極分解が起こっているんじゃないかと推察するのです。


藤沼 かなり当てはまると思います。


佐藤 これは教育もそうですが、一方では、サービスになり、商品になってconsumerに消費されていく医療がある。そしてもう一方では、サービスではなく責任なのだというかたちで、患者の問題を引き受けていく医療がある。そうやって引き受けていく中で、医療のもつmissionの意味とか、医療の深い知恵や高い技術といったものが改めて問い直されていくというかたちではないでしょうか。


藤沼 先生のご著書には、たとえば学校が危機に瀕しているというときに、たしかに制度的な問題解決法というのがあるんだけれども、存在論的な問い方で、「教師とは何か」とか、「学校とは何なのか」「教育って何なんだ?」というようなことを問い直さない限り改革はあり得ないという書き方をされていました。いまの医療は、たぶんそういうところがあって、「医者って何だ?」「医療とは何だ?」ということを問い直す時期にきているんだと思います。
 そこで、先生の「学び」という言葉、いい学びとは何かということなのですが、特定の技術のエキスパートとか、科学的技術の適用者ということではなくて、先生が先ほどおっしゃったprofessionalとして育つための学びとはどんなものなんでしょうか。


佐藤 それはすごく難しい問題ですが、まず、professionalが使っている専門的知識や技術とはどういう性格のものかということを考えます。そのときに、僕はよく職人と比較するんです。職人の場合には模倣で学びます。


藤沼 親方に従事して学ぶ方法ですね。


佐藤 そうです。たしかに、教師や医師や弁護士の場合も、その側面があることは、あながち否定できませんよね。たとえば研修病院に行って、いい先生につくかたちで、見よう見まねでいろいろなものを吸収する部分というのが必ずあると思います。それは一種徒弟制度的な学びです。この機能を、おそらくは専門家教育は失ってはいけないと、僕は、一面ではそれを認めています。
 たとえばわれわれは研究者養成をやっていますが、これはmentoringといってteachingよりもゆるやかなかたちのもので、親方を見習うようなかたちの学びです。大学院での指導教官のことを、英語でadvisorともいいますが、mentor professorといういい方もあります。弁護士の場合も、弁護士事務所に入ると、最初はバリバリやっている人の横についてやり方を学んできますが、この要素というのは抜きがたく存在します。
 僕も、院生には「まず、俺の真似をしろ」と言います。要するに、お作法を学ぶわけです。たとえば資料の扱い方、論文発表の仕方、提示の仕方、議論の仕方といったものは、お作法として身につけないと、この業界では務まりません。そのお作法の1つ1つが、プロになっていく上では重要なわけです。
 では、職人とは何が違うかというと、経験からだけは学べない最先端の技術だとか、その道の専門家しかもっていない知識といったものがある。しかもその部分の多くは、おそらく他者の経験、自己の経験の省察から導き出されるようなもので、いわば実践知のようなものです。その知識や見識がしっかりしているから、われわれは専門家を信頼できるわけです。その点が、たぶん職人とは違う。しかし、それがどう学ばれるかとなると、ものすごく難しい問題です。
 僕はよく例に出すのは、自転車の乗り方です。「自転車に乗るには、ペダルはこう踏んで、ハンドルはこう握って…」と分析して伝えたとしても、おそらく乗れませんよね。なぜ乗れないかということですが、どんなに科学的な技術を利用しようとしても、実践的な問題の解決には独自の文法があるはずで、そこを習得しなければいけないということです。個々の要素をいくら学んでもできません。


藤沼 すると、ただ経験するだけでは駄目で、ただ真似をしていても駄目で、ただ本を読んでいても駄目だということですね。


佐藤 そうです。ちょうど、子どもが母国語は文法を意識しなくても喋れるように。だけど、それを教育するためには、それを分析的にきちんとした知識にしていかないと、専門家教育は成り立たないと僕は思っています。ですから、すぐれた医療をしている人、あるいはさまざまに複雑な問題解決に立ち会っている人たちの仕事から学びながら、それをできるだけ目に見える技術や知識のかたちにしないと、専門家教育は成り立たない。


藤沼 言語化するということですか。


佐藤 そうです。理論化するということです。implicitな、つまり見えないセオリーを発見し、啓発していく。この機能がないと、できません。そして、これはたぶん、専門家教育の中に最初から埋め込まれていると思います。
 というのは、いわゆるprofessional educationがスタートしたのは1870年代のハーヴァード大学においてなんですね。ロースクールとか、メディカルスクールが実際に専門家教育を始めたときに、採用された方法は事例研究です。ロースクールの場合は判例研究、医療の場合は臨床研究をします。そして、医学教育の場合はフレックスナー(A. Flexner)のレポートというのが1910年に出ます。これで、ジョンズホプキンス大学が、大学院における医学の専門家教育のモデルを創るわけです。このフレックスナー・レポートの中にあったのは臨床科学です。つまり、ベッドサイドで実際に臨床をしながら、それまでの医学的な専門的技術・知識を統合するというプログラムで、その前に教養教育があるということが前提で、それは共通しています。
 たぶんそれは、実践的な診断と判断のためのものだと思います。ですから、普通、教育というと知識を教育するんですけれども、専門家教育というのはeducation for judgmentといって、判断力を形成するもので、そういう独自の方法をもってきたと思うのです。専門家の学びというのは、一般の学びとは違ったスタイルをとるわけです。事例を学びながら、そこに埋め込まれた目に見えない関係とか、見えない真理というものを絶えず判断しながら行っていく。つまり、既存の医学教育の研究で、いくら最先端の知識をもっていても、それはレパートリーでしかないわけで、実際の診断から医療のプロセスに組み込んでいく能力や判断力はつきません。そういう教育が必要なんだと思います。


藤沼 僕がやっているような仕事は、「僕の専門はこれですから、こういう患者さんだけ来てください」というわけではなく、non-selectiveに患者さんをうけとめるというような側面が強く、、前もって準備するということができません。患者さんが目の前に来てから、「え?」「知らない!」「どうしたもんかな?」というようなことがすごく多い領域なんです。そういうときには、スタッフで「あの患者さんなんだけど…」みたいな感じで、ワイワイやるんですが、たしかに言語化はしていないかもしれません。経験というのはたしかにあるんですが。


佐藤 勘とか、コツとか、経験からくる洞察というのが、非常に重要な意味をもっていますよね。


藤沼 たとえば若い先生に教えるときには、実際にはケースでディスカッションをするんですけど、ケース・メソッドみたいなものを少しフォーマルにやって、それを言語化させるというのがいい方法でしょうか。


佐藤 先ほど言いましたが、近代の専門職概念の壁というのは、そこにあると思うんです。近代の専門職教育というのは、基本的に専門的な技術の実証主義によって固められてきましたので、専門分化がどんどん進みましたよね。それで明らかになった知識や技術というものを、患者のケースにおいて適用していくわけですね。


藤沼 そうですね。


佐藤 そこにいくつかの問題があって、知識の階層秩序をつくるんですね。基礎科学がいちばんトップにいて威張っています。それから応用科学があって、臨床科学があって、いちばん末端で実践に携わる人間が、いちばん下に置かれます。教師がそうです。


藤沼 医者もそうです(笑)。


佐藤 基礎科学の連中がいちばん威張ってますよね。


藤沼 う~ん(笑)。


佐藤 個別になればなるほど、地位が落ちていくんですね。これは変な話です。患者にいちばん近いところが、いちばん貶められているんですから。しかも、この教育方法というのが、基礎から順番に入っていくんです。教職もそうで、教育原理から入って、だんだん専門分化して、最後に実習です。
 この知のヒエラルキーの構造というのが、壁にぶち当たっているんです。そのことを最初に指摘したのは、ドナルド・ショーン(Donald Schön)という哲学者です。“Reflective Practitioner”という概念で「反省的実践家」といっている本ですが、technical expertはもはや市民が直面している問題をまったく扱えなくなっているというんです。それはなぜかというと、自分の専門じゃないと切ってしまうからです。


藤沼 なるほど。


佐藤 それから、患者の声を聞こうともしないで、診断して、当てはめるだけです。いまの市民というのは、非常に複雑な社会環境や医療状況の泥沼であえいでいるわけです。それを、高みの見物をしているようなものだという立派な批判です。


藤沼 重要な指摘だと思います。


佐藤 やはり、いま活躍している専門家たちは、皆、そのドロ沼に降りて行って、患者と一緒に格闘しているじゃないか。それが、従来の専門職の考え方をずいぶん変えているのだというわけです。そしてそのときには、先ほど言いました、勘やコツが働くし、経験から学んだり、他の専門家と協働で仕事をする。そういう新しい専門家が登場していると、おっしゃっている本なんです。
 これは1983年に出た本ですが、僕は80年代の終わりに読んで衝撃を受けて、「これだ!」と思いました。それで翻訳したのですが、医者も、教師も、弁護士もそうですが、専門家がいま直面しているのはこの問題ではないかと思いました。


藤沼 医療も相当細分化していて「これは自分の領域じゃないな」と判断したり、「自分の領域だ」と判断したりするような、けっこうselectionせざるを得ない構造があるんですよね。だから、その点では、先生のおっしゃるような弊害が、たしかにいま出つつあると思います。
 ところで、たとえば経験から学ぶといったときに、間違えて学ぶ場合というのがありますよね。ある意味、独りよがりだったりとか、自分で納得したはいいけれども、端から見ると違うという話もあったりしますが、そのあたりでいい振り返りをするというか、省察するにはどういうふうにしたらいいんでしょう。


佐藤 これは面白い問題で、近代の専門職というのは確実性、certaintyという原理で動いているんですね。つまり、あるケースに対して、ある確実な知識や技術が緻密につくられているものほど高い専門性を与えられてきたわけです。それで、医者はトップに立ち、教師の専門性は低いとされている。なぜ教師が低いかというと、不確実性が多すぎるからです。


藤沼 primary careもそういうような扱いかもしれません。


佐藤 ところがよくよく見ると、実際には医者の仕事だって不確実性に満ちている。それを被いかくしてきただけだったんじゃないかと見えるわけです。
 専門家、つまりprofessionalのもう1つの定義をいえば、絶えず不確実性と向き合っているということで、これはほかの仕事、つまり技術者や職人と違うところです。彼らは、確実性の中で仕事をしていますが、医者にしろ、弁護士にしろ、教師にしろ、不確実性との向き合い方によって度量が決まるし、世界の開かれ方が違うと思うんです。そのときに必要なのは、「引き受ける」ということだと思うんですよ。


藤沼 覚悟ということですね。


佐藤 そう。患者を引き受けること、教師でいえば子どもを引き受けることです。自分の教科は数学だから、それ以外の悩みには応じないというのは簡単なんだけれども、やはり引き受ける(のが教師です)。そして、引き受けるところから学びがスタートする。
たぶん、いま言われた誤った学びというのも、不確実性が引き起こすものだと思います。ですから、それはpositiveな要素に転換できると思います。それには、やはり「きちんと引き受ける」こと、つまりその引き受け方において確かであることですね。それとやはり、同僚どうしで学びあうことですね。1人で学ばない。


藤沼 共同の学びですね。


佐藤 そうです。医者どうし、そして専門を越えた人たちの意見にきちんと耳を傾けて学びあうような機会を増やすしか、これには方法がないと思います。
 教師の場合には、不確実性が非常に多いものですから、学びは絶対に1人では行わないです。同僚と一緒に行います。ですから、教師の専門家としての成長は、1人では絶対に起こりません。絶えず先輩がいたり、同僚がいたりと、ともに学ぶ人間、ともに育つ人間が存在します。


藤沼 なるほど。
 話題を少し変えますが、従来、卒後研修で有名な病院とか、人気のある施設というのは、かなりcompetitiveで、そこへ入るのも大変ですし、入ってからも競争が大変です。けっこう争わせて、駄目な人は落ちていっていいかなというような雰囲気があったり…。そういうところで勝ち残ったような方たちが、臨床研修をけっこう語ってたり…。ところが、いくつかの病院では――たとえば麻生飯塚病院なんかがそうだと聞いていますが――研修医をグループとしてどう形成するかを重視しているそうです。そこの先生って井村(洋)先生なんですけど、キャラでチームを組ませる(笑)らしいです。採用するときにも、キャラで採って、いつもチームでやらせるみたいな(笑)。例えば、何か講義をするときには、研修医自身ににテーマを決めさせて、自分たちで講義しあうような形をつくるような、協同学習のようなことを重視しているようです。で、けっこうここが若い人に人気があって、いまおっしゃった、皆で一緒に学ぶみたいなことなんですが、若い人たちは、けっこうそれを求めているようです。でも多くの教育病院では、上のほうの先生たちはそうじゃなくて、「鉄は熱いうちに鍛えろ!」みたいな感じなんです。


佐藤 いわゆるトレーニングですね。


藤沼 研修医が好むやり方と、指導医がよいと信じているやり方が矛盾になってるみたいなんですよね。


佐藤 僕は、学びというのは必ず境界線を越えるものだから、越境、border crossingだといっているんです。それから、学びというのは必ず差異、differenceの中にある。だから、同一集団を作っても意味はなくて、できるだけ対論能力とか、個性(の差異)があるところに学びは成立する


藤沼 似たようなやつばかりじゃ駄目だということですね。


佐藤 そうです。学びというのは面白くて、教えるという行為は、どうやったって教科書にいくんです。知識も教科書にいくし、権力的にも教科書を引いてしまうんです。僕は、教育というのはそういう作業だと思っているんです。だから教育はいいとか、悪いとかじゃなくて、教育は必ず教科書を引いていくものです。ところが、学びというのは必ずそれを越えていっちゃうんです。だから、学びというのは公共性に開かれていると思うんです。
 その教科書による教育と、教会を越える学びとがあいまって、どちらも生きてくるんだというふうに考えているんです。


藤沼 境界線を越えるというのは、例えば、教師は学習者をコントロールできないという感じですか。


佐藤 たとえば、きょうこうやって対談しているのも、境界線を越えているわけです。そうでしょう?


藤沼 (笑)。


佐藤 普段はお会いすることもない、初めて出会った方、それもprimary careの専門家と僕のように教育のことしかわからない人とが一緒に、境界を越えながら探り合っているわけです。そして面白いことに、境界線というのは暴力と差別が発生する場所でもあるんです。ここで取っ組み合いがあるかもわからないんです。
 そういう意味で、学びというのはほんとうに面白い。1人で学ぶという場合には、やはりトレーニングになっちゃうんです。だから僕は、『ケイコとマナブ』に引っかけて、「稽古と学びは違う」って言ってるんです。
 稽古はpattern practice、あるいは既にわかっていることの習得なんですが、学びは不確実性への挑戦、未知への旅なんです。そのどちらも必要だと思いますが、いま決定的にかけているのは学びの要素だと、僕は思っているんです。既にわかった技術や知識を習得するだけで、いい医者になれるのか、いい専門家になれるのかといったら、大いに疑問です。むしろ、曖昧なものに対して開かれていくこと、あるいは複雑なものと格闘することが世界への開かれ方です


藤沼 いろんな生涯教育講座がありますが、たとえば「心電図の見方」だとか、「最近の病気の概念」だとかを勉強するというかたちのレクチャー多いのですが、どことなく、役に立たない感じがあるんですよ。さっきおっしゃったように、「ふだん悩んでいることと、ちょっと違うなあ」という感じがあります。


佐藤 もちろん、そういう知識というのは大事で、それをないがしろにしているつもりはサラサラないんですが、僕は、それはレパートリーでしか機能しないと言っているんです。料理のレシピをいくらたくさん持っていても(それだけでは意味がなくて)、実際に限られた材料と条件の中で、どういうお料理をつくるかというのが「腕」でしょう? そこの部分は、絶えず経験を通し、他者と一緒に学ぶ部分が大きいんだろうと思うんです。


藤沼 診療所の先生というのは、わりと1人のことが多いんです。開業の先生方も多くは1人です。たぶんその人たちがまとまって何かのグループを形成して、経験交流やディスカッションをしたりすることが、今後は生涯教育として(必要かもしれません)。


佐藤 それは、ほんとうは重要なことだと思います。学びはネットワーキングなんです。個々に孤立されている状況を、どうやってネットワーキングしていくか。
現在、世界的に最も注目されている学習理論は、フィンランドヘルシンキ大学の教授の、エンゲストローム(Y. Engeström)さんという方が提唱されている「拡張された学習」という理論です。この方は、やはりネットワーキングで考えています。
 僕は彼と親しくて、昨年も(東京大学で)一緒にシンポジウムをやったんですが、その彼がいちばん最近出した本が、実は医療の本なんです。それはとても面白くて、患者を中心にして、複数の医者たちがネットワーキングするんです。なぜそんなことをするかということですが、たいていの患者さんの症状は複合的でしょう? 1人の患者さんが、いくつも医者を回っている場合が多いわけですが、情報は全部分散しているわけです。そしてさらに深刻な問題は、いま、医療費が湯水のごとく使われていることです。これをネットワーキングすることによって、最小限に抑えることができますよね。
 これは、医療保険を最も有効に使うシステムでもあると同時に、医者どうしが多領域の専門家と協働することによって、専門家としての学びの機会を増やすことにもなるし、患者はあっちこっちで同じ血液検査をしなくて済む。データを共有し、複数の目で見ることによって十全な看護を受けられる。そういうことを、いまシステムとして開発しているんですよ。


藤沼 そういう試みが教育学から発信されているというのは面白いですね。


佐藤 ええ、こういう教育学者が現れているんです。私は、来年、調査にいこうと思っています。医療現場における学びなんですが、僕は、実はこの本を翻訳したいと思っているんです。これは、医療関係者に大きな転換点をもたらすと思いますよ。だって、日本でも、このままいったら医療保険はパンクしちゃうでしょう?


藤沼 病診連携とか、診診連携とかいう業界用語があるんですが、せいぜい手紙のやりとりとか、個人的なつながりでうまくできるか…ぐらいのものなんです。それがうまくいったら、たとえばコンピュータ上に共通のデータベースを持とうというレベル(です)。たぶんこの先生がいっているのは、先ほどの教育における共同の学びみたいなことですか。


佐藤 学びから拡張して、学習社会というものを考えるとわかりやすいですよね。専門かも学び、患者も学ぶ。そういう社会全体を通して、医療の改善とか、医療費負担の軽減とか、保険の円滑な活用といったものがシステムとしてできあがるじゃないですか。これは、もっともっと考えていいことだと思います。


藤沼 learningをキーコンセプトにするという感じですね。なるほど。


佐藤 学びという点で、ちょっとお答えしていなかった部分があると思うんですが、われわれは、「勉強」には慣れてきたと思うんですよ。


藤沼 たしかに(笑)。


佐藤 だけど、学びというとどうも漠然としてしまうところがあります。しかし、勉強と学びとは決定的に違うと思うんです。何が違うかというと、勉強というのはいつも終わりのスタンプです。「よくできました」のスタンプ。


藤沼 最終的には修了証がつくということですね。


佐藤 そうです。だけど、学びはいつも始まりを準備するんです。1つ学ぶと次ぎの世界がパッと開ける。だから、絶えず始まりを経験することになってくるんですね。その点で、ずいぶん違うということになります。
 これをつきつめていうなら、僕は、勉強には出会いと対話がないと思うんです。しかし、学びはいつも、出会いと対話なんです。新しい対象、新しい世界と出会い、新しい他者と出会い、新しい自分と出会う。そして、それらとの対話。つまり、対象との対話、他者との対話、自己との対話という3つの対話のシステムから成っている。これを学びと呼びます
 古今西洋の学びというのを見てみますと、実は2つの伝統をもっています。1つは、修養としての学びで、自己完成を目指すもので、これは日本の伝統の中にもありますし、西洋の修道院の学びなどがそれです。これは自分の内側を充実させて、完成に導くという感覚です。
 もう一方では、ソクラテス以来の対話の伝統です。対話を通して未知の世界を旅するということです。そのことによって、自分と世界との関係、自分と他者との関係、そして自分と自分の関係、この3つの関係を創りだしながら進んでいくようなもので、僕はそれを学びと呼んでいるんです。


藤沼 それで思い出したんですが、オランダのマーストリヒト大学という、医学教育で有名な大学があるんですが、そこで、医者にprofessionalismを教えるときの3つの領域というものがあります。それは、dealing with work、dealing with others、そしてdealing with yourselfです。これと同じですね。


佐藤 まったく同じです。


藤沼 そうすると、先生のおっしゃった学びというのは、professionalismとつながりますね。


佐藤 まったくつながります。
 これは私は、あるとき、天才的にひらめいたんです(笑)。「学びというのは、3つの対話的実践だ」と。


藤沼 いいキャッチコピーですね!(笑)


佐藤 それ以来、僕は「学習」という言葉は使わずに、「学び」といってきました。「教え」「学び」というのは宗教臭いなと、ちょっと思いましたが、それが10年ぐらい前です。いまや、「学び」という言葉は社会全体に広がっているでしょう? 皆が使うようになってしまった。


藤沼 あ、先生が最初ですか?


佐藤 僕が、本家本元です(笑)。


藤沼 失礼しました(笑)。


佐藤 以後、お見知りおきを(笑)。でも、こんなに広まるとは思わなかった。学習では嫌だし、勉強は使い古されて固着しているし、それを突破するには「学び」しかないです。Learningというのが動詞形じゃないですか。だから「学び」ということによって、動詞形の学習の概念を生み出さないと、この閉塞状況は突破できないと思ったんです。それが「学び」ということを言った最初で、ちょっとためらいながら使ったんですが、あっという間に広まりました。この本を出した頃です。
 それで逆に、いかにいまの人々が「学び」に飢えているかを知らされました。それはたぶん、何ものとも出会わない(でいるからでしょう)。新しい仕事とも出会わない、新しい他者とも出会わない、新しい自分とも出会わないような、閉じた社会なんですね。これを開くという意味において、いまおっしゃったdealing with workです。僕は、dealing with situation、あるいはconversation with situationと言ったんです。状況と対話する。そして、他者と対話――dialog with othersし、dialog with myselfです。
 この「学び」の3つの要素が、実は非常に複雑にからみあっています。だから、新しい知識を得たときには、必ず新しい他者との関係をつくっていくんですね。そして、新しい自分を見出すわけです。そういう循環、これが「学び」だと思っています。特に専門家の場合は、そういう要素を中核にもっているのではないか。


藤沼 たしかに、いまの生涯教育は勉強に近いなぁ。


佐藤 そうでしょうね。
 またちょっとカッコいいことを言いますが、専門家には2つのポケットが必要なんです。1つは、いろいろなケースについて、「やっぱり確かだ」という知識を入れる確実性のポケットです。もう1つは、曖昧なもの、不確実なものをいつまでも入れておくポケットです
 で、後者のポケットを持っていないと、「学び」は起こらないです。


藤沼 それが欠けてますね。生涯教育の中では、ほとんどやられていないかもしれない。インフォーマルなかたちでは、いろいろなディスカッションとしてやられていると思いますが、それが実は重要なのだというかたちでは出していないと思います。


佐藤 教師も同じなんです。だから、教師の話は全部が美談になってしまう。成功談になっちゃうんです。


藤沼 医者も、たしかにそうです(笑)。


佐藤 だけど、ほんとうに学ばなければいけないのは失敗のほうからなんですよ。不自由さのほうです。これが見れないんですね。それはたぶん、確実性でしか知識や認識を創っていかないからだと思います。だけど、一線の仕事をしている人は、間違いなく不確実性のほうを大前提にしてますね。わからないもの、曖昧なものを、いつまでも抱え込んでいて、だから胃が痛くなるんですけどね(笑)。
 僕は、小さい頃に医者にばかりかかったものだから、大の医者嫌いで、薬も大嫌いなので、たまに飲むとよく効きますよ。歯磨き粉でも効くんじゃないかと思うくらいです(笑)。
 いまは、過剰な医療にべったり依存しているでしょう? たとえば胃が痛くて医者のところへいくと、内視鏡で見て、「潰瘍ができてる」というので、内視鏡で取って「はい、終わりました」といって治療が終わる。そうすると、次には痔にくるみたいな話で、要するに大元(おおもと)の問題は何も解決していないですよね。要するに、ストレスフルな生活だとか、生き方、ものの考え方などの全体が、その病気にからんでいるわけだから、切るとしたらどんどん切って、体中を切らなきゃいけない。そういう患者さんがいっぱいいるわけじゃないですか。
 これはオフレコかもしれないけど、僕は大学院生の頃に潰瘍で入院したことがあるんです。ほんとうに苦しい思いをしたので、そのときの主治医の先生に、「もう僕は、酒もタバコもやめます」って言ったんです。そしたら、「それは絶対にやめたほうがいい。あなたのように神経質で、ストレスフルな人間は、むしろ酒やタバコを愉しみなさい。そのほうが、はるかに健康にいいよ」と言われて、ガーン!ときましたね。それで、いまだにやめてないですけどね(笑)。
 それはともかく、全体状況の中で診るというのはすごく大事じゃないですか。


藤沼 おっしゃるとおりです。


佐藤 そういう医者なら、信頼して任せることができる。やはり、これを切ったら、次はこれ…となるのはひどい状態でしょう?


藤沼 先生がおっしゃったことは、bio-psycho-social モデルとかいわれていて、疾患に対するアプローチの仕方について、社会的決定因子などをきちんと考えるべきだというけれども、アカデミーの世界ではまだまだマイナー(な考え方)なんですよ。そして、そういう見方と関連する領域がprimary careと老年医学とリハビリテーションと緩和ケアで、この4つというのは、従来の心臓外科だとか、脳外科だとかの病気とは趣きを異にしていて、たぶんパラダイムみたいなものが違うのかなと思っています。先生がおっしゃったようなところは、言われてはいるんだけれども、具体的にどう教育するのかということについて、あまり方法論をもっていないと思うんです。


佐藤 たとえば、素人ながら思うのは、最近は遺伝子解析がそうとう進んできているわけですよね。ある病気に対してはある遺伝子との関係が密接にリンクしているわけでしょう? ところが、いままでの医学の薬にしろ、治療法にしろ、それらは言ってみれば症状に対する効果の統計的な処理によってやられてきたわけですよね。


藤沼 そうですね。


佐藤 「これが効くはずだ」「これが有効なはずだ」というやり方をしてきたわけじゃないですか。そこへ、もう一方から遺伝子が出てくると、「(いままでのやり方は)何だったんだ?」という話が生まれるわけでしょう? つまり、症状というのは、ほんとうは個別的なもののはずで、治療法というのも個別的なはずなんですよね。それを統計的に処理するということだけでやってきたいままでの薬や療法というのは、もっと患者の固有性に即した認識の仕方をしないと駄目だったということでしょう?


藤沼 そうですね。ゲノムでガーッといくとこまでいくと、逆にこうまわって、もともとの個別性のモデルに出会うということになります。


佐藤 そういうことですよね。逆にいうと、すぐれた医者というのは、個々の患者の個別性、その患者ならではの症状の中に、きちんと、有効と思われるような医療でも疑いながら取り組んでいく医者だったはずですよね。いま、それが実証されていると思うんです。
 たしかに振り返ってみますと、そういうお医者さんはいます。僕の親友が調子が悪くて、どこの医者に行っても、病院に行っても(原因がわからなくて)駄目なんですが、やっぱりおかしいというので、最後に東大の付属病院に行ったんです。そしたら、そこの先生が、パッと診ただけで「これは難病中の難病です」と言われたんですって。先生は、どこで判断されたんですかと聞いたら、「あなたが歩いてきたときに、足音がちょっと変だったんです」と言われたんだそうです。
 それがずっと引っかかっていたので調べてみたというんですね。これは、僕にはよくわかる話なんです。僕も、学校へ行って教師の診断をやったり、援助をしたりします。そうすると、わからないことがあるんですよ。そういうときに、ちょっと気になることを見つけて、そこからたどりなおしてみて、「こういうことだったんだ」とあとからわかることがすごくあります。
 いまのその先生なんかは、症例というものをきわめて個別的なものと考えながら、いままでの知識を総動員して診察しているわけです。


藤沼 とても不思議なのは、“マスター”といわれるような臨床家の先生というのは、普通の経験なのに、それが特殊な形の長期記憶になってるんですね(笑)。


佐藤 そうそう。


藤沼 それを統合するから…。


佐藤 これは、説明しようがないんですよ。
 僕は、いままでに1万ぐらいの教室を見ています。1つの学校へ行くと全部の教室を見るんですが、1つの教室は2~3分です。これぐらい授業を見てくると、2~3分入っていると、そのクラスのどの子がどういう問題を抱えているか、みんなわかります。そして、その教師がどういう経歴を経て、いま、何に悩んでいるのかもわかっちゃうんです。そういうものなんであって、それを説明しろと言われてもできない。要するに、匂いのようなものなんですね。
 でも、その部分を、どうやれば現場に還元できるかは、研究の課題として自分に課しています。たぶん、そういう部分も含めた専門性というのが、今後、問われるんじゃないでしょうか。
 もう1つ、私のほうから医療へのお願いがあるんです。それは、ケアとキュアの関係についてです。
 ケアの部分は看護師さん、キュアはお医者さんがやっていますよね。患者の側から見ると、どっちも同じくらい大事なことです。だけど、いまの病院や医学のシステムでは、キュアのほうばかりが突出していて、ケアの人たちは地位においても下に置かれています。
 僕が、もし自分が入院するなら、ケアがセンターになっていて、そこにお医者さんが登場してキュアをやってくれる、そういう病院を求めたいですね。しかし、これはなかなかない。


藤沼 先生がおっしゃっていた、エデュケア(Edu-Care)ということですね。先生は、ケアのことをけっこう書かれていますが、教育の部分とケアの部分とが…。


佐藤 僕は、同じだと思っているんです。もともと、教育というのは子育てですから、ケアがベースにあったはずなんですね。ところが、いまの学校はケアを中心に置いていません。ケアというのは応答です。応答から始りますから、相手の脆さや叫び声を聞いて、受け止めるところから始るんです。
 先ほど「引き受ける」ところから始ると言ったのは、ケアを基盤に置こうということなんです。しかも、ケアはprofessionalの仕事じゃないんですね。日常的に、親密な立場でしかできない仕事です。だから、caringとcounselingはぜんぜん違います。


藤沼 なるほど、違いますね。


佐藤 counselingは専門家が、特定の時間にやるものです。たぶん医療もそうだし、教育もそうだけど、いちばん根柢にケアの関係がないと(駄目です)。僕は、ケアを「心くだき」「身くだき」と言っていますが、相手のために心をくだく、身をくだく。そして、そういう関係が親密な他者の中にあってはじめて、医療が成立するんだと思うんです。
 たとえば、天涯孤独な人で、病院に入院して喜ぶ人っているじゃないですか。看護師さんとお話しできて、もう退院したくないという人。


藤沼 いらっしゃいますね。


佐藤 そういう人は、病院を出てしまうと、また病気になってしまう。誰もケアする関係がないからですよね。


藤沼 先生、そんな医療の現実までよくご存知ですね(笑)。


佐藤 そういう人は、周りにいっぱいいます。だから、ケアの機能がもっときちんと生きていて、看護師さんが輝いて見える病院、お医者さんが威張っていない病院が理想ですね。


藤沼 最近の米国では、医療機関メディカルホーム(medical home)にしようという運動があります。この「ホーム」というのは、“わが家”なんですよね。医療が、あまりにもconsumerと販売店の関係みたいなことになっているので、(そういう考えが出てきたのだと思います)。そこへ行けば、自分のことを知ってくれている人がいて、長期的な障害をもっている子どもについて、そこのスタッフは皆、その子のことを知っていて、親のことを知っていて、親は(子どもを診る上での)パートナーだと(いう考え方をする)。
 もともと病院というのはそういうものだし、診療所というのはもともとそういうところだったんじゃないかという運動があって、これは先生のお話しとも呼応する部分があるんじゃないかと思います。


佐藤 学校も、ほんとうはホームにならなきゃいけないんですよね。なぜなら、人間はファミリーはなくても生きていけるけれども、ホームなしでは生きていけないと思うからです。縦家族はいなくても大丈夫だけど、自分の身を置ける場所、親密な他者に守られている場所がホームですよね。あらゆる社会施設が、ホームの要素をもつべきなのではないかと思ってしまうんです。
 そんなことを言ったら、学校はそこまでする必要はない、病院がそこまでする必要はないという議論が出てきます。もちろん、そういう議論はあるんだけど、ファミリーがなく、ホームがない人たちが、子どもにも、大人にも、老人にも増えているなかで、ホームの機能を社会全体が創りだしていくことが、絶対に必要だと思います。


藤沼 僕も校医をしていましたが、毎年、苗字が変わる子とか、きょうだいが4人いて、全員親が違うとかいう子がいたりします。家族はいるが、居場所=ホームがない。


佐藤 僕は、法務省からの依頼で少年院の委員をしているんですが、少年院に入っている犯罪少年たちは、何よりも少年院を出ることを怖がるわけですよ。これは、知られていない事実です。彼らには、少年院がホームなんです。初めて得られたホームなんですね。ホームのないところへまた出たら、また犯罪を犯すんじゃないかという恐怖がものすごいんです。


藤沼 ホームでは守られているわけですね。


佐藤 そうです。そういうのを見ていると、いろいろな社会施設がホームの機能をもって、同時に専門家が機能する。その両方を兼ね備える必要があると思うんです。ただ、これを下手にやるとまずいことになるんですね。日本でケアというと、何か温かい、やさしい心みたいなことになってしまうからおかしいんです。そうなってしまうと、老人が病院にたむろしてしまう、みたいな状況を生んでしまいます。そうではなくて、むしろ自立のためのホームなんですが、依存のためのホームになってしまってはミもフタもありません。
 でも、新しい医療のあり方としては、ホームの機能、ケアの機能を、もっと中心に置いていいのではないかと思います。


藤沼 先生の書かれた学校改革の本を何冊か読ませていただいたのですが、いま、医療機関というのはある意味で叩かれています。病院での事故をはじめとしていろんな意味で危機的状況にあると言っていいと思います。
 先生の(専門分野の)学校というのも、一時期すごく危機的でしたが、改革にかなり成功した事例もいろいろ報告されていますが、両者には相通ずるものがあるような気がしています。


佐藤 そうでしょうね。


藤沼 先生が書かれていた浜之郷小学校の例ですと、学びの権利の実現ということが1つと、もう1つ、教師たちが専門家として学び、育ちあう学校づくりということを挙げられていますが、これを病院に置き換えると、患者の権利というか、健康に対する権利の実現ということと、そこに働く職員たちが学び、育ちあうということで、かなり同じ方向かなと思ったんですが。


佐藤 たいていの学校改革って失敗してるんです。それにはいくつか理由がありますが、逆にいうと、僕の推進する学びの共同体づくりではほんとうに奇跡的なことが起こりますから、僕もびっくりします。たとえば、荒れきった中学校や高校が、1年も経たないうちに、子どもたちが1人のこらず学びに向かい出す。1人のこらず、何の問題もなくなります。学びあうというのは、こんなに重要なことなのかと思い知らされます。
 特に子どもの場合には、学びつづけているかぎり、友だちが崩れようと、家族が崩れようと、本人は絶対に崩れません。これが、僕の学んできたことです。学びに向かっていたら絶対に崩れない。これは小学生でもそうです。おとうちゃん、おかあちゃん覚せい剤打ってて、おにいちゃんはシンナー中毒だって、その横で黙々と学びます。すごいですよ。


藤沼 人間には、もともともっている学ぶ力みたなものがあるんでしょうか。


佐藤 子どもにとって学ぶ権利というのは、希望そのものなんです。これを捨ててしまうということは、自分を捨てることなんですね。将来を捨てるということなんです。
それと同時に、もう1つの真実は、一度学びに絶望した子、学びを捨てた子というのは、いとも簡単に崩れます。たとえば「友だちが悪口を言った」「先生が信じられなくなった」というと、それで世の中が信じられなくなり、大人全体が信じられなくなり、社会全体を恨むようになり、自分自身に対しても暴力的、破滅的になってしまいます。


藤沼 勉強ではなく、学びですね。


佐藤 そうです。そこで(私が)つかんだことは、ひとり残らず、子どもたちの学ぶ権利を保障する学校をどう創るかということです。ただ、それは不可能です。なぜできないか。それには理由があるんです。誰も、その責任を取っていないからです。
 学校で、その責任者は誰かというと、普通、担任だといいますが、担任は責任者ではないです。責任者は校長です。だから、欧米の学校は(定員)150人以上(の規模では)つくらないです。1人ひとりに責任が問われるから。
 日本では、(校長は)建物の責任はもつけれども、子どもに責任をもっていないから、平気で800人とか、900人の学校をつくります。だから、まずは校長に、1人ひとりの子どもの学ぶ権利を保障できるような責任を取らせることが必要です。


藤沼 僕らには、学校に対してあまりそういうイメージをもってないですね。


佐藤 ないでしょうね。でも、それはやれないことじゃないんです。教室を見て回って、先生たちを援助することが1つと、教師は専門家ですから、それぞれ考え方も違うし、持ち分も違うんですね。その多様性を生かして、1人ひとり教師が、その学校におけるmissionを見出していくことです。そして、自分の仕事は意味のある仕事なのだと、生きがいを見出していくことです。・・・的になりますからね。そのことと、専門家としての知識なり、力量を高めていく。
 そのことを求めていない教師はいません。医者も、看護師もそうでしょう? そういう学びあいがほんとうにできれば、これは実現できると思っていますし、事実、それをやると革命的なことが起こるわけです。


藤沼 やってみたくなってきた(笑)。


佐藤 学びの共同体としての病院ですね。これは、挑戦する価値ありますよね。ただ、ここで重要なのは、教師だけでは絶対にできないということです。子どもの力をかりなければムリなんですが、皆、これが抜けてるんです。3分の2は、子供たちを主人公になって創っていくんです。3分の1を教師がやっていく。そしてそのときの一番の根っこは、聞きあう関係だということです。主張しあう関係じゃなくて、聞きあう関係です。聞きあう関係というのは、引き受けあう関係です。ですから、listen to the others voiceというのが改革のスローガンです。自己主張ばかりしていても、誰も聞かないです。
聞けるようになると、お互いが引き受けあうようになっていくんですね。そういう学校をつくると、実に静かな、穏やかな学校になります。教会のように静かで、皆が満足している。自然体でにこやかです。嘘みたいでしょう?


藤沼 具体的には、どういう働きかけをされるんですか。


佐藤 3年ぐらいかけて、教室の中での共同の学びあいといって、小グループで難しい問題に取り組んでもらいます。そういう学びを、どんどん創り出します。
 中学校には、オール1の子どもも、オール5の子どももいますよね。そこで能力別編制をやったら駄目なんですが、一緒にしておいて、高校レベルとか、大学レベルの難しい課題を与えると、解けるようになるんですよ。学びあう関係ができれば、ものすごい高いレベルにいけるんです。そしたら、そのレベルを下げないことです。
 学校改革は、公共性、民主主義、それから卓越性の追求、僕はこの3つの原理で進めています。この卓越性、excellenceというのは、人と比べて自分のところのほうがいいとか、隣の学校と比べてうちのほうが学力が高いといった、競争的卓越性ではありません。医者が、「この患者ならこのレベル」というふうにやってしまったらおしまいでしょう? いまいる患者と状況の中で、最高のものを追求するじゃないですか。それでこそprofessionです。これは子どもも同じで、「この子はこのレベルだから」「このクラスはこういう状況だから」といって避けては駄目で、学びも最高のものに挑戦しようということです。これが卓越性です。
 そういう励みあいになったときに、人間というのはものすごい力をもって関係や場を、しかも、自然に創っていきます。気の流れみたいなものが、うまく起こってくるんです。そういう場所を創りたいんです。
 昔、世阿弥の『花伝書』を読んでいて、すごい言葉に出会ったんです。それは、「態」と書いて「わざ」と読ませるんです。つまり、技術というのをそういうふうに考えたんですね。要するに、人の関係というのは鋳型で、そこに態(わざ)を埋め込んでいく。だから、医療の技術にしろ、教育の技術にしろ、技術だけを教えて、それを適用するようなものではたぶんない。ほんとうに生きている「わざ」というのは、関係という鋳型の中にあるんですね。あるいは、もっといえば「引き受け方」の中にある。
そこに、専門家である教師や医者のもっているすべての知的水準と経験とが、凝縮してあると思えばいいわけです。面白いですよ、そういう研究をすると。そして、それをお互いが学びあうようになると、研修は面白いです。


藤沼 面白いと思います。


佐藤 そうでしょう? だから、僕らはビデオを活用するんです。医療もそうでしょう? オペの場面とかで使うじゃないですか。「わざ」の世界っていうのかな。


藤沼 ほかの人のやっていることを、単にまねるんじゃなくて…。


佐藤 発見していくんです。本人も気づいていないことを。


藤沼 あ、本人が気づいてないんですね。なるほど。


佐藤 「なんであのときに、待ったをかけたの?」「どうしてあのオペを、ちょっと中断したの?」「なんであのときに血液の状態にチェックを入れたの?」と、そういうことは研究する価値、大いにありなんです。そこから、ものすごい世界が開けるんですから。


藤沼 読者には、医者になり立てでちょうどトレーニングを開始したぐらいの人たちもいるのですが、そういう方たちに何かメッセージがあれば、ぜひお願いします。


佐藤 医療の仕事というのは、尊い仕事だということを何よりも(大事にしてください)。たぶん、いまの医学教育の中では、ご本人は気がつかないと思うんです。僕は、医学部の学生と接触する機会もありますし、前に学生たちにインタビューしたこともあるのですが、いちばん感じたのはその点です。
 教師もそうなんです。自分たちのやっている仕事が、きわめて尊い仕事であることの自覚というか、誇りを失わないでいただきたいなと思います。それはたぶん、すごく大きな世界だろうと思います。いまの医学教育の中では、きょうお話ししたような、ある種のholistic approach、primary careが大事にする「患者を引き受ける」ということ、「引き受けて、一緒に問題解決にあたる」という、この部分が抜けていると思いますし、missionの教育も抜けていると思います。何のために医療をやっているのかということです。それともう1つ、職業倫理の教育も抜けていると思います。これは責任の問題です。私たちは、社会に対してある責任を担っているということです。
 アメリカの医学教育には、「医者はベッドのそばで育つ」という言葉があるそうです。患者の状況との接点に、いつもいちばん大切なものがあるということでしょう。たぶん、近代の専門職がいちばん下に置いたところに、いちばん大切なものがあるのだという、その発想を大切にしていただきたいと思います。それがたぶん、これからの時代における医療従事者、医学研究者のいちばんのポイントかなというふうに思います。僕自身も、教育学というのをそういうふうに考えてきましたし、そこにはほんとうに面白い、重要な世界がありますよということを、メッセージとして伝えたいと思います。

 

このエントリーは「JIM」2006年05月号 (通常号) ( Vol.16 No.5)に掲載された,「JIMで語ろう “学び”は越境する―教育の革命家と家庭医との対話から」佐藤学・藤沼康樹に若干の加筆訂正を加えたものです

 

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