大きな教育病院あるいは大学病院のなかで診療所家庭医が教育できること

 この5年くらい、大学病院や大規模公的教育病院などのカンファレンスにアドバイザーとしてよばれたり、家庭医としての自分に、主として総合診療あるいは内科レジデントが症例相談する会などを企画していただく機会が増えました。従来は、診療所家庭医と病院との関係といえば、紹介元、逆紹介先としての診療所に対する「接待」であったり、病院でおこなわれている「最新」の医学医療を学べるような無料教育サービスするためだったり、あるいは病院であらたに始めた医療を診療所医師にプローモーションする営業活動だったりしました。しかし、僕はまったく違うベクトルで教育病院にかかわっています。それは、むしろ診療所における外来や在宅医療、地域活動のコンテンツそのものが、病院医療への貢献になりうるという確信があるからです。

 今回のエントリーでは、僕が大規模教育病院で何を伝えているか、どんなことを意識しているかといったことについて、素描してみようと思います。個々の項目の詳細については、これまでのブログエントリー、Podcast(Reflective Podcast by YasukiF)、書籍、「総合診療」の企画編集や執筆した論文や連載で発信しているものですが、かなり播種的になっているので、いずれはまとめていきたいと思っています。

 

診療所家庭医による教育コンテンツ@大規模教育病院

1.外来医療に関するもの

診療所外来指導での教育技法の病院一般外来への適用

  • 外来診療モデル(patient centered clinical method等)の紹介や使い方
  • Disease-Illnessアプローチを病院外来で使うときの注意点
  • 診断推論,特にInductive ForagingとTriggered Routineの活用
  • 病院外来と診療所外来の疾患頻度、あるいは事前確率の違いの重要性と受診理由の違い
  • 患者フローのコントロール法~患者満足度を下げずにどうしたら早く診療を終えることができるのか
  • 各種健康診断の意味

病院外来という比較的孤独な診察室での診療の弱点~Frail Elderlyのみかた考え

  • 老老世帯が二人で診察室に入って来たときにどうアプローチするか
  • 高齢者総合評価の外来での実際

病院外来に紹介する診療所医師の言語化されていない意図の推測

  • なぜこの処方内容になっているのか,そこからみえる診療所医師の能力や経験,診療パターンの仮説設定
  • Ambulatory Care Sensitive Conditionであったかどうかの見分け方

地域での生活の様子の予想

  • 現在の職業、過去の職業、現在の家族構成、及び家族図からの生活像の仮説設定
  • 昭和と平成の理想とされた家族像と価値観~特に大都市部の特徴

 

2.病棟医療に関するもの


診断推論に関しても診療所や在宅の臨床経験からアドバイスできることはある

  • 特に日常病の非典型例
  • 皮疹がキーとなるもの
  • 内科領域以外の疾患存在のヒント
  • 自前の診断パール
  • どのように外来や在宅で対処したら入院が防げたかに関するディスカッションを促す~Ambulatory Care Sensitive Conditionについての認識を深める

治療法などは馴染みがないものついて

  • 「それはどんな薬ですか?知らないので教えて下さい」「効きますか?」「それは一般的によく使われているんですか?」といった素人っぽい質問をすることが若い医師のプレゼンテーションの見直しに繋がり,振り返りを促す
  • 20年以上前の病棟医時代の臨床経験は意外に新鮮にひびく。安全性やインフォームド・コンセントの問題が今ほど重視されていなかった時代の医師の発想を紹介することで、現在行っている医療の歴史的な位置づけを伝える

病棟におけるコミュニケーション困難事例

  • Life Historyの聴取が有用であること
  • 病棟診療におけるFIFEの適用の際に注意すべきこと
  • 倫理的問題~食べられない高齢者,胃ろう適応は普遍的に存在する

看護師は何を考えているか~専門職連携の視点から

  • 看護とはそもそも何か,看護学はどのような学的領域か
  • 看護研究にどうアクセスし,どのように活用,適用するか
  • 看護教育の日本における歴史と,多様性と複雑性~受けた教育による看護観やコミュニケーションパターンの違い
  • 病院看護管理の特徴と問題点
  • 保助看法の読み替えのトレンド

家族指向性ケアの病棟医療への導入

  • 意思決定プロセスのための家族志向性ケアの基本的考え方~構造派家族療法の基本を知り、家族面談をしてみる

Creative Selfの考え方とInterpretive Medicineは病棟医療にもフィットする場合が多い

 

多疾患併存状態(Multimorbidity)をメタレベルで認知することと、ケアの組織化に関するアドバイス


どんな状態で,どんな条件が整うなら退院可能なのかに関するアドバイス

  • 退院後生活の予想にもとづく,退院後の経過に関する仮設設定,再入院はどのようなときに生じるか
  • 訪問診療に移行することのメリットとデメリット

3.その他教養に関するもの

医療と文化や政治との関連に関する示唆

  • マンガ,文学,映画,ドラマ,アートと医療の接続
  • 現在の日本の医療政策の流れ,世界の保健医療の話題
  • 昭和レガシー既得権益団体としての医師団体の紹介と対処法

コミュニティの話題,社会的な価値の変動の話題など

  • ものからことへ,お金の変化,GAFAなど最近の社会経済的動き
  • 若い医師の価値観を聞き,議論を促し,生産的な議論とはなにかを伝える
  • 検討事例と、今起きている社会的事件・事象との関連の考察

 

 これらの項目は、これまでその存在意義が模索され続けてきた、大学医学部総合診療科が他科にどのように教育的に貢献できるかのヒントにもなると信じます。 

 基本的に教育病院での教育活動は、お金には変えられない、非常に楽しく、やりがいのある仕事です。これからも続けていきますよ。

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教養と雑学の違い

教養と雑学の違いに関することを記述しておきます。


1.前提として,仕事の役に立つプラクティカルなマニュアル的知識ばかりおいもとめるのはバーンアウトを準備する条件の一つになるということを理解しておきたいです。


2.仕事の役に立たないが,自分の知識や価値観を変化させそうなもの,あるいは知識や経験の構造に注目して,自分にビルトインできるもの,なんらかの学問的分野に水路づけされるようなものを「教養」と呼びたいと思います。たとえば,小松理虔さんの「新復興論」(ゲンロン)を読むといった行為は,震災からの復興の事実を知るということだけでなく,なぜ今これが書かれねばならなかったのかを考えましょう。この時代はどういう時代なのかを考えられることです。

 この教養をつける学びを意識ときに,ユーリア・エンゲストロームのActivity Theory(活動理論)あるいは,拡張学習はよい学びの枠組みになります。そのシェーマはこんな感じです。僕としては,この拡張学習理論におけるOutcomeが「教養」だと考えています。そして,エンゲストロームによれば,すべての人間の活動は矛盾から生じるということですので,教養をつけるチャンスは矛盾あるいは,え?というような驚きや遭遇にあるのです。

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元リンクは👇

www.blog.crn.or.jp

 


3.仕事の役に立たないが,享楽として限りなく追い求めることができる知識を「雑学」と呼びます。例えば,歴代戦隊のピンクを演じているスーツアクターの男女比を調べたりすることは,まさに享楽に関する知識群でしょう。楽しくて楽しくて,意義とか意味とか関係なく没入してしまう知識や経験のから得られるものです。

 

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「Generalist 7段」相当の病院総合診療医に求められるコンピテンシー

 そうとうイケてるGeneralistは「専門医」というより段位(将棋を想定)で示すべきとかんがえているこの頃です。たとえば、機構認定総合診療専門医は、僕の考えではGeneralist 4段相当です。7段は、Expert Generalistすなわち卓越したGeneralistに与えられるべきであるというふうにみています。

 では、7段のExpert Generralistが病院総合診療医である場合に、どんな仕事(特に病棟で)ができることが必要なのでしょうか。

 これまで様々な病院総合医との対話、実際に病院の総合診療部門への訪問などを通じて僕は、以下のことができることが7段の条件だと考えています。

 逆にこれらがもりこまれていないカリキュラムは、一般内科のカリキュラムにならざるを得ないでしょう。

  • 複雑性が高く、構成要因が比較的重症な多疾患併存患者(Complex Multimorbidity)の入院治療と外来マネージメント
  • 下降期慢性疾患の入院治療と外来マネージメント(入退院を繰り返す、慢性心不全、慢性腎臓病、慢性呼吸不全等)
  • 未診断・未分化で症状が比較的重い患者の確定診断とマネージメント
  • 精神疾患合併患者の身体疾患マネージメント
  • 進行したFrailな患者(Multiple Functionlal Decline)の身体疾患急性増悪期のコントロールとマネージメント
  • 心理社会経済的問題によるCrisisサイクル(Complex/Chaos Cases)を一時的にリセットする入院患者のマネージメント 
  • 上記の構造の問題に関して必要なIllness Experienceに関するアプローチに精通していること

 ここで重要なのは、個別疾患名、たとえば、心房細動とか誤嚥性肺炎とかで仕事を規定せず、あくまで、患者の健康問題の「構造」を重視するということです。心房細動の治療ができるとかできないとかとかといった仕事内容の記述の仕方は、まちがいなくGeneralistの特徴を表現することができません。また、心理社会的背景を重視するというような漠然とした語り口もだめでしょう。診療の対象となる問題の「構造」に関する特徴で考えていくことが必須です。そうしないと、Generalistのコンピテンシーは卒前教育や卒後初期研修とみわけがつかなくなるのです。

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複雑困難事例や多疾患並存の診療のために必要なこと

 この数年間、いくつかの比較的規模の大きい病院の総合内科や総合診療科でのケース・カンファレンスに参加したり、あるいはコンサルテーションで招かれたりしています。むろん地域の家庭医としての仕事をしている自分だからということで、セレクションしてもらっているということもあるとは思いますが、僕に相談したいと提示されるケースは、下降期慢性疾患がいくつかある多疾患並存multimorbidityのケースや、社会経済的問題や家族問題などで複雑な状況になっているケースだったりすることが多いようです。また、患者医師関係に困難があるケースも結構提示されます。そして「食べられない高齢者」ケースでの、家族と医療者の認識のギャップ問題は定番中の定番であり、どの地域にいってもかならず「困っているケース」として取り上げられます。プロシージャ、たとえばカテーテル治療、内視鏡治療などの治癒的治療・処置目的の入院患者が多い病棟とちがって、いわゆる一般内科とみなされている病棟全体が、ほぼcomplex casesやmultimorbidityであふれているように見えるというのは、言い過ぎでもないような気がします。

 内輪のカンファレンスだからということもあるのでしょうが、ブラックなジョークも結構飛び交うし、「この患者さんはこだわりの強いキャラで、説明が入らないので困ってます。IC(!)とれません」というように、「◯◯なキャラで」というのは、若い医師の間では定番フレーズになっているようです。おそらくこれは、若手医師自身のストレスに対するある種のガス抜きになっており、仕事を続けていくためには必要な反ポリコレ的な言説だろうと思います。あくまでクローズドでのみ通用する言説です。

 端的に言えば、complex casesやmultimorbidityあるいは下降期慢性疾患(入退院を繰り返す高齢者の慢性心不全など)をみるためには医師側にレジリエンスが相当必要になるということなのです。

 また、従来型の看護師ー医師関係が維持されている病棟はたくさんあります。つまり、「医師がすべてをルールする」という孤高の医師像、lone physician modelとして医師を位置づけている病棟看護師文化はまだまだ健在ですし、「そろそろ退院の時期なので説明してください」といった言説は根強くあるようです。そもそもcomplex casesやmultimorbidityは問題解決が原理的に不可能な場合が多く、「医学的」問題解決をずっと長期間にわたって教育されてきたlone physicianの医師はあきらかに無力な場面が多いと思うのです。

 最近目にしたサイトに、高齢者を「枯らす」ための医学的方法論について大真面目に展開しているブログがありました。読んでみると、その文章の基底にあるのは、「自分がやっている医療、やるべきとされている医療には何の意味があるのか」という無力感と徒労感だと思いました。

 総じていうと、医師の可処分所得、可処分時間を制度的に確保したとしても、「可処分精神」が確保されないと「内科病棟」の医師はもたなくなる、バーンアウトするのではないかということです。

 現在若手のprimary care研究者として活躍している家庭医療専門医が、レジデントとして僕のプログラムに在籍していた時、プログラム修了要件とされていたミニ研究を診療所で実施しました。それは、ある特定の2週間の間に自分が診療所で診た全ての患者の複雑度を測定するというものでした。それにより、明らかになったことは、家庭医療診療所では子どもの患者が多いせいもあって、複雑度の低い患者がかなり多く、相当複雑度の高い患者も少数だが確実に存在しているということでした。ヒストグラムは複雑度の低いところから高いところに向かって、ロングテール状に伸びていました。当時その報告を見たときは、「いや、そりゃそうですよね、診療所だし・・」と思っただけでしたが、最近この研究の重要性に気づいたのでした。

 なぜ、自分が診療所の外来や在宅で、かなり難しいcomplex casesやmultimorbidity casesを意欲的に、もっといいかえると精神をすり減らし過ぎずに診ることができるかということにこの研究はつながっているとおもったのです。つまり、熱性疾患が改善した子どもの笑顔に癒されたり、病状の落ち着いたお年寄りが控えめに発した「先生も無理しすぎないようにしてくださいね」という言葉にほっこりしたりすることが重要なのだと気づいたのでした。つまり、医師が自分の仕事の対象に癒されることがないと、あるいは癒し、癒されるような相互関係がないと可処分精神を確保することができないだろうし,complex casesやmultimorbidityをよい精神状態で診ることができないのだと思ったのです。

 おそらく病棟を担う総合診療医や総合内科医は、癒し、癒される診療現場を定期的に回遊したほうがいいと思います。そして、そいういう診療現場は家庭医療を展開している場に結構あると思うのです。

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DPC・総合病院での総合診療の役割

 昨年末から今年はじめにかけて,僕は予想外の入院生活を20日間過ごすことになった。緊急入院や全麻手術,リカバリールーム,感染症合併など様々な経験をすることになった。そして,DPC病院/総合病院の内部で時間を過ごすことは,長い医師生活において,はじめてのことであった。紹介先・連携先としてしか,この25年はDPC病院とは関わっていなかったからである。そして,現代の総合病院がどのようなものなのかを考えることができた日々でもあった。

 自分自身の病状が落ち着いてくると,病院内をウロウロすることも可能になってくるわけだが,なにか楽しいことが病院内で行われているわけではないので,一階の飲料自販機(自動でコーヒー豆をミルして淹れてくれる,ちょっと高級なヤツ)の150円コーヒーを買って,外来の椅子にすわってそれをゆっくり飲むのが午前中の楽しみになっていた。そこで総合病院の外来を観察することになった。

 自分が入院していた病院には総合診療科はなく,また一般外来らしきものもあるにはあるが,臨時対応的なものを交代で各専門科医が担当してるもののようであった。

 おどろいたのは,午前中の外来はかなりFrailな高齢者や車椅子でしか移動できない患者が結構多いということであった。さすがに長年家庭医をやっているので,わかるのだが,まちがいなくそういう人たちは多疾患併存であり,また身なりやつきそいの方の様子から見て,様々な生活の問題をかかえているような,単身生活虚弱高齢者であったり,貧困の問題をかかえていそうな人たちであったり,老老世帯であろう人たちであった。

 自分自身が通院したり入院したりした経験からすると,DPC・総合病院の診療モデルはあきらかにある特定の疾患に対して,集中的・効率的に専門医療=Curativeな医療を行うように構築されている。外来も同様であり,あきらかにプライマリ・ケア機能では構造化されていない。かかりつけ機能あるいは継続性を保証しているのは,各診療科の外来クラークの人たちだったりする。看護師もかなり入れ替わりがあり継続性の担い手にはなっていないようだった。自分自身も外来の顔見知りは,担当医とクラークの人である。

 そして,通院患者は,DPC・総合病院の役割は一段落と判断されれば,いわゆる地域のかかりつけ医に逆紹介されるし,病院外来のフォローアップインターバルも特定の疾患焦点診療型なのでどんどん長くなっていく。現在自分自身のフォローアップインターバルは6ヶ月に一度となっている。自分自身は単一疾患で病院に通院しているし,病状もきわめてよく改善しているので,それでまったく問題はない。

 しかし,多疾患併存のFrailな高齢者はそうは考えていないだろう。まちがいなくDPC機能を期待して病院に通院してはいないと思う。たとえば心不全で通院していて,腰痛があれば,同じ病院の整形外科に一度はかかるが,そうした整形外科外来は退行性変化にともなう,手術適応のない慢性の腰痛は診療の対象にしていないことが多い。これは地元の病院か開業の整形外科に紹介される可能性が高くなる。

 また,多疾患併存や複雑事例(入院当初から退院困難が予想される等)の入院患者のマネージメントは当然存在しているのだが,DPC・総合病院の構造的特徴からフィットしにくいだろうことは,自分の入院中に,病棟の他の患者の様子をみて再確認したのであった。

 僕は,これらの経験からDPC・総合病院において間違いなく総合診療は必要であるという確信をもった。それは以下の診療領域が必要であり,実際に存在しているからである。

  • 多疾患併存,Multimorbidityの通院患者のコントロールセンターとして,継続性(Interpersonal & Informational Continuity)を保証した,かかりつけ医としての役割
  • 入院当初から退院困難と評価されるような複雑困難事例のコンサルテーションの役割
  • 専門科通院患者で,専門科領域ではないと判断されたあらたな症状や所見の臨床推論・治療する役割
  • 入退院を繰り返す下降期慢性疾患(慢性心不全,慢性呼吸不全,透析をしない慢性腎臓病,退行性変化由来の誤嚥,等)の入院主治医機能を持つことにより,地域包括ケアにおける垂直統合の担い手の役割

 これらは病院総合診療医の専門性そのものであり,卓越したジェネラリスト診療そのものであり,家庭医療とまったく同じパラダイムにある。そして,日本の内科学には上記に関する学的基盤は存在していない。あくまで,診断治療以外の「マネージメントの話」「接遇の話」であり,学会発表の対象にならず,研究業績としてはみとめられない領域ではないだろうか。成人の総合診療としてのAdult Medicineとして内科がそれなりに認知されている欧米とは相当異なる内科文化であることはリアルに見ておく必要があり,内科のサブディビジョンとして,こうした役割をになわせる部門を設定するのは,おそらくうまくいかないだろう。管理ライン上,内科とは違う部門にしたほうがうまく運営できるように思う。

 病院総合診療専門医を構想するのなら,たとえば大学病院においてサバイバルするために,針穴のようなカバーされていない専門領域を探すのではなく,現代の日本におけるDPC・総合病院の実際の患者層を直視することであり,そこにブルーオーシャンが広がっていることを基盤にしなければならない。そもそも日本におけるDPC・総合病院には構造的な欠陥があるからである。

 本気でこの国のヘルスケアシステムに貢献するために病院総合診療専門医を構想するのなら,過去のルサンチマンやネガティブな体験からくる自己承認欲求(僕の世代に近い人達がそういう傾向がある・・)からではなく,リアルな現状から出発すべきである。そこに未来は確かにあるのだから。

Homogeneous space

12年前に病院総合診療医について考えていたこと

 今回,地域立脚型中小規模病院が総合診療の拠点となるためのkey issuesというタイトルで,当時の総合診療医学会に寄稿したエッセイをRemixして再録してみます。
 当時の時代認識と現在の状況は異なるところもありますが,今読み返すといろいろ気づきもあります。ここでは主として中小規模の病院を念頭に記述していますが,大学病院等の「DPC病院」における総合診療の役割も,実は以下の議論の延長線上に展望できるのではないかと思っています。また,ホスピタリストのコンピテンシー議論とは違うベクトルの議論になっています。もし,議論されている病院総合診療医がなぜ家庭医と同じパラダイムにいるのか,つまり規範的統合が可能であるということが伝わるとウレシイです。


はじめに
 近年の日本におけるヘルスケア・システムの変化と医学医療自体のパラダイム変化により、医療施設は、curative careと入院医療を中心としたDPC総合病院、高齢者のケア施設、そして診療所におおきく三分される方向になっている。その中で今,地域の中小病院は、生き残りをかけて今後のあり方を模索しているといえるだろう。
 日本は人類史上類をみない超高齢社会となり、高齢者医療は日本においてもっともプライオリティの高い課題である。また、低経済成長が基調となった現代においては、いかに費用対効果を向上させ、増大する医療費をどうコントロールするかが愁眉の課題である。また、僻地や離島などの医療過疎地域の問題など、日本におけるヘルスケア・サービスの不均等が再びクローズアップされている。こうした様々な問題群に対しては、primary care drivenなヘルスケア・システムの強化が有効であることが、様々な研究から明らかにされている。

 筆者は、日本におけるプライマリ・ケアの強化の担い手は、診療所における質管理された家庭医と、中小規模病院において、外来、入院、在宅医療をバランスよく行える,病院総合診療医であると考えている。そうしたジェネラリストを数多く養成することが、日本における医療の未来のキーとなるのではないだろうか。
 現代の医学医療の到達点をふまえると、中小規模病院が自己完結的に医療を展開することは、妥当性に欠け、危険ですらある。むしろ地域の総合病院、中小規模病院、診療所群、各種ケア施設などが、それぞれの役割を明確にしつつ、連携してひとつのシステムを構成することが求められる。とすると、中小規模病院の主たる機能は、以下のように整理できるかもしれない。

 

  • 高齢者に対する入院機能,特に在宅ケアや施設ケアを支える入院機能
  • 外来や在宅と効率的効果的に連携したフットワークの軽い入院機能
  • かかりつけ医機能をもった「最初のよりどころ」的外来機能
  • 緩和ケアを可能とする「最期のよりどころ」的な外来、在宅、入院機能


 この論考では、病院総合診療医が主役となって、こうした機能を実現した「かかりつけ病院」としての地域立脚型中小規模病院のあたらしい姿を構想するためのキーとなる概念をいくつか提示したい。


最初と最期のよりどころとしてのmedical homeをめざして
 「かかりつけ病院」としての中小規模病院を構想する際に、米国小児科学会のプロジェクトMedical Home Initiativeが示唆的である。これは、複雑ニーズを抱えた、慢性疾患や障害をもった子供たちへの質の高いケアを提供するために提唱され、困難をかかえた子供たちとその家族にとって、従来の病院や診療所にかけていた、我が家=homeのような機能をもった患者中心のアプローチの提唱である。
 Medical Homeがそれとして、成立するためには、以下の構成要素が必要とされる。これらはまさに、プライマリ・ケアや家庭医療の原則にほぼ一致している。

  • 近接性
  • 家族中心
  • 継続性
  • 包括性
  • 協調と調整
  • 献身的な一生懸命さ

 さらに、米国において,Medical Homeとしての施設をどのように地域住民にアピールしているかを、以下に紹介する。

  • あなたの性別、年齢、健康問題の質にかかわらずなんでも相談にのります
  • 私たちは皆あなたのことを知っています
  • 私たちはあなたの家族のことに関心があります
  • あなたとあなたの家族は私たちをパートナーとしてみてくれます
  • あなたとあなたの家族の意見や要求を尊重しています
  • あなたの歩みのたよりになる同盟者です
  • 慢性の疾患や障害をケアする際に、生活の質を重視します
  • 人生の最期の時peacefulな場でそれを迎えることができることを支援します
  • 地域にでるとりくみを行い、施設外への影響力をもつことをめざします
  • スタッフには医療者として成長したいという思いがあります

 これらは、かかりつけ病院を志向する中小病院がMedical Homeとして機能できるかどうかのチェックリストになるのではないだろうか。そして,これらが実現できるような組織運営が求められるだろうし、そのリーダーはプライマリ・ケアの原則を体現できる病院総合診療医がふさわしいのではないだろうか。

社会医学(social medicine)的視点の重視
 総合診療は、生物医学の枠にとどまらず、生物・心理・社会・倫理、さらに政治・経済・環境のコンテキストの中で、個別の患者や地域の健康問題を取り扱うことが特徴である。したがって、健康の社会的決定因子を重視する総合診療医は、ウイルヒョウがかつて"Physician was the natural advocate for the poor."といったように、医療に恵まれない人たち、差別し排除されている人たち、すなわちthe underserved peopleのケアを中心的に担うことが求められているのではないだろうか。現状では、地域の中小病院がthe underservedのケアの拠点としてふさわしいだろう。the underservedは国民皆保険がまがりなりにも成立している日本にもむろん存在する。医療にアクセスしにくい僻地や離島の住民はもちろんであるが、都市部においてもLGBTQや外国からの労働者などのマイノリティ、HIV、慢性障害、ホームレス、失業や貧困、片親家庭など、社会的に弱い立場にある層もthe underservedである、こうした領域のケアのリーダーは、世界に見やも地域に根ざした家庭医や総合内科や小児科などのジェネラリストである。そして、こうした活動の基礎となる哲学は「健康は人権:Health is human right」であり、それを実現するために診療、教育、研究を行う分野が現代的な社会医学(social medicine)である。

 以下の社会医学コンポーネントを総合診療医教育の中では重視しなければならない。

  • 住民が、効果的かつ効率的な医療システムに平等かつ公平にアクセスでき、適切に利用することができるようにする。つまり費用対効果にすぐれた質の高いprimary medical careの提供ができること
  • Preventive medicine を重視すること
  • Public healthを重視し、疫学、ヘルスサービス研究の手法によって、対象集団と地域の健康問題の解決や、診療の質の向上を図ること
  • Social well-beingをすすめるためのリソースを増やすために、施設の壁を越えた活動にコミットすること

老年医学(geriatrics)の重視
 地域の中小病院が地域全体の保健医療ネットワークのなかで効果的に役割を果たし、経営的にも整合性のある活動を展開するためには、質が高く、妥当性があり、費用対効果に優れ、平等・公平の原理を保持した高齢者医療を展開する必要がある。その際に、キーとなるのは、高齢者の内科学ではない、真の老年医学(genuine geriatrics)に基盤をおいた運営である。
 高齢者は様々な問題点を複合的にかかえている。例えばある82歳の女性は、軽度の認知障害、不眠、白内障、難聴、骨粗鬆症、腰痛と膝関節痛がある。さらに糖尿病、高血圧症、心不全で投薬を受け下剤を常用している。足の爪の変形があり、冬になると体のあちこちがかゆくなる。健診では、貧血が指摘されており、消化管の精査をすすめられている。エレベーターのない団地の4階に住み、外に出る事が少ない。夫は進行した前立腺がんで、入退院を繰り返している。もし、個々の問題点ごとに担当者が違ってしまえば、有効な問題解決ができないことは自明であろう。
 この患者がある日家族につれられて受診することになる。主訴は尿失禁と食欲不振である。実は最近心不全症状がすこし悪化したため、循環器の担当医は利尿剤を少し増量していた。そのため、夜間の尿量が増し、腰痛、膝関節痛のために、もともと低下していた移動能力の限界が明らかになり、トイレまで間に合わなくなった。本人はそのことを悩み、食事がすすまなくなっていた。心不全、移動能力の低下、鬱状態といった病態生理学的な因果関係がない健康問題が累積して生じているこの女性を適切にケアできるのが、老年医学に精通したジェネラリストである。

マッチョな論理からの脱却とフェミニンな論理=ジェネラリズムの論理の重視
 「善」に関する女性心理学者C・ギリガンの研究 が、ジェネラリストにおける価値観とジェンダーの関連に示唆的である。彼女の「何を善き事と考えるか?」という質問に対して、男性では、他人に干渉されずに自分で決める自律性とそれを誰にも保証する正義・公正、どのケースにもあてはまる原則を貫くこと、といった答えが多かったのに対して、女性ではそのつど他人の必要としていることを気づかい、おたがいに満足できる関係を築くことが善いことであるという声が多かった。ギリガンは、後者を前者の男性(masculine)倫理と対比させて女性(feminine)の倫理「ケアの倫理」(ethics of care)として位置づけた。
 相談に来た患者の多彩な問題に臨機応変に対応し、治療、アドバイス、ケアを行い、病人が自立した生活に戻っていくチームで援助をすること、病気や障害を治癒させることが困難でも、その人なりに新しい生活を築いていく援助をすることがケアの倫理に基づく医療活動であり、ジェネラリストの基本的な価値観と一致するのではないだろうか。そして病院総合診療医が主役の中小規模病院の仕事は、地域で生活するものとして、独自の価値観や人生観をもった患者の相談にのる仕事、すなわち「異なる人生に出会う仕事」でもある。総合診療は女性の声、つまり「ケアの倫理」が生きる場所であるということが言えるかもしれない。

Silver Triangle


やりますか?理論家庭医療学研究会

 家庭医療学は様々な源流があるけれども,やはりIan McWhinneyによる1980年代の仕事が圧倒的に重要である。いわゆる患者中心の医療に関する一連の研究も当然その時代の重要なアウトプットなのだが,僕的には,A Textbook of Family Medicineにつながる哲学的・理論的仕事はきわめて大切なものなのだ。しかし,実はその後それを引き継ぐような理論的な仕事は,世界的にみてもかなり少ない。かろうじて現代ではLiverpoolのChris Dowrickのグループが家庭医療における主体の問題に取り組んでいるくらいしか目立たないようだ。

 実は,現代の医学におけるアウトプットの指標,すなわち単純化すればインパクトファクターという観点からみると,McWhinneyの仕事のインパクトファクターの規模はきわめて小さいのだ。研究の大多数はいわゆるトップジャーナルにパブリッシュされたものではない。このことについてはこのエッセイをみてもらいたい。

www.ncbi.nlm.nih.go

 しかし,インパクトファクターは基本的には基礎医学研究に圧倒的に有利な指標である。診療自体やシステムに深い影響を与えうる理論的な論文の価値をそうした指標で評価することは明確に間違っている。McWhinneyに源流をもつ理論家庭医療学(僕の造語である)を引き継ぎ,展開する仕事が大学のそうした部門からは一向に生まれそうもない状況は今の大学の業績の評価システムの機械化にあると思う。

 家庭医療をアカデミーのエートスに押し上げるには,理論が必要だ。大学医学部のジェネラル部門は,疫学や診断認知科学だけでは確たる学的基盤をつくれない。学的基盤を形成するためには,主体や個が根本的に検討されねばならないし,歴史や生命,価値,システムが問われなければならない。言語,対話,コミュニケーションが根本的に検討されねばならない。病いと健康を再定義し,コミュニティや家族を再定義する必要がある。新人世やポストヒューマンとの関係,テクノロジーとAI,身体性を問うのだ。いまもっとも注目すべきイーロン・マスクのNeuralinkのプロジェクトのインパクトを的確に考察しなければならない。

 参照し,対話すべきは,哲学であり,精神分析学,文芸批評,宗教学,人類学である。あるいは,コンピューターサイエンスやオントロジーだろう。むろん家庭医療学は疫学とイコールではないし,看護学でもないし,ましてや内科学ではない。

 理論家庭医療学を推し進める世界的ネットワークをこの東京を起点に作ることを展望したいと思う。

Green Tower