「人生会議」は誰を標準の患者と想定しているのか――Dowrickの自己論から見るACP運動

 

藤沼康樹

作成支援:Claude Fable 5(Anthropic)

はじめに  

 以前のエントリーで、Christopher Dowrick の Person-Centred Primary Care: Searching for the Self に示された自己論を、その臨床現場発生的な性格に着目して「家庭医療的人間論」と呼ぶことを提案した。

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 今回はその続編として、この人間論を日本の医療の現在地に引きつけてみたい。取り上げるのは、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)、愛称「人生会議」である。

 先に結論の骨格を示しておく。私の見立てでは、Dowrickの自己論は、日本でブーム化したACPに対する、ある種のカウンター(対抗理論)として読める。ただしそれは、ACPの理念そのものを否定するカウンターではない。正確には、ブーム化したACPが暗黙のうちに前提してしまっている人間観に対するカウンターであり、同時に、ACPが本来立つべきだった土台を再定義し挿入する、いわば救済の理論でもある。この両義性を論じることが、本エントリーの目的である。

ACPはいかにしてブームになったか  

 まず経緯を簡単に振り返っておきたい。厚生労働省は2018年に「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」を改訂し、ACPの概念を明示的に盛り込んだ。同年にはACPの愛称として「人生会議」が選定され、普及啓発が進められた。翌2019年には、著名タレントを起用したPRポスターが「死にゆく本人の視点を茶化している」等の批判を浴びて発送中止となる騒動もあった。この騒動自体、ACPが行政主導の国民運動として展開されたことの帰結であったといえる。さらに診療報酬上も、ガイドラインを踏まえた意思決定支援の体制整備が在宅医療や入院医療の要件と結びつけられ、ACPは現場にとって「やらなければならないもの」になっていった。

 その結果、現場で何が起きたかも振り返ってみよう。少なからぬ施設や地域で、ACPはある種の「様式」になった。意思確認の書式、記入済みのチェックボックス、カンファレンス実施の記録。もちろん真摯な対話の実践も数多くあることは強調しておきたいが、制度が成果物を要求するとき、実践が成果物の産出へと最適化されていくのは避けがたい力学である。ACPをめぐって現場の医療者がしばしば漏らす「書類仕事になってしまった」という違和感は、この力学の症状であるといえるかもしれない。

 そして、私が問題にしたいのは、この様式化の是非そのものではない。その手前にある、もっと根本的な問いである。すなわち、ACPという枠組みは、そもそもどのような人間観を前提しているのか?という問いである。

ACPが暗黙に想定する「標準の患者」

 ACPの定義はさまざまだが、共通する骨格は「将来の意思決定能力の低下に備えて、本人が自らの価値観・目標・意向を、家族や医療者と話し合っておくプロセス」というものである。この定義を成立させるためには、患者に何が備わっていなければならないか、を考えてみよう。

 自分の人生を時間を超えて見渡せること。自らの価値観を言語化できること。まだ来ていない将来の自分について、いま指示を出せること。――列挙してみると気づくのだが、これはジョン・ロック以来の哲学的な「人格(person)」の定義、すなわち「自己を時間と場所を超えて同一の思考主体として認識でき、自らの存在を価値づけられる存在」と、ほとんど重なっている。

 前回のエントリーで見たとおり、Dowrickが第6章で問題化したのは、まさにこの「人格」概念であった。この定義を厳密に適用すると、重度認知症の人や重度の精神疾患を持つ人は「人格」の枠から外れてしまう。そしてそれを放置すれば、ケアの優先順位の切り下げ、究極的には「生きるに値しない生命」という発想への坂道が開く。だからDowrickは「人格」と「自己(self)」を切り離し、人格の定義を満たさなくなった人にも、自己であることに基づく尊厳を保証しようとしたのである。

 この観点からACPブームを見ると、構造的な問題が浮かび上がる。ACPをエンドオブライフケアのパラダイム(標準の枠組み)に据えるということは、「ACPができる人」を標準の患者像に置くということである。すると、すでに語れなくなった人、はじめから語ることが難しい人は、この枠組みの中では「間に合わなかった人」「本人の意思が確認できない事例」として、いわば欠損態で定義されることになる。本人の意思の「不在」を家族による推定で埋める、という実務が続く。ここには、語れる人格を原型とし、語れない人をその欠損として扱う人間観が、違和感を感じないように埋め込まれている。

 Dowrickの自己論は、この人間観のキーとなる構成要素を突くものである。彼の理論において、論文内で紹介している重度認知症のハリーは、欠損態ではない。意識を連続的に流し、自らの世界を生き、関係のなかで意味を紡ぐ、完全な意味での自己である。ACPの枠組みが「もう聞けない人」として処理する場所に、Dowrickは「いまここに居る人」を見出すのである。

先行的自律という争点――ドゥオーキンとドレッサー  

 この対立は、実は英語圏の生命倫理学で30年来論じられてきた問題系と正確に重なっているといえるだろう。「先行的自律(precedent autonomy)」をめぐる、ロナルド・ドゥオーキンとレベッカ・ドレッサーの論争である。

 議論の素材としてよく引かれるのが「マーゴ」の事例である。マーゴはアルツハイマー病の女性で、訪問する医学生の目に、彼女は同じ本のページを行き来し、毎日同じような絵を描きながら、しかし明らかに幸福そうに暮らしている人として映った。ドゥオーキンはこの事例に思考実験を重ねる。もし判断能力があった頃のマーゴが「認知症になったら延命治療は一切しないでほしい」と明確に指示していたとしたら、いま幸福そうに生きているマーゴに、その指示を適用すべきか。

 ドゥオーキンの答えは「適用すべきである」だった。人生を一貫した物語として形づくる利益(彼の言う批判的利益)は、その時々の快苦の経験(経験的利益)に優越する。ゆえに、判断能力があった頃の自己こそが人生の著者であり、その意思が認知症後の自己を拘束する――これが先行的自律の擁護である。ACPの時間的な論理、すなわち「元気なうちに決めた意思が、語れなくなった後の自分を導く」という構図は、哲学的にはこのドゥオーキンの立場の上に建っている。

 これに対してドレッサーは根本的な異議を唱えた。目の前で幸福に生きているいまのマーゴには、いまのマーゴ自身の利益がある。過去の自己が下した判断は、現在の自己が置かれた状況を経験していない者の判断である。なぜ、もはや存在しない過去の視点が、現に生きている現在の人の利益を覆せるのか、と。

 Dowrickの自己論は、この論争において明確にドレッサー側の立場を、しかもより強固な哲学的基礎の上に築くものだと私は考えたい。鍵はデイントンの現象的自己である。自己の核を自伝的記憶や心理的連続性にではなく、意識を連続的に流す(streamする)能力そのものに置くこの立場に立てば、認知症後の自己は、かつての自己の「劣化した残余」ではない。それは完全な資格を持つ自己である。だとすれば、過去の自己の文書が現在の自己の声を自動的に上書きしてよい理由は、少なくとも自明ではなくなる。

 ここで、Dowrickが描いたアルツハイマー病の症例ハリーの場面に思考実験を重ねてみたい。ハリーは元校長である。もし彼が校長時代に、几帳面な性格そのままに精緻な事前指示書を作成していたとしたらどうか。その文書は、夕方になると「学校が終わったから家に帰りたい」と訴えるいまのハリーの欲望に優先するのだろうか。第6章で指導医が実際に行ったことを思い出してほしい。指導医は文書を参照したのではない。いまのハリーの内的世界を受け取り、下校時刻の散歩という解決を、いまのハリーとともに組み立てたのである。エプスタインの言う「共有された心(shared mind)」が応答した相手は、過去の記録ではなく、現在の自己だった。

決定の問題から、存在の問いへ  

 もう一つの対立軸は、問いの立て方そのものにあるだろう。ブーム化したACPは、人生の最終段階を「何を選択するか」という決定問題に変換する。決定問題には成果物がある。意向確認の書式であり、記録であり、実施率である。制度はこれらを数え、要件化することができる。

 これに対してDowrickが立てているのは、「そこに誰が居るのか」という存在論の問いである。そして彼が実践の中心に据えた「共有された心」は、その性質上、事前に取得して保管しておける類のものではない。それは、そのつどの出会いのなかで、思考と感情の交換を通じて立ち現れる、共通に合意された意味と意図である。ハリーと指導医は現実認識すら共有していなかった。それでも共有された心は成立した。この事実は、意思決定支援の本体が文書の中にはないことを、静かに、しかし決定的に示している。

 以前のエントリーで私は、家庭医療の現場では哲学が現場に降りてくるのではなく、現場が哲学を必要としているのだ、と書いた。同じ言い方をすれば、ブーム化したACPは、現場が哲学を必要とするまさにその場所を、書式で先回りして埋めようとする試みに見えるのである。問いが立ち上がるべき場所が、記入欄になっている。

「元気なうちに」の裏面  

 さらに、社会的なメッセージの水準でも考えておきたい。「元気なうちに話し合っておきましょう」という人生会議の呼びかけは、それ自体は善意のものである。しかしこのメッセージは、裏面を持つ。すなわち「語れなくなったら、あなたの声はもう届かない」という前提を、社会に流通させてしまうのである。

 これは「認知症になったら自分が自分でなくなる」という、人々が最も恐れている観念を、制度の側から追認する効果を持つ。そして皮肉なことに、この恐怖こそが「ああなる前に決めておかなければ」という切迫を生み、ブームを駆動する燃料になっている。恐怖が制度を呼び、制度が恐怖を再生産する円環である。

 Dowrickの自己論は、この円環の根を切る。意識が流れている限り、その人は完全な意味で自己であり続ける。語れなくなることは、自己の終わりではない。さらに彼は、エンゲージメント(世界との関与)の概念を、能動的な関与だけでなく、ケアされること、技術の助けを借りることといった受動的・受容的な関与を含むものへと拡張した。ケアを受けることは、自己の縮減ではなく、関与の一形態である。――日本の人生会議の文脈で、本人の意向としてしばしば語られるのが「家族に迷惑をかけたくない」であることを思うとき、この拡張の持つ意味は小さくない。迷惑という語彙しか与えられていない場所に、受容的関与という別の語彙を差し出すことができるからである。

ただし、藁人形戦にしないために――二つの留保  

 ここまでDowrickをACPブームへのカウンターとして読んできたが、公正を期すために、二つの留保を明記しておかなければならない。

 第一に、ACPの理論の側も、すでに自己批判の歴史を持っているという事実がある。事前指示書(アドバンス・ディレクティブ)の実証的な失敗を受けて、スドアとフリードは2010年に、ACPの本体を文書の完成ではなく「将来の意思決定に備える継続的な準備のプロセス」として再定義することを提唱した。さらに2021年には、モリソンらがJAMA誌上で、ACPが目指したアウトカムを実証的に達成できていないのではないかという、より根本的な懐疑を提起し、大きな論争となった。つまり、理念型としてのACP――関係的で、継続的で、対話そのものを本体とするACP――は、Dowrickの共有された心と対立するどころか、むしろ収束する。Dowrickがカウンターとして機能するのは、この理念型に対してではなく、日本で制度化・様式化・イベント化された「人生会議」に対してなのである。この区別を怠ると、議論は藁人形論法に堕する。

 第二に、Dowrickは自己決定を軽んじているのではない、という点である。ケンの診察場面を思い出してほしい。あの場面が到達したのは「残された時間をどう使うかはケン自身が決める」という、きわめて自律尊重的な合意であった。Dowrickが行ったのは自己決定の否定ではなく、尊厳の基礎を自己決定能力から切り離すという操作である。自己決定できる人の自己決定は最大限に尊重する。しかし、自己決定できることを尊厳の条件にはしない。この二つは両立するし、両立させることこそが彼の理論の核心である。

おわりに――カウンターであり、土台である  

 以上を踏まえて、冒頭の見立てに戻りたい。Dowrickの自己論は、ACPブームへのカウンターか。答えは、イエスである。ただしそれは、ACPを打ち倒すためのカウンターではなく、ACPが暗黙に前提してしまった人間観――語れる人格を標準とし、過去の自己に現在の自己への優越権を与え、対話を成果物に変換する人間観――へのカウンターである。

 そして同時に、この理論はACPが本来立つべきだった土台を提供する。その土台の上でACPを再定位するなら、こうなるだろう。ACPとは、変化し続ける自己との、終わりのない「共有された心」の営みの一部である。文書はその営みの痕跡ではありえても、本体ではない。過去に語られた意向は、現在の自己を理解するための貴重な手がかりではあっても、現在の自己を上書きする権限を持たない。そして、もはや語れなくなった人の前でこそ、この営みは終わらずに、むしろ形を変えて深まっていく。なぜならその人は、いまも完全な意味で、そこに在るからである。

 家庭医療的人間論は、このようにして、日本の医療の現在の課題に対して具体的な批評の力を持つ。前回のエントリーの結びで、私はこの理論が個別の土壌に発しながら普遍へと開かれていると書いた。今回見たのは、その普遍性が抽象論にとどまらず、いま進行中の制度と実践を吟味する基準として働く、ということである。理論の価値は、それが現場の違和感に言葉を与えるかどうかで測られる。「書類仕事になってしまった」というあの違和感に、Dowrickの自己論は、確かに言葉を与えていると思うのである。

 

参考文献

Dainton, B. (2008) The Phenomenal Self. Oxford: Oxford University Press.

Dowrick, C. (ed.) (2018) Person-Centred Primary Care: Searching for the Self. London: Routledge.

Dresser, R. (1995) 'Dworkin on dementia: elegant theory, questionable policy', Hastings Center Report, 25(6), pp. 32–38.

Dworkin, R. (1993) Life's Dominion: An Argument about Abortion, Euthanasia, and Individual Freedom. New York: Alfred A. Knopf.

Epstein, R. M. (2013) 'Whole mind and shared mind in clinical decision-making', Patient Education and Counseling, 90(2), pp. 200–206.

Firlik, A. D. (1991) 'A piece of my mind: Margo's logo', JAMA, 265(2), p. 201.

Locke, J. (1690) An Essay Concerning Human Understanding.

Morrison, R. S., Meier, D. E. and Arnold, R. M. (2021) 'What's wrong with advance care planning?', JAMA, 326(16), pp. 1575–1576.

Sudore, R. L. and Fried, T. R. (2010) 'Redefining the "planning" in advance care planning: preparing for end-of-life decision making', Annals of Internal Medicine, 153(4), pp. 256–261.

Sudore, R. L. et al. (2017) 'Defining advance care planning for adults: a consensus definition from a multidisciplinary Delphi panel', Journal of Pain and Symptom Management, 53(5), pp. 821–832.

厚生労働省 (2018)「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」(改訂版).

 

本エントリーは Dowrick, C. (ed.) Person-Centred Primary Care: Searching for the Self (London: Routledge) の読解にもとづく解釈的考察であり、ACP・人生会議に関する評価は筆者の見解である。「家庭医療的人間論」の呼称は前回エントリーで筆者が提案したものであり、原著者の用語ではない。日本のACP施策の経緯(ガイドライン改訂・愛称選定・広報をめぐる経緯・診療報酬上の位置づけ)については、公開時に一次資料(厚生労働省の公表文書等)で年月・名称の再確認を推奨する。参考文献の刊行年・巻号頁も、引用前に原本での確認を推奨する。