地域包括ケアと規範的統合そして健康の定義

1.地域包括ケアにおける水平統合、垂直統合と規範的統合
 地域包括ケアの時代においては医療専門家、介護専門家、福祉専門家、地域住民、自治体職員など地域ベースの統合(水平統合)と、在宅医療、診療所、各種施設、中小病院、大病院、大学病院などの医療福祉施設間の統合(垂直統合)のふたつの軸で家庭医は活動する必要がある。家庭医は、ある意味で「扇のかなめ」の役割を果たすことが必要だろう。

 さて、統合ケアにおいては、文化や価値観の共有という規範的統合(normative integration)が重要になる。なぜなら、規範的統合がないと、目標の設定ができないからだ。たとえばケアマネージャーの目標と医者の目標が同じ方向でないかぎり、ケアの組織化は困難だからである。残念ながら、日本においては医師が権威勾配の頂点にいる場合がおおく、水平統合の場でも、医師の顔色を他の職種がうかがってしまい、共有された目標が、服薬や通院をきちんとできるように支援するといったような、医学モデル寄りになる場合がしばしばみられる。
 この規範的統合のキーとなるコンセンサスは、おそらく「健康とは何か?」という問いに対する答えに存在すると思われる。極端にいうと、たとえば疾患のない状態を健康と定義すると、すべてのケアやサービスは疾患駆逐のために組織されることになる。むろんCurative medicineが求められる場、たとえば大病院の専門科医療、特に外科系のそれにおいては、すべてのスタッフはそれにむかって規範的統合が達成されている。また、急性期脳卒中医療においては、救急隊からStroke care unitまでいわゆる「Time is Brain」(時は脳なり)という価値で規範的統合が達成されているといえるだろう。

 しかし、そうした価値が普遍的かというとそうではない。そうした価値が地域の慢性疾患や退行性変化のケアの世界に持ち込まれると不適切なケアの目標設定が生じる危険がある。
 おそらく疾患フリーを健康とする価値観に対抗する価値観は、「QoL重視」ということになるかもしれないが、この2つは対立させるべきではなく、もっとメタレベルのコンセプトで双方を包含すべきではないだろうか。端的にいえば、この2つが対立している限り施設間連携、すなわち垂直統合における規範的統合は不可能ということになってしまうからである。
 たとえば大病院の中に地域基盤型ケアの現場〜水平統合の現場と規範的統合が可能な総合診療科や連携室の存在によって、垂直統合を図るというのは現実的な対策ではあるのだが、ここではもうすこし普遍的に考えてみたい。つまり健康の定義を地域包括ケアのすべてのレベルで共有できないかということである。それにふさわしい定義はあるだろうか?

 

2.健康モデル
 今回は、スイスの内科医・臨床薬理学者のBircherら[1]が近年精力的に展開している健康モデルの探索に注目したい。

 古くはWHOの身体的、精神的、社会的、スピリチュアルすべてで健康なら健康であるという定義、Ottawa宣言における健康は積極的に作り出すもの、といったような様々な提案がなされてきた。

 また、家庭医療の世界では、Sturmbergら[2]が身体・心理・社会・記号論(意味論)的にバランスのとれた状態を健康と定義するといった野心的な試みがあったが、より普遍的に適用できる健康モデルの提案が期待されていた。ちなみにSturmbergがSemioticsという言葉を健康モデルに導入したのは、近年のBiosemiotics(生命記号論、あるいは生命意味論どちらとも訳語としてつかわれている)への注目とリンクしているようで興味深い。通常自然科学としての生物学は、DNAと情報への還元しかないといってよく、意味は完全に排除される。この生命はなんのためあるのか、といった言説は、科学者がわかりやすく説明するときはあえて使われるが、科学論文ではつかってはならないものとされる。しかし、Biosemioticsの研究者達は、ミハイル・バフチンの「構成部分が外的な繋がりで時空間において単に結合しているだけで、統一された内的意味を持たない時、一つの全体は機械的であるという」という言葉に導かれて、生物のような機械的でないものは、必然的に一つの意味を創り出すという前提にたっているだが、これは人間相手の医療現場では至極当然の認識であり、人間は意味なしでは生きていけないし、そのことを勘案しない陰り健康について定義はできないということである。
 余談だが、いま日本でも注目されている急性期精神病へのイノベーティブな介入法「オープンダイアログ」も理論的基盤はバフチンポリフォニー(多声性)理論である。バフチンが、現代においても極めて重要な思想家・哲学者であることをあらためて痛感する。
 さて、Bircherの健康モデルに戻ろう。


3.Meikirch Model of Health
 以下の解説はこのモデルの提唱者であるBircherがOne Healthという国際会議で行ったプレゼンテーション[3]を元にしている。

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まず、人間には生きるための欲求(demand of life)がある。この要求水準は多くのレイヤーがあるが、主として以下の3つのレイヤーがある
* 生理的欲求:栄養、ホメオキネシス、生殖、等
* 心理社会的欲求:自己実現、成功、統合、参加、等
*環境的欲求:物理的、化学的、細菌学的安全性、環境の持続発展可能性、等



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 そして、これらの欲求に応えるために、個々人は二つの種類のリソースを所有してい。それは、生物学的にもともと持っているリソースであり、もう一つは個人個人で後天的に獲得するリソースである。
これらは将来も使えなけらばならないので、リソースというよりは潜在力、可能性があるということでポテンシャル(potential)と呼ぶべきものである。

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この生物学的ポテンシャルは加齢とともに低下減少していくが、後天的に獲得したポテンシャルは、いわば人生経験、教育学習、職業などにより生涯 にわたって増加していくと理論的には言えるだろう。このグラフはその辺りを表現したものである。この後天的獲得ポテンシャルは、アントノフスキーの首尾一貫感覚(sense of coherence)が含まれる。

 

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 こうした個人の健康決定要因をエリアの外側には、いわゆる健康の社会的決定要因があり、さらにその外には健康の環境的決定要因がある。f:id:fujinumayasuki:20160816190038j:plain

 これらの健康を構成するコンポーネントはお互いに非線形的な関係性をもち、健康システムとは内的、外的な変化に対し、バランスをとりながらある一定の統一性を保っており、複雑適応系のシステムであるとされる。

 特にこの太い赤色の矢印でしめされた関係が健康の維持において大変重要な寄与要因となっているとされる。

 まとめると、Bircherの提案するメイキルク健康モデル(Meikirch model of health)における健康の定義は以下のようになる。
 「健康とは、個々人の生物学的に始めからもっているポテンシャルと、後天的に獲得したポテンシャルの二つと、生理的、心理社会的、環境的な生の欲求の間の良好な相互作用の結果、安寧(Well-being、そこそこよい状態)が創発された状態のことである。そして、生の欲求、健康の個人的決定要因、社会的決定要因、環境的要因がそれぞれ相互に影響しあっており、この相互の影響関係の改善が健康に大きく寄与する」ということになる。

 

3.健康モデルは日本の地域包括ケアに寄与するか?カンファレンスの進め方を考えてみる

 現在残念ながら地域包括ケアにおける多職種連携において、医師が権威勾配の上位にいることは間違いない。しかし、医師が学んできたのは主として「疾患」である。「疾患」についてならいくらでも語ることができる。しかし、健康ってなんですか?あるいは、この患者さんは健康ですか?ということについて語るための語彙は貧困である。おそらく、医師は仕事の性質上、臨床経験から帰納的に健康とはなにかを考える機会がないので、トンデモ健康論を披瀝する様子も散見される。やはり、健康に関するモデルを学び、演繹的に健康について考えていくことのほうが、妙なオレ流の哲学を獲得するより有効だろうと思われる。
 そこで、「メイキルク健康モデルにもとづくケアカンファレンス」のフォーマットを考えてみよう。

1.患者の生の欲求を、生理、心理社会、環境から分析する
2.生物学的なリソースをリストアップする、身体機能、認知能、疾患の状態などを評価する
3.後天的に獲得したパーソナル・ヘルス・リソースについて評価する
4.1.2.3.のバランスをみる
5.健康の社会的決定要因で影響をあたえている可能性のあるものを収集評価する、近所づきあい、社会的サポート、貧困、ジェンダーなど
6.健康の環境的決定要因で影響を与えている可能性のあるものを収集評価する、家屋の衛生状態、周辺の空気の状態や騒音など
7.以上の全体像を再度みなおし、安寧状態とはいえず、生の欲求が満たされていないとかんがえられる場合は、どのコンポーネント間の関係に介入するか、個人の健康リソースをいかに支援できるかを計画する
8.ただし、全体としては複雑適応系なので、どこかに介入すると、予想外の良い結果、あるいはわるい結果が生じることも想定しておく

 こうしたプロセスで健康志向のカンファレンスを実施できると面白いかもしれない。

 

[1]: Bircher, J., & Hahn, E. G. (2016). Understanding the nature of health: New perspectives for medicine and public health. Improved wellbeing at lower costs: New Perspectives for Medicine and Public Health: Improved Wellbeing at lower Cost. F1000Research, 5.

[2]: Sturmberg, J. P., Topolski, S., & Lewis, S. (2013). Health: a systems-and complexity-based definition. In Handbook of Systems and Complexity in Health(pp. 251-253). Springer New York.

[3]: http://www.slideshare.net/GRFDavos/one-health-summit-kopie

https://www.instagram.com/p/BHqNLKPArxv/

看護理論と看護のメタ・パラダイム イントロダクション

 看護ほど、病いのなかにいる人間に対してケアを提供しながら、その実践のなかから理論やセオリーを導き出そうという困難な道程を歩んでいる領域はないと思うが、そうした実践からうみだされた理論が看護理論である。

 看護学という学問領域は、人間とはどういう存在なのか、人間と環境の相互作用はなにか、健康とはいったいどういう状態なのか、そしてそもそも看護とはいったいどのような実践なのかということをめぐって展開されているといってよいだろう。

 城ケ端ら*1によれば、メタパラダイムとはある学問を体系化するための概念的枠組みのことであり、看護におけるメタパラダイムとは、 4つの概念、すなわち人間、環境、健康、看護か ら成 り立っていることは、かな りの同意を得ているとされる。

 おそらく規範的統合における基盤としての健康モデルを考えるときに、看護理論はきわめて重要である。看護理論における健康モデルが、医療者全体に共有されることも充分ありうるだろう。

 このメタパライムに関して、定義あるいは言及している理論家としては、ヴァージニア・ヘンダーソンとベティ・ニューマンをあげることができる。

 

ヴァージニア・ヘンダーソンの看護理論のメタ・パラダイム

人間とは

14の基本的ニードを持ち、必要なだけの体力、意志力、知識を持てば自立していける存在である

**14の基本的ニード**

・正常に呼吸する
・適切に飲食する
・身体の老廃物を排泄する
・移動する、好ましい肢位を保持する
・眠る、休息する
・適当な衣類を選び、着たり脱いだりする
・衣類の調節と環境の調整により、体温を正常範囲に保持する
・身体を清潔に保ち、身だしなみを整え、皮膚を保護する
・環境の危険因子を避け、また、他者を傷害しない
・他者とのコミュニケーションを持ち、情動、ニード、恐怖、意見などを表出する
・自分の信仰に従って礼拝する
・達成感のあるような形で仕事をする
・遊び、あるいはさまざまな種類のレクリエーションに参加する
・“正常”発達および健康を導くような学習をし、発見をし、あるいは好奇心を満足させる

環境とは

ニードの充足に影響を及ぼすものすべて

健康とは

必要なだけの体力、意志力、知識があれば、自力で基本的ニードを満たすことができる状態のこと

看護とは

すべての人々が基本的にニードを充足し、自立あるいは安寧な死をむかえることができるように援助すること

 

ベティ・ニューマンの看護理論のメタ・パラダイム

人間とは

人間はひとつの開放系である

環境とは

ある状況における人間を取り巻く内的・外的作用

健康とは

良好な状態あるいはシステムの安定性のこと

看護とは

人間・家族・集団・社会を援助し、良好な状態を達成することである

 

 ヘンダーソンの看護理論は、印象としてはナイチンゲールの直系的な具体性を感じる。看護覚書の具体性とホモロジーがあると思う。 

 また、ニューマンのシステム論は、家庭医療学のパラダイムと非常に親和性が高いと思う。ちなみに、メタ・パラダイムという視点からすると、おそらく従来の医学と家庭医療学は違うパラダイムにいることは間違いないだろう。

 

 看護理論は医療者教育全般に通底する普遍性があるように思うので、今後もResearchしていきます。

 

https://www.instagram.com/p/BIEFzNqgra6/

 

*1:城ケ端初子, 樋口京子. (2007). 看護理論の変遷と現状および展望. 大阪市立大学看護学雑誌, 3, 3