医学生は偶然に総合診療・家庭医療を選ぶわけではない —診療所指導医になにができるか?

藤沼康樹

作成支援:Opus 5 (Anthropic)

現代の英国NHSのプライマリ・ケアを担う家庭医療(General Practice)は深刻な人材難のなかにあるようです。2036/37年までに約1万5000人のGP不足が見込まれ、GP研修の充足は英国外の医学部卒業者への依存度がますます強まっているようです。この状況を受けて、今年(2026年)British Journal of General Practiceに、英国の医学生が家庭医療を選ぶ/選ばない要因を検討した系統的レビューが掲載されました(Savelkoulら, 2026)。29の研究を統合したその結論は、三つの支配的要因を挙げています。カリキュラムにおける家庭医療の過小な位置づけ、根強い隠れたカリキュラム(hidden curriculum)、そして実習の質と家庭医のロールモデルの質の影響です。

日本の事情はもちろん異なりますが、このレビューが示した論点のうち一つは、制度の違いを越えて私たちに関わってくるように思います。それは、学生の進路に作用しているのは、指導医の人柄や熱意ではなく、実際の診療と指導行動であるという点です。

このレビュー自体には、良い指導医の条件について「近づきやすい」「熱意がある」といった、学生の主観的評価に基づく薄い記述しかありません。そこで、教育学側の文献をOpus 5の援助で探索し、そこから浮かび上がってきた論点を、診療所指導医向けの教育プログラムのテーマ系として整理してみました。各テーマには、その診療所で明日から学生や研修医に見せられる行動を対応させることを試みています。


テーマ系A:推論を可視化し、学生に語らせる

最も強い根拠があるのがここです。Stalmeijerらは認知的徒弟制(cognitive apprenticeship)の六つの指導方法にもとづく評価尺度を開発し、構造方程式モデルによって、modelling(実演)とcoaching(助言)が中心的な役割を果たし、その効果がarticulation(学生に言語化させること)を介して媒介されることを示しました。

このテーマのポイントは「二段構え」になっているところです。指導医が自分の推論を言葉にして示すこと(modelling)と、学生に自分の推論を語らせること(articulation)は別の技法とされています。「自分の考えを見せる」だけでも、「学生に質問する」だけでも足りません。

家庭医療の外来では、可視化すべき対象が診断推論だけではないところにも特徴があります。身体から生活へ、個人から家族へと焦点が移動する、その移動そのものが言語化の対象になります。診療後の一分で「なぜあの時点で話題を変えたのか」を説明できること。これが指導医に求められる行動です。

テーマ系B:短期実習で失われるものを、どう確保するか

同じStalmeijerらの質的研究は、認知的徒弟制の六つの方法の発現に偏りがあることを報告しています。modelling・coaching・articulationは多くの実習で経験されるのに対し、scaffolding(足場かけ)・reflection(振り返り)・exploration(探索)は、長期かつ同一指導医のもとでの実習でしか経験されていなかったというのです。

これは、発端のレビューが挙げる「縦断型実習はブロック型より有効」という知見に、機序の説明を与えます。期間が長いから良いのではなく、期間が長くなければできない指導技法があるということです。日本の学生実習の多くは一〜二週間ですから、この三つは構造的にやりにくい位置にあります。

対策は、短さを前提にした設計です。初日に到達目標を学生と一緒に決めて足場を組む。振り返りを最終日ではなく短時間で毎日やる。実習後にも学生との接点を残す。プログラム単位で「同じ学生が同じ診療所に複数回戻る」仕組みを作ることは、日本ではまだ試みの余地が大きい領域といえるでしょう。

テーマ系C:責任を設計する、ただし支援とともに

Dornanらは、臨床現場での学習の中核条件を supported participation(サポートされた参加) と規定しました。参加は受動的な観察から「実際にやってみる」へと連続的に移動し、指導医はその過程で支持的であると同時に「挑戦を課す」存在である、というモデルといえます。

この論文には、私たちが読み落としやすい警告が含まれています。「self-directed learning(自己主導型学習)」という言葉が、学生にはしばしば支援の欠如と同じ意味で受け取られていたというのです。任せることと放っておくことは、学生の側からは区別がつきません。

したがってやるべきことは、任せる範囲の段階設計と、任せた直後の支援の型です。そしてもう一つ、指導医が思っている委任水準と、学生が感じている委任水準の差。この差を認識し調整することが大事になりますが、実はそれ自体が有力な指導医教育のテーマになります。

テーマ系D:家庭医の仕事は、見学しても見えない

Parekhらは、医学生に省察日誌(ジャーナリング)をつけてもらう手法で、家庭医療についての認識がどう形成されるかを追いました。抽出された七つのテーマの筆頭が、「GPの仕事の不可視性(lack of visibility and physicality of GP work)」です。次いで「憧れうるロールモデルの不在」が挙がっています。

外来に同席しても、複雑さや不確実さやリスクをどう処理しているかは学生には見えません。見えるのは短い会話と処方です。この論文の提言は、実習において学生に能動的で真正な役割を与え、複雑性・不確実性・リスクを扱うという家庭医の「仕事」を経験させることでした。いいかえると見学だけでは、家庭医の「仕事」の経験にはならないということです。

このテーマは家庭医療に固有であり、同時に日本語の実践知・暗黙知が、実は最も蓄積しているはずの領域でもあります。不確実さを抱えたまま経過を見る判断。身体化された訴えの背後を読む手続き。家族という単位への視点の切り替え。患者を生活者として捉え直す作業。これらを指導医が自分の言葉で説明できるようにすることが、テーマ系Aの前段と直結します。指導医どうしが困難症例を持ち寄り、「あの場面で自分は何を見ていたか」を相互に言語化する形式のトレーニングが、現実的な指導医養成の出発点になりそうです。

テーマ系E:診療所を「問い」が生まれる場として見せる

Barberらのオックスフォードでの調査(回答率89%、280名)では、63%の学生が家庭医の地位を病院専門科より低いと認識し、49%が自校の文化から否定的な影響を受けたと答えました。そして一部の学生は、家庭医療が知的挑戦に乏しく研究キャリアと両立しないと考えていました。著者らはその背景として、学術的ロールモデルへの曝露が限られていたことを指摘しています。

必要なのは研究手法の教育ではありません。指導医が自分の問いを持ち、それを学生に見せられる状態にあることです。到達点は高くなくて構いません。勉強会の企画を一つ紹介したり、いま読んでいる文献を学生に共有する習慣をつけたりすることです。診療所が多面的で放射的な「問い」の生まれる場所だと伝わればよいのです。研究会や学会への学生・研修医の接続をカリキュラム設計に組み込むことも、このテーマ系に含まれます。

テーマ系F:自分の科について、どう語っているか

英国では、家庭医療への否定的言及(denigration)が繰り返し研究されてきました。ただしその多くは病院側からの貶めを対象としています。「うちは大したことをしていない」という当事者の診療所指導医自身の言葉が学生に与える影響については、Opus 5に検索してもらった範囲では、それを検討した実証研究は見つかりませんでした。

ですので、このテーマ系は仮説の段階にとどまります。日本では謙遜の慣用表現と自己卑下の境界が曖昧ですから、そのままこの海外発信の仮説を日本にそのままもちこんでしまうと、言語文化の差を無視することになります。ですから、断定ではなく自己点検の対象として提示するのが妥当であろうと思います。

一方で有用な枠組みもあります。Allsoppらは、貶めを測定可能にする四つの側面を提案しました。用いられる言語、カリキュラム時間の配分、臨床内容が正確に表象されているか、実習資金の公平性です。個人の発言の問題を制度の問題へと移す枠組みで、診療所レベルでは前二者を、プログラムレベルでは後二者を扱うことになるのでしょう。

テーマ系G:条件を整える

Stalmeijerらの研究で、学生が指導方法のばらつきの原因として挙げたのは、指導医の時間不足と指導法の正式な訓練の欠如でした。指導行動を個人の努力に委ねるかぎり、テーマ系A〜Fは再現しません。

指導の時間が業務として認められているか。指導医の評価に教育が含まれているか。診療所全体——看護師も事務職も含めて——が学生を迎える体制になっているか。これは指導医教育のテーマというより、指導医教育が機能するための前提条件です。ただし、プログラムの設計者が扱わなければ、誰も扱わないまま残ります。


場所によって、足りないものが違う

同じテーマ系でも、置かれた文脈によって重み付けは変わります。以下に診療所のコンテキスト別の考察を付記しましたが、これらはどう配分するかの話であって、テーマ系のどれかを省いてよいという意味ではありません。

大都市圏。 隠れたカリキュラムが最も濃い環境だと思います。学生は病院専門科の序列を日常的に浴びていますし、出所のわからない否定的な認識も流通しやすいです。一方、患者数が多く一件あたりが短いため、複雑さの可視化(D)が構造的に困難になりやすいです。重心はDとFに置かざるを得なくなるでしょう。ただし大学が近いという利点があるので、学術的ロールモデルへの接続(E)は最も実現しやすい環境でもあります。実習が短期・多人数になりがちですから、(B)の短期設計と、指導医間のばらつきを抑える標準化も課題になります。

地方都市。 病院と診療所の関係が見え、地域における医師の位置が学生に伝わりやすい環境です。指導医の数が限られるぶん同一指導医との継続が確保しやすく、(B)が自然に成立する条件があると思います。裏返せば指導医個人の質に全面的に依存しますから、(A)と(G)への投資が最も報われやすい場所でもあります。地域のなかで総合診療がどう位置づいているかが直接見えるため、(F)の影響も相対的に大きくなるでしょう。

僻地・離島。 責任の付与(C)が自然に最大化され、正統的周辺参加が最も濃く成立します。縦断型実習の研究が示した職業的アイデンティティ形成の効果は、この文脈で最も強く現れると予想されます。ただしリスクも対応して大きい。第一に、支援を欠いた責任になりやすいこと。指導医が忙しく孤立していれば、任せることは放置と見分けがつきません。第二に、言語化(A)の余裕が最も乏しいこと。第三に、学術的ロールモデル(E)が不在になりやすいこと。ですから重心は(C)ではなく(A)と(E)に置かれることになるでしょう。責任は放っておいても付与されるので、鍛えるべきはそれを支える側です。遠隔での指導医支援ネットワークも、他の文脈以上に実質的な意味を持ちます。

もう一点、僻地実習には固有の課題があります。強烈な経験が「あそこだから成り立つ特殊な医療」として処理されてしまうと、都市部で働く自分の姿には結びつきません。振り返りの場で、何がその土地に固有で、何が家庭医療一般に属するのかを分けて言語化する作業を組み込まないと、経験が進路選択につながらなくなります。


どこから始めるか

すべてを同時に扱う必要はないと思います。(A)と(C)を基盤に据え、(D)を家庭医療に固有のコアとして重ねていくことでしょう。(B)と(G)は診療所とプログラムの条件整備として並行させます。(E)と(F)は、指導医集団に共通の言葉ができてから扱うほうが機能すると思います。特に(F)は、押し付けとして感じられやすく、そうなると指導医の自己防衛を招くかもしれません。

評価については、Stalmeijerらが開発した尺度(Maastricht Clinical Teaching Questionnaire)が一つの選択肢になるかもしれません。研究では学生7〜10名の評定で個々の指導医について安定した評価が得られると報告されており、診療所単位の規模とも合います。何より、人格の評価ではなく行動の評価として構成できるため、指導医が受けとめやすいと思います。日本語版の作成と妥当性の検証それ自体が、この領域の空白を埋める仕事になりそうです。

最後に、冒頭のレビューが引いていた英国の報告書の一節は「学生は偶然で家庭医療を選ぶのではない」でした。選ばれる側、つまり家庭医療に何ができるかという問いは、日本においても、これから問い続けていく必要があるでしょう。


参考文献

本稿の文献はPubMedでの検索により収集しました。

  • Savelkoul C, et al. Factors influencing UK medical students' choice of general practice: a systematic review. Br J Gen Pract 2026. DOI
  • Stalmeijer RE, et al. The Maastricht Clinical Teaching Questionnaire (MCTQ) as a valid and reliable instrument for the evaluation of clinical teachers. Acad Med 2010;85(11):1732-8. DOI
  • Stalmeijer RE, et al. Cognitive apprenticeship in clinical practice: can it stimulate learning in the opinion of students? Adv Health Sci Educ 2009;14(4):535-46. DOI
  • Dornan T, et al. Experience-based learning: a model linking the processes and outcomes of medical students' workplace learning. Med Educ 2007;41(1):84-91. DOI
  • Parekh R, et al. Medical students' experience of the hidden curriculum around primary care careers: a qualitative exploration of reflective diaries. BMJ Open 2021;11(7):e049825. DOI
  • Barber S, et al. UK medical students' attitudes towards their future careers and general practice. BMC Med Educ 2018;18(1):160. DOI
  • Allsopp G, et al. Defining and measuring denigration of general practice in medical education. Educ Prim Care 2020;31(4):205-9. DOI
  • Brown MEL, et al. Medical Student Identity Construction Within Longitudinal Integrated Clerkships. Acad Med 2022;97(9):1385-92. DOI
  • Wright SM, et al. Attributes of excellent attending-physician role models. N Engl J Med 1998;339(27):1986-93. DOI
  • Lyons K, et al. Cognitive apprenticeship in health sciences education: a qualitative review. Adv Health Sci Educ 2017;22(3):723-39. DOI

プライマリ・ケア外来/訪問診療における「実存の次元」―緩和領域のスピリチュアルケアと何がどう違うの?

藤沼康樹

作成支援:Opus 5 (Anthropic)

2026年8月19日

1. はじめに

私たちの診療の中で「実存の次元」という言葉は、比較的すんなり受け入れられています。ただ、その理解はまだ輪郭が曖昧なままです。

曖昧なまま置いておくと、実際には一つの誤解に落ち着きます。「実存的な問題=終末期の話」という誤解です。日本では実存的・スピリチュアルな主題は、ほぼ緩和ケアの文脈でのみ教えられてきました。その結果、目の前の患者が終末期でなければ「まだそういう時期ではない」と判断され、実際には存在している懸念が視野から消えてしまいます。

このテキストの目的はたった1つです。外来と訪問診療における実存の次元は、がん終末期のスピリチュアルな次元とは別種のものであり、それを別のものとして見る目を持つことで、日常診療で見えるものが増えるということを示そうと思います。

2. 実存の次元とは何か

国際的にも統一された定義はありません。ただ、この領域で最も整理された枠組み(La Cour & Hvidt, 2010)では、次のような階層で捉えます。

        実存的志向(existential orientation)

                    │

    ┌───────────────┼───────────────┐

 世俗的          スピリチュアル       宗教的

(意味・価値・   (超越的なものとの   (特定の信仰・

 つながり)       つながり)           実践・共同体)

 

重要なことは、実存的次元が上位概念であり、スピリチュアル/宗教的要素を「含みうるが、必ずしも含まれるわけではない」という点です。英語圏の看護・緩和ケア文献は「スピリチュアリティ」という語で全体を包んでしまいますが、そうすると宗教的語彙を持たない人の実存的懸念が捉えにくくなります。

日本のプライマリ・ケア領域で私あるいはCFMDが「スピリチュアルケア」ではなく「実存の次元」と言おうとしているのは、この理由によります。より広く、より宗教から中立な入口を確保するためです。

デンマークの家庭医31名に「実存的とは何か?」を自由に語らせた研究(Assing Hvidt et al., 2016)で挙げられたのは、次の4つでした。

存在とアイデンティティ — 自分は何者で、なぜここにいるのか

他者・社会とのつながり — 家族、周囲、共同体への帰属

過去の人生の総括 — 何をしてきたのか、それは拠り所になるか

価値観と将来の優先順位

注目すべきは、この段階で「死」はほとんど語られなかったことです。死が前景に出るのは、彼らが自分の実践を語り始めてからでした。ここに後述する重要なズレがあります。

3. 外来・訪問診療での現れかた

ポイントは実存的懸念は「実存的懸念」という顔をして現れないことにある

臨床で実際に遭遇する形は、次の6つに整理できます。

(a) 身体症状として

原因のはっきりしない腹痛、めまい、倦怠感。生活の話を聞き始めて初めて、なぜその症状があるのかが見えてくる。あるデンマークの家庭医の言葉を借りれば「実存の次元を避けては自分を誤魔化せない」場面があります。

(b) 抑うつ・不安の訴えとして

「不安です」「気分が落ち込みます」という訴えは、自分自身・他者・自分の世界との関係に困難を抱えていることの表明として理解した方がよい場合があります(Rayner & Vitali, 2015)。すべてがそうだというわけでなくて、純粋にうつ病や全般的不安障害とラベリングすべきことも多いです。しかし、すべてを疾患の症状として処理すると、この層は見えなくなります。

(c) 診察の最後の一言として

患者は「これは医者に持ち込んでよい話題なのか」を確信できていないため、診察終了間際まで待ってから切り出すことがあります。「先生にしか言えないんですが」ということばがでてきたときです。

(d) 受診しないこととして

ケアの分業が進むと、患者は「これは医者の管轄ではない」と独自に学習するようになります。デンマークの家庭医は、がん患者に「病院での治療が終わったら必ず来ること」と約束しておかないと自分の外来には来ない、と語っていました。来なかった人の実存的懸念は、原理的に外来では見えません。

(e) 医師の「勘」に感知されるものとして

家庭医たちは、この領域に標準化された手順はなく、直観と "gut feeling" で探ると答えました。ただし研究者はここに批判も加えています—その勘は、医師自身の偏りに支配されていないか?という批判です。

(f) アドヒアランス不良として

「何のために飲んでいるのか分からない」。慢性疾患管理の問題として現れる実存的問いがあります。

日本の外来でよく聞く言説

上記を日本語の語彙に翻訳すると、おそらくこうなります(これは文献ではなく、私たちの臨床実感からの仮説です)。

家族に迷惑をかけたくない

もう十分生きたから」「もう歳だから」

何のために治療しているのか分からない

張り合いがない

とりわけ「迷惑をかけたくない」は、日本のプライマリケアにおける実存的懸念の中心的な表現かもしれません。これは関係性の中の自己の価値付けの問題であり、欧米の枠組みにも、個人の魂を単位とするスピリチュアルケアの枠組みにも、素直には収まりません。

4. 緩和ケア領域におけるスピリチュアルな次元との違い

両者は「軽症/重症」の連続体ではなく、問いの構造そのものが違うと捉えると整理できます。

 

外来・訪問診療

がん終末期の緩和ケア

中心的な問い

この人生をどう生きていくか

この有限性をどう引き受けるか

時間の向き

開かれた未来。日常が続く前提

閉じつつある未来。残り時間が明示的

典型的な主題

アイデンティティ、役割、つながり、生きがい

死の恐怖、離別、無意味感、尊厳

提示形式

ほぼ間接的(上記6形式)

比較的直接的に言語化される

きっかけ

慢性疾患、喪失、退職、介護。明確な契機がないことも多い

診断告知、増悪、終末期移行という転換点

患者の自覚

自分でも問題と認識していないことが多い

話題化が社会的に許容されている

中核的資源

関係的継続性(人生を通じて知っていること)

学際チーム、時間、専門的訓練

主な失敗様態

気づかれない(沈黙の見落とし)

気づかれるが扱いきれない

この表の意味するところ

1. 定義の輸入が視野を狭める 

デンマークの研究の最も重要な所見は、家庭医たちが実存の次元を「広い生の条件」として理解しているのに、実践では生命を脅かす疾患と死にほぼ限定して扱っていた、というズレでした。左の列を生きているのに、右の列の定義で自分の実践を認識している。日本で「スピリチュアルケア=緩和ケア」として教えられてきた現状は、これをさらに強めます。

2. 左列は「軽い右列」ではない 

がんの告知も受けておらず、余命も限られていない、しかし「何のために生きているのか分からない」という人は、緩和ケアの枠組みでは対象になりません。強度が低いのではなく、別種の問題です。

3. 訪問診療では両者を横断する 

私たちは同じ患者を、フレイルから多疾患併存、認知症、そして看取りまで、同一の関係の中で数年以上かけて診ていきます。この表のような二分法は在宅では成立しません。だからこそ、終末期だけに錨を下ろしていない概念が必要になります。

5. なぜ扱われにくいのか?

これは知識や技法の不足ではありません。デンマークの家庭医たちは、自分たちを取り巻く2つの文化を障壁として名指しました(Assing Hvidt et al., 2017)。

生物医学的な刷り込み(解決志向) 

「座っている以上、患者に何かを与えなければ、薬か何かを」。しかし「なぜ私に?」という問いには、答えも説明も解決もない。あるグループの結論はこうでした—「私たちが障壁なんだ」。論文のタイトルはここから来ています。

世俗的な刷り込み(信仰への怯え) 

「私たちは信仰に怯えている」「心理的なものと身体的なものの向こう側を語る言語がない」。日本にも同型の壁があります。宗教への警戒、布教とみなされることへの恐れ。

時間 

これについては意見が割れていました。「時間がないのは真実の全部ではない」「血圧の頻回チェックより重要かどうかという、優先順位の問題だ」と反論する医師もいたことは、記憶しておく価値があります。

自分自身の曖昧さ 

最も示唆的な所見です。この話題を患者と扱えるかどうかを決めるのは、医師自身が自分の価値観・死生観について自覚を持っているかでした。「自分の確信が曖昧だから気まずくなる」。

6. では、何をすればよいのか?

解決することをカッコに入れる

これが最も重要な姿勢です。患者は解決を求めているのではありません。ある研究では、慢性疼痛患者の57%が医師の実存的ニーズへの注意に不満を持ち、それが疼痛・抑うつ・障害度の高さと関連していました。求められていたのは答えではなく、聴く姿勢でした。

スウェーデンの疼痛クリニックの臨床家たちの態度は、「他者を他者のままにさせる」と表現されています。

1回で完結させなくてよい

これは私たちの固有の強みです。専門的心理療法は限られた回数で完結させなければなりませんが、私たちは数年かけて断続的に触れることができる。1回の面談で深く掘る必要はありません。年に何度か、数分ずつ、同じ主題に戻ればよい。

これは劣化した介入ではなく、関係的継続性を持つ者にしかできない固有の介入様式です。

節目ごとに思い出す

標準化された問診票にはなじまない領域です。ただし勘だけに頼ると、私たち自身の偏りに支配されます。現実的な折衷は、患者に尺度を配ることではなく、自分へのリマインダーを持つことです。

訪問診療の年次見直し、多疾患併存の外来、認知症の初期診断のあと— 「この人の生活の意味と役割について、最近話しただろうか」

7. まとめ

*実存の次元は、スピリチュアル/宗教的要素を含みうるが、必ずしも含まない上位概念

外来・訪問診療では、実存的懸念という顔をして現れない(身体症状、抑うつ・不安、最後の一言、受診しないこと)

*がん終末期のスピリチュアルな次元とは、問いの構造が違う(どう生きるか/どう終えるか)

*障壁は技法不足ではなく、解決志向の刷り込みと、自分自身の曖昧さ

*求められているのは解決ではなく、聴く姿勢と、時間をかけて何度もそこに戻ってくること

 

参考文献

  1. Assing Hvidt E, et al. The existential dimension in general practice: identifying understandings and experiences of general practitioners in Denmark. Scand J Prim Health Care. 2016;34(4):385-393.

  2. Assing Hvidt E, et al. 'We are the barriers': Danish general practitioners' interpretations of why the existential and spiritual dimensions are neglected in patient care. Commun Med. 2017;14(2):108-120.

  3. Andersen AH, et al. Doctor–patient communication about existential, spiritual and religious needs in chronic pain: A systematic review. Arch Psychol Relig. 2019;41(3):277-299.

  4. Rayner M, Vitali D. Short-Term Existential Psychotherapy in Primary Care: A Quantitative Report. J Humanist Psychol. 2015.

  5. La Cour P, Hvidt NC. Research on meaning-making and health in secular society: secular, spiritual and religious existential orientations. Soc Sci Med. 2010;71(7):1292-1299.

 

 

仮想対談:周辺にとどまるということ~Ian R. McWhinney にきく~

Ian R. McWhinney, The importance of being different. William Pickles Lecture 1996. Br J Gen Pract 1996;46:433-6 を挟んで

作成支援:Claude Opus 5(Anthropic)

これは実在の人物の公刊された著作にもとづいて構成した架空の対談である。McWhinney側の発言は、この講演および彼の著作に示された論旨から再構成したものであり、当然ながら、実際の発言記録ではない。

1 周辺人であることの選択

藤沼 今日はこちらを持ってきました。1996年4月、アバディーンでのWilliam Pickles Lecture。Kiddの記念講演の元になった、先生ご自身のテキストです。まず冒頭です。

McWhinney Reidの調査の話ですね。

藤沼 1975年にスコットランドで、当時12人しかいなかった大学所属の一般医全員に面接した研究です。彼らは医学部のなかで「周辺人」だと感じていて、学問的主流からも、常勤の実地医家からも疎外されていた。先生はそれを引いたあと、こう書いています。受け入れられるためには、一般診療はもっと実務主義を脱し、もっと理論的になり、もっと量的研究を産出しなければならない、と言われている、と。そして、それを退ける。

McWhinney あの処方箋は、周辺性を欠陥として診断していました。私の見立ては逆でした。一般診療が周辺的なのは、学問的主流と根本的なところで異なっているからで、医学に対する我々の価値はその差異のなかにある。だから、同化によって承認を得ようとすることは、価値そのものを手放すことになる。

藤沼 ここで私は一度立ち止まりました。というのは、私はいま日本で、若い総合診療医に向けて「もっと理論的な研究をすべきだ」と言おうとしているからです。日本の総合診療研究は量的研究と疫学に強く傾いていて、哲学的・社会学的・概念的な研究は研究として認められにくい。私はその状況を変えたい。しかし先生は、まさに「もっと理論的に」という処方箋を退けておられる。

McWhinney 私が退けたのは、その言葉が置かれていた文脈です。あの処方箋のなかで「理論的」という語は、主流の理論の枠組みを借りてくることを意味していました。より抽象度の高い一般法則を立て、量的方法で検証する。それが学問の唯一の形だという前提です。私が拒んだのはその前提であって、理論そのものではありません。

藤沼 つまり、承認のための理論化ではなく、自分たちの実践を自分たちで理解するための理論化なら。

McWhinney それは必要です。むしろそれをやらなければ、周辺にとどまることは単なる怠慢になる。差異を擁護するには、差異が何であるかを言えなければならない。私があの講演で四つの違いを列挙したのは、擁護のためではなく、記述のためでした。

藤沼 その区別は、日本の議論に持ち込む価値があります。私が学会で「哲学が必要だ」と言うと、二種類の反応が返ってきます。ひとつは「研究の逃げ場だ」という冷ややかな反応、もうひとつは「そうだ、我々には固有の価値がある」という同調です。困ったことに、後者のほうが厄介です。差異が価値の表明で止まり、記述に進まない。

McWhinney 私の講演も、その止まり方で読まれてきた面があると思います。四つの違いは、誇るための項目として引用されることが多かった。しかし、あれは条件の記述です。この条件のもとで働く者は、こういう認識の形を取らざるを得ない、という話です。

藤沼 もうひとつ、先生は予言をされていますね。いずれ学問的主流のほうが我々に似てくるだろう、と。三十年たった2026年から見て、この予言はどうなったとお考えになりますか。

McWhinney あなたの見立てを聞かせてください。

藤沼 半分は当たり、半分は不気味な形で実現した、というのが私の印象です。複雑性、マルチモビディティ、患者中心性、共同意思決定、質的研究の正統化——先生が周辺から言っていたことの多くは、いま主流の語彙になりました。ただし、主流化の過程で形が変わりました。患者中心性は面接技法のチェック項目になり、共同意思決定は同意取得の手続きになり、複雑性は「複雑な症例」というカテゴリー名になった。概念が制度に取り込まれると、それを支えていた認識論が剥がれ落ちて、操作可能な部分だけが残ります。

McWhinney 言葉が勝って、中身が負けたわけですね。

藤沼 そう感じます。だからこそ、いま原典を読み直す意味があると思っています。


2 関係が内容に先行する

藤沼 第一の差異に入ります。先生の定式は明快です。他の分野は内容——疾患、臓器系、技術——によって自らを定義するが、一般診療では関係が内容に先行する。私たちは、その人がどんな病気になるかを知る前から、その人を知っている。

McWhinney そして、ある医師にとっての「内容」とは、厳密に言えば、その医師の患者たちがたまたま持っている状態の総体です。他分野では内容が先にあって患者が来る。私たちの場合は患者が先にいて、内容は事後的に決まる。

藤沼 この一文が、理論的基盤の議論の起点だと思います。他科の領域は、医師の外部にある対象の切り取りによって画定されている。だから領域は医師が誰であっても同じです。ところが家庭医療では、領域の中身は誰の診療かによって変わる。定義に医師本人が含まれている。

McWhinney しかもそれは診療所の場所や、その地域の人口構成や、その医師が何年そこにいるかによっても変わります。私が生涯かけて書いたTextbookが、内容の教科書ではなく原則の教科書にならざるを得なかった理由はここにあります。内容は書けない。書けるのは、内容が決まらない状況でどう振る舞うかだけです。

藤沼 日本の文脈だと、この点がむしろ際立ちます。日本にはゲートキーピングも登録制もありません。誰がどこを受診してもよい。制度が内容を画定してくれないので、診療所の外来は原理的に何でも来る場所になっています。それを長年「よろず相談」と呼んできましたが、これは自嘲まじりの俗称で、理論的な位置づけを与えられたことがない。

McWhinney あなたが言っていた反転診療の再定義は、そこに関わるのですね。

藤沼 ええ。イギリスでは、制度が医師の課題設定を強いる構造があるので、それを患者の課題設定にひっくり返すという抵抗の身振りになる。日本ではそもそも制度が課題設定を強いていないので、同じ概念が肯定的な記述として使える。ただ、制度の支えがないぶん、実践は個々の医師の資質に依存し、脆い。

McWhinney 私は、内容に縛られないことの利点と欠点を両方書きました。利点は、予期しないものが来るという性質と、変化への柔軟さです。欠点は、関係をますます軽んじる社会のなかで、この定義が理解されにくいということでした。日本では後者がどう出ていますか。

藤沼 診療の価値が処置と検査で測られる仕組みですから、関係そのものは制度上ほぼ不可視です。二十年診てきた患者の再診も、初対面の再診も、同じ点数です。関係の蓄積が価値として計上されない。

McWhinney その不可視性は、我々の側の言語の不足でもあります。私が続けて書いたのは、関係を重んじることが知識の価値づけそのものを変えるということでした。関係を重んじる者は、Charles Taylorの言う道具的で「関与を切った」理性ではなく、経験によって世界を知る傾向を持つ。経験は知性だけでなく感情を巻き込みます。だから感情が一般診療で大きな位置を占め、そして医学全体でそれが著しく軽視されている。

藤沼 この、関係→知識の価値づけ→感情、という導出の順序は、Kidd経由では完全に落ちていました。四つの差異が並列に紹介されるので、それぞれ独立の特徴のように見えてしまう。実際には第一の差異から残りが導かれる構造になっている。

McWhinney 最後に書いた通りです。四つは一続きのものです。長期の関係に第一義を置けば、注意は病いの個別の細部に向かう。関係の文脈のなかで病いの複雑さに向き合えば、機械論的にも二元論的にも考えられなくなる。順序があります。


3 適切な距離と、単独者の学

藤沼 第二の差異、一般法則ではなく個々の患者において考えるという話に進みます。ここに引かれているUmberto Ecoの一節を、私は何度も読み返しました。修道院へ登る道でバスカヴィルのウィリアムがアドソに説明する場面です。遠くから見れば動物だとしか言えない。近づけば馬だと分かる。適切な距離まで来て初めて、それが院長の馬ブルネッルスだと分かる。それが完全な知であり、単独者の学である、と。

McWhinney あの一節は、抽象と個別が対立ではなく距離の関数であることを示しています。近づくほど個別の細部が満ちてくる。離れるほど抽象度が上がる。医学は個々の患者から十分に距離を取ることで、個体ではなく疾患という抽象を見る力を得ました。それが予測力の源です。私たちは今それを診断と呼びますが、かつて医師は疾患ではなく患者を診断すると言っていました。

藤沼 先生、ここでひとつ申し上げたいことがあります。私は「可変焦点距離診療」という概念を作って使ってきたのですが、原典を読み直して、これは先生がEcoから引いた一節の展開でしかなかったと気づきました。

McWhinney 展開なら、それは仕事です。私はあの一節を引いて、距離の話だと指摘するところで止めました。距離を臨床家が意識的に操作できるとまでは書いていません。あなたは何を足したのですか。

藤沼 三つ足しました。ひとつは、距離が連続的ではなく、いくつかの定まった焦点で切り替わるとしたこと。内的経験、身体、関係のネットワーク、という三つの焦点距離です。ふたつめは、それぞれの焦点に理論的な参照枠を割り当てたこと。内的経験にはBuryの個人誌の混乱(biographical disruption)とDowrickの自己論、身体にはMerleau-PontyとCanguilhemとCarel、関係にはKleinmanとWilliam L. Miller。みっつめは、全体を一望する視点は存在しないと明示したことです。

McWhinney 最後のが重要ですね。

藤沼 「全体を見る」という言い方が、家庭医療の理論を無内容にしてきたと考えているからです。全体を見る視点があるかのように語ると、それは誰も到達できない理想になり、教育不能になる。あるのは切り替えだけで、全体は切り替えの軌跡としてしか現れない、と言い切るほうが、若い医師には手がかりになります。

McWhinney 私は地図と土地の比喩を使いました。Korzybskiの比喩です。地図は特徴を抽象し、他を無視して作られる。地図で土地を知ることと、そこに住んで知ることは違う。土地の者は土地の一部であることによって知っていて、その知は内臓感覚的で、多くは暗黙で、言葉にしにくい。新しい計画が自分の土地で通用しないと分かるが、専門家に理由を説明できない農夫のように。

藤沼 この比喩について、率直に申し上げてよいですか。

McWhinney どうぞ。

藤沼 私はこの比喩に、危うさを感じます。暗黙で言語化しにくい知を称揚することは、言語化しないことの正当化に転用されやすい。「我々の知は本質的に語り得ない」という命題は、学問の放棄と区別がつきません。そして実際、日本の総合診療の議論では、この転用がしばしば起こります。

McWhinney その批判は受け止めます。私が書きたかったのは、地図を捨てろということではありません。私は続けて、抽象も必要だ、理想は二種類の知の統合、個別のうちに普遍を見る能力だ、と書いています。どちらか一方に住み込むことには罰則がある。個別に住みすぎれば木を見て森を見ず、抽象に住みすぎれば患者の経験からの乖離と、その苦しみへの感受性の欠如が来る。

藤沼 その両罰則の記述はよく引かれます。ただ、統合の方法は書かれていない。

McWhinney 書けませんでした。当時の私には、統合を手続きとして記述する語彙がなかった。焦点距離という言い方をあなたが持ち出したとき、それが方法として使えるかどうかは、あなたの世代が臨床で確かめることです。ひとつ注意を申し上げると、距離を意識的に切り替えるという定式は、切り替える主体を距離の外側に置いてしまいます。

藤沼 ……操作する自己が、どの距離にもいない超越的な位置に立ってしまう。

McWhinney そうです。それは私が批判した関与を切った理性の、別の形かもしれません。土地に住んでいる者は、距離を選べません。

藤沼 これは持ち帰ります。おそらく、切り替えは自由な操作ではなく、患者との関係のなかで引き起こされるものだと言い直す必要がある。医師が距離を選ぶのではなく、その場が距離を要求してくる。


4 維持する原因、開始する原因

藤沼 第三の差異、機械論的ではなく有機体的なメタファーに立つ、という節に進みます。原典のこの部分は、Kiddの紹介では自然治癒力への信頼として簡略化されていましたが、実際には因果論の全面的な組み替えを要求していますね。

McWhinney 医学は特異的病因論に支配されてきました。ひとつの疾患にひとつの原因、という教義です。因果作用は、動いている球が止まっている球に当たるように、受動的な対象に直線的に働く力として考えられてきた。しかし自己組織化する系では因果は非線形です。生体と環境のあいだ、生体の各水準のあいだに多重のフィードバック回路があるので、直線ではなく因果のネットワークで考える必要がある。

藤沼 そして、ここです。ある病いの「特異的原因」は、生体がすでに持っていた潜在的な過程を引き金として解発しただけかもしれない。病いを維持し治癒を妨げている原因は、それを開始した原因とは別でありうる。そして維持する原因のなかには、生体自身の不適応な行動が含まれうる。

McWhinney その三つ目が、臨床的には一番重要です。

藤沼 先生、私はこの数年、機能性神経症状症と長期化する疲労の症例を通じて、ある循環を記述しようとしてきました。資源と需要の不均衡が疲弊を生み、疲弊が症状を生み、症状が生活の支障を生み、支障がさらに資源を削る、という循環です。患者がなぜ良くならないのかを説明する枠組みとして使っています。この循環は、いま先生が言われた「維持する原因」の記述そのものです。開始の原因が何であったかは、しばしば分からないし、分かっても介入できない。しかし維持の回路には入り口があります。

McWhinney それは治療的無力を意味しない、と私も書きました。単純な因果思考から、複雑系のなかで変化がどう促進されうるかを考える思考への転換が要る、ということです。

藤沼 ただ、この循環を患者に提示する順序が難しい。医師の側から「あなたはこういう循環に入っています」と説明すると、それは新しい機械論になります。原因を身体から生活に移し替えただけの、別種の因果図式です。私が有効だと感じているのは、患者自身の言葉のなかから循環を後から浮かび上がらせる進め方です。

McWhinney それは私の言い方では、地図を先に見せないということですね。

藤沼 ええ。地図を渡してしまうと、患者はその地図の上を歩き始める。

McWhinney もうひとつ、私がこの節で引いたCassellの議論に注目してほしい。彼は、関係は特異的疾患の原因として働くのではなく、宿主抵抗性という中間の水準で作用すると予測しました。社会的孤立は、ほぼすべての死因について死亡率を上げる。だから心身症という独立した疾患群という考えは無効になる。どの疾患においても、社会的要因が因果の網の一部でありうるし、人間関係が治癒過程の一部でありうる。

藤沼 この「中間水準」という位置づけが、私がいま取り組んでいることの理論的な土台になりそうです。Johanna Lynchが Sense of Safety という概念を立てて、安全感を身体・自己・関係・環境・時間にまたがる統合的な感覚として記述しています。私はこれを、家庭医療の癒しの理論の前提層として据えようとしてきたのですが、先生の枠組みに置き直すと、安全感とはCassellの言う宿主抵抗性の主観的な相にあたる、と言えるかもしれません。

McWhinney だとすれば、それは特異的な治療の対象ではなく、あらゆる疾患の経過に作用する条件だということになります。

藤沼 そうです。そしてそれは、家庭医が特定の疾患を担当しないことの理論的な正当化になります。私たちが扱っているのは疾患横断的な条件のほうだ、と言える。

McWhinney ひとつ確認させてください。有機体的に考えるとは、複雑さにおいて考え、不確実性を受け入れることです。一般化は「この文脈においては、多くの場合これが当てはまる」という形でしか立てられない。あなたの安全感の議論は、その形を保っていますか。それとも「安全感が土台である」という新しい普遍法則になっていませんか。

藤沼 ……危ういところです。前提層という言い方は、順序の主張ですから、普遍法則に近づきます。文脈依存の形に戻すなら、「安全感が損なわれている文脈では、意味づけの作業は多くの場合作用しない」と言うべきでしょうね。


4 病院という場の総合診療

藤沼 ここで、日本の現状について先生のご見解を伺いたいことがあります。この十数年、日本では病院総合診療への需要が急速に高まっています。高齢で複数の疾患を持つ患者の入院が増え、臓器別の内科では受け皿にならなくなった。制度としても専門研修の枠組みができました。

McWhinney 需要が先に来て、あとから定義が追いかけている状況ですね。

藤沼 その通りです。そして現場での理解は、多くの場合こうです。臓器別に振り分けられない患者を引き受ける人。専門が決まっていない内科医。つまり残余カテゴリーとして理解されている。

McWhinney 否定によって定義されている。

藤沼 ええ。私が問題だと感じているのは、病院総合診療で働いている認知の様式が、内科のそれとは微妙に違うということです。そして「微妙に」であるために、内科の下位区分として理解されてしまう。

McWhinney 具体的にどう違いますか。

藤沼 内科の認知エンジンは、ひとつの統一診断への収束です。所見を束ね、抽象カテゴリーに帰属させ、できるだけ少ない仮説で説明する。ゴールは診断名で、それが得られれば治療方針が決まる。病院総合診療の現場では、それがしばしば報われません。八十五歳、心不全と腎機能低下と認知症と長年の腰痛があり、独居で、今回は転倒後の食思不振で入院した。統一診断はありませんし、仮にあっても、それだけでは次の行動が決まらない。

McWhinney ではそこで何が働いているのですか。

藤沼 三つあると見ています。ひとつは、複数の問題のうちどれがいまの軌道を規定しているかの見極め。ふたつめは、追わないと決める判断。みっつめは、退院後の生活への着地から逆算する時間の見方です。

McWhinney ひとつめは、私が書いた区別そのものですね。入院させた原因と、退院を妨げている原因は別でありうる。そして後者はしばしば医学的な原因ではありません。

藤沼 まさにそこです。ただ、この区別が内科の言語では表現しにくい。「病態が落ち着いたのに帰れない」という言い方になり、それは医学の外の問題として処理される。維持する原因という枠組みを持てば、それは医学的な問題として扱えるはずなのですが。

McWhinney ふたつめの「追わない判断」は、もっと厄介でしょう。

藤沼 そこが一番理解されないところです。検査を追加しない、鑑別を閉じる、という判断が、内科の価値体系のなかでは怠慢や能力不足と区別がつきません。積極的な臨床判断としての「追わない」を記述する語彙がない。

McWhinney 私の言い方に置き直すなら、地図をどこまで描くかの判断です。地図作りには原理的に終わりがありません。どこで地図を措いて土地に降りるかを決める技術は、地図作りの技術とは別種のもので、地図作りの評価軸では測れない。測れないものは、その評価軸のなかでは存在しないことになります。

藤沼 ここで、先生の理論そのものに関わる疑問を申し上げます。第一の差異、関係が内容に先行するという定式は、病院では成立しないのではないでしょうか。入院は数日から数週で、その人を以前から知っているわけではない。継続性がない。だとすれば病院総合診療は、先生の枠組みでは基礎づけられないことになります。

McWhinney そこは精密に見ましょう。私が書いたのは、関係が内容に先行する、ということであって、関係が長い、ということではありません。長期性はその関係を豊かにする条件ですが、定義そのものではない。定義上決定的なのは、誰を引き受けるかを内容によって決めていない、という一点です。病院総合診療医は、患者が持ち込む問題の種類によって引き受けを決めていますか。

藤沼 決めていません。むしろ、他が引き受けない患者を引き受けています。

McWhinney ならば構造は同じです。彼らにとっての内容は、彼らの患者がたまたま持っている状態の総体でしかない。ただし、代償があります。あなた方が外来で使っている時間という道具を、病院では使えない。

藤沼 「来週また来てください」が言えない。

McWhinney 診断の不確実性を時間で解く方法が閉じられているということです。そのぶん、別の資源で補っているはずです。何で補っていますか。

藤沼 ……考えたことがありませんでした。何でしょう。

McWhinney 推測を申し上げるなら、空間と多数性でしょう。外来の家庭医が時間軸を通じて得るものを、病院では同時に複数の目で見ることによって得ている。看護師、療法士、薬剤師、ソーシャルワーカー。彼らが見ている患者は、それぞれ別のものです。

藤沼 ……それは焦点距離の話ですね。一人の医師の内部での切り替えではなく、チームのなかに分散して配置されている。前回、私の可変焦点距離という概念について、切り替える主体を距離の外側に置いてしまっていると先生に指摘されました。病院では、その主体は個人ではなく場なのかもしれません。

McWhinney だとすれば、あなたの理論には次の課題があります。分散した焦点がひとつの像に統合されることは、自動的には起こりません。誰かがそれを引き受けなければならない。病院総合診療医の固有の機能は、そこにあるのではありませんか。

藤沼 「全体を見る人」という言い方をすると無内容になりますが、「分散した焦点が統合される場を維持する人」なら、業務として記述できます。カンファレンスをどう設計するか、記録に何を書くか、家族面談をどこに位置づけるか。抽象的な資質ではなく、具体的な作業の集合になる。

McWhinney その方向で書けるなら、それは内科の下位区分ではないと言えるでしょう。

藤沼 関連して、Etz、Miller、Stangeがジェネラリストとスペシャリストの診療を導く単純な規則について書いた論文があります。少数の単純な規則から複雑な適応行動が創発する、という枠組みです。私はこれが病院総合診療にも適用できるかを考えています。

McWhinney 規則がアルゴリズムではなく制約として働くなら、有機体的な考え方と整合します。ただ、創発には余白が要ります。病院という場は、在院日数と回転率で最適化されている場です。余白を削ることが経営上の善である場所で、創発を要求する理論がどこまで働くのか。

藤沼 ……そこが、日本の病院総合診療がいま置かれている位置そのものです。総合診療医が期待されている役割の相当部分は、実際には回転率の維持です。難しい患者を引き受けて、詰まりを解消する機能。

McWhinney その期待に応えることで存在が認められる、という構造は危険です。認められるための働き方が、あなたが記述しようとしている固有の認知様式を摩耗させることになる。

藤沼 冒頭のReidの話に戻ってきますね。

McWhinney 同じ問題の再演です。承認を得るために、支配的な言語で自己記述する。病院総合診療が承認を得やすい自己記述は何ですか。

藤沼 「診断がつかない患者に診断をつける」です。これは内科の価値体系のなかで最も分かりやすく、実際、その能力を看板にしている集団もあります。ただ、病棟で実際に起きている仕事の大半は、そこではない。

McWhinney 承認されやすい記述を選ぶと、承認された時点で仕事の中身が変わります。若い医師は、承認される部分を学ぶからです。診断で認められた集団には、診断ができる若手が集まり、退院を妨げている原因を扱う仕事は、誰の専門でもないままになる。

藤沼 教育に跳ね返ってくる。私が病院総合診療の理論的記述にこだわっているのは、そこに危機感があるからです。ただ、私は家庭医療の側の人間なので、病院総合診療を自分の理論でそのまま説明してよいのかという迷いもあります。

McWhinney 私はあの講演で、四つの差異はその多くを他のプライマリ・ケア諸分野と共有していると書きました。共有していることと同一であることは違います。場が変われば、同じ導出の連鎖が違う形で現れる。家庭医療の記述をそのまま持ち込むのではなく、同じ問いを病院という場で立て直す必要があります。あなたが外来で得た概念を、そのまま病棟に翻訳しないほうがよい。

藤沼 立て直すとして、どこから手を付けるべきでしょうか。

McWhinney 摩擦の場所からです。うまくいった症例を集めても差異は出てきません。他科の医師から見て「なぜそこまでやるのか分からない」と言われる場面、あるいは逆に「なぜそれをやらないのか」と言われる場面。差異は、価値観がぶつかる場所に現れます。あなたが集めるべきなのは、成功例ではなく、説明を求められて困った場面の記録でしょう。

藤沼 ……それは、私がこれまで集めてこなかった種類の材料です。


6 断層線と、新しい断層線

藤沼 第四の差異です。心身の分割は地質学的断層のように医学を貫いている、という比喩が使われています。内科・外科・小児科が一方の側、精神科・児童精神科・老年精神医学が他方の側。疾患分類も治療も二つに分かれる。一般診療は関係によって自らを定義しているので、この分割ができない。

McWhinney この節で私が言いたかったことのひとつは、一般診療において行われていることを精神療法と呼ぶべきかどうかは疑わしい、ということでした。傾聴し、支持し、安心を与え、感情の表出を促し、認知の再解釈を助ける。これはすべての患者に対して行われることであって、精神科的な病いを持つ患者に限られません。

藤沼 そしてプラセボ効果についての一節。プラセボについて学べば学ぶほど、それは象徴的行為と儀礼を通じた医師-患者関係の治癒力であるように見えてくる、と。

McWhinney そして、その効果は関係の経験が繰り返されるたびに強まる。だから継続性を持つ我々にとって特別な意味を持ちます。時間の経過のなかで、医師との関係は患者自身の物語の一部になっていきます。

藤沼 この二文は、私が使ってきた二つの理論の接合点そのものです。Kleinmanの儀礼的治癒と、Buryの個人誌の混乱。診療という反復される場が象徴的な作用を持ち、その反復が患者の生活史のなかに位置を占めていく。先生は1996年にこれを二文で書かれていたのですね。

McWhinney その二文の先を書かなかったのが、私の限界です。

藤沼 その先を、いま私は二つの軸として考えています。ひとつはライフサイクルの軸で、発達段階の課題や移行の成否から仮説を立てられる、ある程度の普遍性を持つ軸。もうひとつは傷の歴史、トラウマヒストリーの軸で、これは個別性が極めて高い。この二つが絡み合ってその人の生活史ができている、という人間認識を家庭医が持つべきだと考えています。そして臨床上の分業として、家庭医の仕事は傷そのものの再処理ではなく安全感の土壌を保つことで、診断閾値を超えるものは専門科に紹介する、と。

McWhinney ……藤沼さん、それは新しい断層線ではありませんか。

藤沼 (沈黙)

McWhinney 私はこの講演で、既存の断層線を批判しました。感情は精神科に任せる、という臨床方法の遺産を批判した。あなたはいま、傷は専門科に任せる、と言っている。境界の位置は変わっていますが、境界を引くという構造は同じです。

藤沼 ……そこは自分でも気にしていた点です。弁明を試みます。私が線を引いているのは、扱う対象ではなく、介入の様式です。傷の存在は認識の前提として常に視野に入れます。そこから目をそらすのではない。そのうえで、傷を主題化して再処理する作業には固有の技法と枠組みが要り、それを訓練していない者がやると害があります。

McWhinney その区別は理解できます。ただ、それが現場でどう劣化するかを考えてください。「安全感を保つ」という指示は、実務的には「触れない」と読まれます。私が心配しているのは、あなたの理論が正しいかどうかではなく、あなたの理論を受け取った専攻医が、それを回避の許可として使わないかということです。

藤沼 その縮退は、私自身が最大の課題だと感じているところです。安全感の保証が受け身の回避に縮んでしまう。ここを能動的な方法論として書き直せていないのが、いまの私の宿題です。

McWhinney 書き直すときの手がかりを申し上げるなら、私は身体診察に注目します。身体を診察し、身体に注意を向けることは、同時に心に注意を向けることです。心的状態は姿勢や動きや筋の緊張に現れますし、身体を診察することが感情の表出の引き金になる。傷を主題化せずに傷に触れる経路は、言葉ではなく身体の側にあるかもしれません。

藤沼 ……それは考えていませんでした。日本の家庭医療は、身体診察を診断技術としてしか位置づけてこなかった。関係の技術としての身体診察という筋がある。


7 自己知という宿題

藤沼 この講演で、Kiddの紹介からほぼ完全に抜け落ちていたのが、終盤の感情と自己知の議論です。私はここが講演の核心だと思います。

McWhinney あそこを書くのに一番時間がかかりました。

藤沼 患者の感情に注意を向けることは、自分の感情に注意を向けることなしにはできない。鍵になる技能は注意深く聴くことだが、それは地図に目を向けていたり、次に何を言おうかと考えていたり、自分の否定的な感情に飲み込まれていたりしてはできない。そして、自我的な感情——恐れ、無力感、不安、怒り、罪責感——が自覚されないまま、回避や無関心や拒絶、時には残酷さとして行為に出る。

McWhinney 医師自身の愛情への欲求が、それを与える能力を上回ることがあります。祭司とレビ人は道の反対側を通り過ぎました。もっともらしい理由をつけて。

藤沼 そして先生は、医学は自己反省的な学問になりうるかと問い、その考えは途方もなく見えるかもしれないが、我々が有能な技術者であるだけでなく癒す者であろうとするなら、そうならざるを得ないと書かれる。

McWhinney 自己知が医学教育で軽視されてきたのは、そこへの道が長く困難だからでしょう。自我的な感情はしばしば美徳を装って現れますし、我々は誰でも自己欺瞞の能力を豊かに持っています。

藤沼 私はこの三十年前の呼びかけを、いま制度として作ろうとしています。Healer-Educator Programという指導医養成のプログラムを、福井大学の総合診療部と組んで七回構成で設計しました。指導医自身の専門職アイデンティティ形成を中心に据えて、「医師になること」「家庭医になること」「指導医になること」の三段階で自分の来歴を扱います。並行して、精神分析的スーパービジョンの概念——逆転移、パラレルプロセス、containing、negative capability——を家庭医療の後期研修指導にどう接続できるかを考えています。

McWhinney Balintの系譜ですね。私は「医師という薬」を引きました。我々の治療手段は、癒しの関係のなかにいる我々自身だ、と。

藤沼 ええ。ただ日本では、逆転移を言語化する文化が指導の場にありません。指導医が「この患者に苛立っている」と口に出すこと自体が、専門職としての失格の告白のように受け取られる。だから、それを安全に言える場をまず作らないと、概念だけ輸入しても機能しない。HEPを、その安全の基盤として位置づけようとしています。

McWhinney 順序としては正しいと思います。ひとつ、警告を申し上げてよいですか。

藤沼 お願いします。

McWhinney 自己知を教育プログラムに組み込むと、それは必ず評価の対象になります。省察の深さが評価されるようになると、学習者は評価される種類の省察を生産するようになる。自我的な感情は美徳を装って現れると私は書きましたが、省察の制度化はその装いに公認の様式を与えます。「私はこの患者に苛立ちを感じ、その背景に自分の何々があると気づきました」という、よくできた文章が量産される。

藤沼 ……日本の医学教育で、まさにそれが起きています。ポートフォリオが省察の様式を規定してしまった。

McWhinney 防ぐ方法を私は知りません。ただ、プログラムの設計者が、自分の作ったものが必ずそうなるという前提で設計するかどうかで、寿命は変わるでしょう。

藤沼 もうひとつ、先生の記述で私が長く引っかかっていた箇所があります。Needlemanを引いて、注意を向けたその状態を「自我を離れた、非人称の愛」と呼び、ギリシャ人がアガペーと呼んだものだとされる。それは通常の意味での感情ではなく、好意に依存しない、と。

McWhinney 善きサマリア人は、救った男に必要なことをして、それから自分の道を行きました。

藤沼 この、非人称であることの強調が、私には長いあいだ冷たく感じられていました。しかし最近、逆に読めるようになりました。関係の質を医師の情緒の温度で測ろうとすることこそ、実は医師中心的な発想なのではないか。好きになれない患者にも同じことができるかどうかが、この職業の技術的な水準を決めている。

McWhinney そして、一般診療にはもうひとつの次元が加わります。長期の関係のなかで、愛着が育ってしまうという次元です。それには代償がついてきます。医師と患者の関係も、他の人間関係と同じ緊張と弱さを免れません。愛と憎しみ、信頼と不信、裏切りと赦し、修復不能な破綻と、困難にもかかわらずの存続。そのすべてを我々は見ることになる。

藤沼 この一節は、家庭医療の教科書がほとんど書かないことですね。継続的な関係は良いものだ、で終わってしまう。


8 断層線を越える者として

藤沼 最後に、結びの部分について伺います。先生は、断層線を越えることが、慢性疼痛のようにどちらの側にもきれいに収まらない多くの障害にとって、一般診療を理想的な治療の場にするはずだと書かれる。そして、我々には他にやるべき仕事が残っている、と続ける。

McWhinney 我々は皆、程度の差はあれ、改革されていない臨床方法と、線形の因果と心身二元論の言語の囚人です。私が四つの差異を記述したような仕方で考えることは、我々にとって自然かもしれませんが、それでも難しい。断層線は、現代の医学部を支配する、感情を否認する臨床方法のなかを走っています。

藤沼 そして最後の一文。医学が自己反省的になるには巨大な文化的変化を経なければならず、その変化において一般診療はすでにいくらか先を歩いている。違っていることの重要性は、我々が道を示せることにある。

McWhinney あの一文が、達成の宣言として引用されるようになったのは、私の書き方が悪かったのだと思います。あれは、周辺にとどまることを選んだ者が、自分に与えた課題です。先を歩いているというのは優位の主張ではなく、まだ誰も通っていない場所を歩いているという意味でした。

藤沼 私は日本で、この一文をどう受け取るべきかを考え続けてきました。前回申し上げたのは、日本の家庭医療はまだ道を示せる段階ではない、ということでした。しかし原典を読んで、考えが変わりました。

McWhinney どう変わりましたか。

藤沼 先生がこの講演をされた1996年、一般診療は周辺にありました。周辺にいる者が「我々が道を示せる」と言うのは、達成の報告ではなく、周辺性の引き受け方の宣言です。同化して中心に入るのではなく、周辺にとどまったまま、そこからしか見えないものを記述し続ける。日本の私たちが置かれている条件は、1996年のイギリスやカナダと制度的にはまったく違いますが、周辺性という点では同じです。だとすれば、この一文は達成した者の言葉としてではなく、周辺にいる者の作業指示として受け取れる。

McWhinney それでよいと思います。ひとつ付け加えるなら、あなたはさきほど、主流化した概念から認識論が剥がれ落ちたと言いました。剥がれ落ちたものを拾い直す作業は、新しい概念を作る作業より地味で、業績にもなりにくい。しかし、あなたの分野で今いちばん必要なのはそちらかもしれません。

藤沼 患者中心性という語の下に埋まっているものを掘り返す作業ですね。

McWhinney 私自身の言葉についても、遠慮なくやってください。私の書いたことのうち、いま生き残る価値があるのがどれなのかは、私には決められません。それは、この講演を三十年後に読み直して、自分の臨床が変わったかどうかで判断する人にしか決められない。

藤沼 ……変わりました。今日、二箇所。焦点距離を選ぶ主体をどこに置くかという問題と、身体診察を関係の技術として読み直すという筋です。

McWhinney では、この対談は成功でしたね。


(対談を終えて)1996年の講演は、四つの差異の並列ではなく、ひとつの導出の連鎖として書かれている。関係が内容に先行するという定義上の事実から、個別の細部への注意が導かれ、そこから複雑性と非線形因果の受容が導かれ、そこから心身の非分割が導かれる。理論的基盤の差異とは、この導出の起点が他分野と異なるということであって、価値の高さの問題ではない。そして講演の終盤で、この連鎖は医師自身の自己知という要求に行き着く。関係を単位とする分野では、観察装置が医師本人だからである。病院総合診療をこの連鎖のなかに置き直すと、起点は保たれている——引き受けを内容によって決めていない——一方で、時間という道具が使えないぶん、焦点の分散と統合が個人ではなく場の水準で起きる。同じ導出が、場の条件によって別の形を取る。

仮想鼎談:病院という場の認知~William Osler × Ian R. McWhinney を召喚してみた~

作成支援:Claude Opus 5(Anthropic)

机上に、Osler『Aequanimitas』(1889)『The Hospital as a College』(1903)と、McWhinney The importance of being different(William Pickles Lecture 1996)

これは実在の人物の公刊された著作にもとづいて構成した架空の鼎談である。両氏の発言は、その著作・講演に示された論旨から再構成したものであり、実際の発言記録ではない。オスラーに帰せられる箴言のなかには出典が確かでないものがあり、本文中でもその点に触れている。


一 病院という学校

藤沼 今日は無理を承知で、お二人にご同席いただきました。伺いたいのは、日本でいま急速に需要が高まっている病院総合診療についてです。高齢で複数の疾患を抱えた患者の入院が増え、臓器別の内科では受け皿にならなくなった。そこで病院に、領域を限定しない総合診療医を置くようになりました。ただ、それが何をする職種なのかは、まだ誰にもうまく言えていません。

オスラー 病院に、領域を限定しない医師を置く。それは私が生涯やってきたことですが。

藤沼 そこを最初に伺いたいのです。先生はジョンズ・ホプキンスで、病棟を教室にし、レジデンシーという制度を作られた。学生の教育は患者から始まり、患者とともに進み、患者で終わる、と書いておられます。日本の病院総合診療医は、しばしば「オスラーの再来」「原点回帰」と語られます。私はこの語り方に、ずっと違和感を持ってきました。

オスラー 違和感の中身を言ってください。

藤沼 私たちがいま病棟でしている仕事は、先生がなさっていた一般内科と、形は似ていますが中身が違うのではないか、ということです。それを言葉にしたいのですが、うまくできない。だからお二人に来ていただきました。

McWhinney 藤沼さん、私はここでは聞き役に回ったほうがよさそうですね。私は生涯、病院の外にいた人間です。

オスラー いや、あなたにこそ聞きたいことがあります。あなたは私が作ったものを批判した側でしょう。感情を否認する臨床方法が現代の医学部を支配している、と書いておられた。その臨床方法の設計者は、かなりの部分、私です。

McWhinney ……お認めになるのですね。

オスラー 私は自分がしたことの結果を、五十年後に見ることができませんでした。あなたは見た側です。


二 一元的説明という発明と、その耐用年数

藤沼 順序立てて進めます。まず、内科の認知の様式について。私の見立てでは、内科の思考の中核は、ひとつの統一的な説明への収束です。多数の所見を束ね、できるだけ少ない仮説で説明し、疾患というカテゴリーに帰属させる。この様式は、先生の時代に完成したものだと理解しています。

オスラー 完成したというより、私はそれが可能だと信じ、可能にする条件を病院のなかに整えました。ベッドサイドで観察した所見を、剖検台の上で確かめる。生前の徴候と死後の病変を突き合わせる作業を、何千回と繰り返しました。あの照合があったから、疾患というものが実在すると確信できたのです。

藤沼 答え合わせができる構造があった。

オスラー そうです。私の教科書は、あの照合の集積です。

藤沼 ではここで、いま日本の病棟にいる典型的な患者を出させてください。八十五歳、女性、独居。心不全があり、腎機能が低下していて、認知症が中等度、長年の腰痛があり、以前から食が細い。今回は自宅で転倒し、その後の食思不振で入院しました。先生なら、どう始められますか。

オスラー ……正直に申し上げましょう。私はこういう患者を、ほとんど診たことがありません。

藤沼 と言いますと。

オスラー 私の病棟にいたのは、若い肺炎、腸チフス、結核、マラリア、心内膜炎の患者です。多くは貧しい人々でした。裕福な者は自宅で治療を受けましたから、病院は貧困層の場所でした。そして彼らの多くは、若いうちに、ひとつの病気で亡くなりました。ひとつの病気で亡くなる患者を大量に診たからこそ、一元的な説明が成立したのです。あなたの患者には、主役となるべきひとつの病気がない。

McWhinney 条件が変わったということですね。

オスラー 方法は、それが生まれた条件のなかでしか正しくありません。私の方法は、単一の病理過程が経過を支配している患者について正しかった。八十五歳で四つも五つも病態を抱えた人に、同じ方法で臨めば、私は最も声の大きい病態をひとつ選び、それを主病名と呼んだでしょう。そして、それはあきらかに誤りです。

藤沼 ……その一言を伺えただけで、今日は来ていただいた甲斐がありました。日本の病棟では、いまでもそれが起きています。心不全と書けば話が進むので、心不全と書く。しかしその患者の軌道を規定しているのは、実は独居と食思不振と、転倒の恐怖です。

McWhinney 私の言い方だと、病いを開始させた原因と、病いを維持している原因が別だということになります。維持している原因のなかには、しばしば医学の外側に分類されているものが入ります。

オスラー 私の時代にも、それはありました。ただ、私たちにはそれを扱う言葉がなかった。貧困と栄養と住居が結核の経過を決めていることは、誰もが知っていましたが、それは医学ではなく社会の問題だとされた。私自身、そう扱いました。

藤沼 いま起きているのはその再演ですね。「医学的には落ち着いているのに帰れない」という言い方をします。医学の外に置いてしまう。

McWhinney 維持する原因という枠組みを持てば、それは医学的な問題として扱えるはずです。因果を直線ではなく網あるいはネットワークとして考えるなら、社会的要因は因果のネットワークの一部であって、外部ではありません。


三 追わないという判断

藤沼 病院総合診療の認知の様式で、私が最も理解されにくいと感じているのが、これ以上「追わない」という判断です。検査を追加しない、鑑別アプローチを閉じる、原因究明を途中であえて止める。この判断が、実は、内科の価値体系のなかでは怠慢や能力不足と区別がつかない。

オスラー それは私の側の遺産でもありますね。診断の名人を英雄とする文化を作ったのは、私です。

藤沼 ええ、率直に申し上げると、その誤解の起源は、ある意味で先生だと思っています。

オスラー その批判は受けましょう。ただ、私の言い分も申し上げておきます。私は治療については、当時としてはかなり懐疑的な人間でした。当時の薬の大半は無効か有害で、私たちにできる最良のことは、疾患の自然経過を注意深く観察し、余計なことをしないことでした。私は自分の教科書で、多くの疾患について有効な治療がないと正直に書き、そのために「治療虚無主義(ニヒリズム)」と非難されました。

藤沼 その懐疑と、私たちが言う「追わない判断」は、同じものでしょうか。

オスラー 違うと思います。私の不介入は、知識と手段がなかったことの帰結です。私は追いたくても追えなかった。あなた方の不介入は、追う手段がありながら追わないという選択でしょう。それは別の技術です。

McWhinney ここは重要な区別です。選択としての不介入には、根拠を言語化する責任が伴います。できないことは説明を要しませんが、できるかもしれないのにしないことは説明を要する。

藤沼 まさにそこで私たちは煮詰まっています。「この患者にこれ以上の精査は益より害が大きい」という判断を、どう記述すればよいか。

McWhinney 私は地図と土地の比喩を使いました。地図は特徴を抽象して作られる。地図作りには原理的に終わりがない。どこで地図を措いて土地に降りるかを決める作業は、地図作りとは別種の技術で、地図作りの評価軸では測れません。

オスラー 私も似た言い方をしました。書物なしに疾患を学ぶのは、海図を持たずに航海するようなものであり、患者を診ずに書物を学ぶのは、そもそも海に出ないことだ、と。

藤沼 この二つの比喩は、同じ構造をしていますね。地図と土地、海図と海。

オスラー ただ、私の比喩には後半がありません。海図をどこまで信じ、どこで自分の目に切り替えるかについて、私は何も言っていない。あの言葉は、書物を軽んじる学生と、患者を診ない学者の両方を戒めるためのものでした。

McWhinney 私の比喩にも欠けがあると、藤沼さんから指摘されました。土地に住んでいる者は、距離を選べない。地図と土地を行き来する主体を、私はどこに立たせるのか書いていない。

藤沼 ……病棟では、その主体は一人ではないと思うのです。医師が地図を見ている時間に、看護師は土地に降りている。療法士は別の道を歩いている。分散しているのです。

オスラー 私の病棟では、それは分散していませんでした。私が両方を見ていました。少なくとも、そう信じていました。


四 平静の心をめぐって

藤沼 ここで、お二人が正面から対立する話題に入ります。オスラー先生の『Aequanimitas』です。1889年、ペンシルベニア大学を退任されるときの講演で、医師に必要な第一の資質として不動心を挙げておられる。血管を締めるように感情を制御し、いかなる事態にも動じない。そのためにはある程度の鈍感さが要る、とまで書かれています。

オスラー 書きました。

McWhinney 私はそれを批判しました。名指しはしていませんが、あの伝統を批判したつもりです。抽象の世界に住み、自分自身の感情の発育を放置することによって、私たちは自分と患者のあいだに見えない壁を築いてきた。硬い殻を作って自分を守るので、開かれた態度が取りにくくなり、患者はそれを冷たい無関心や拒絶として受け取ります。

オスラー あなたは若い頃、患者が亡くなる場に立ち会ったことがありますか。

McWhinney もちろんあります。

オスラー 私が不動心を説いたのは、うろたえる医師が患者に何をもたらすかを見たからです。医師が動揺すれば、病室の全員が動揺します。私が求めたのは、感情を持たないことではなく、患者の前で自分の動揺を演じないことでした。

McWhinney その区別は、あなたの文章から読み取れるでしょうか。

オスラー ……読み取りにくいでしょうね。

McWhinney 私が問題にしているのは、あなたの意図ではなく、あの言葉が制度のなかでどう働いたかです。医学教育は、感情を扱う訓練を用意しないまま、不動であれという規範だけを渡してきました。訓練のない規範は、抑圧の指示になります。自覚されない恐れや無力感や怒りは消えるのではなく、回避や無関心として行為に出ます。祭司とレビ人は、道の反対側を通りました。もっともらしい理由をつけて。

オスラー あなたは、規律と否認を区別せよと言っているわけですね。

McWhinney そうです。そして、その区別を可能にするのは自己知です。自分の感情を知らずに、患者の感情に注意を向けることはできません。医学教育で最も軽視されてきたのが、そこへの道でした。

藤沼 日本の病棟の現実から、少し申し上げてよいでしょうか。

オスラー どうぞ。

藤沼 夜間に急変があり、死亡確認をして、家族に説明し、そのまま翌朝の回診に入る。そういう働き方が常態です。若い医師は、感じないようにする以外に生き延びる方法を教わりません。オスラー先生の不動心は、日本ではしばしばこの生存技術の名前として引用されます。しかも便利なことに、権威の裏づけがついている。

オスラー ……それは私の言葉の使われ方として、最悪の部類でしょう。

藤沼 ただ、私はMcWhinney先生の側にも問いを持っています。感情に開かれていることを要求すると、開かれ続けた者から順に消耗して離職します。日本の若い医師の燃え尽きは深刻です。開かれることと、身を守ることを、どう両立させるのか。

McWhinney 私は、その両立を単独の医師に求めるのは無理だと考えるようになりました。感情を扱えるかどうかは、個人の資質ではなく、それを言葉にできる場があるかどうかの問題です。

藤沼 そこで私がしているのが、指導医養成の設計です。福井大学と組んで七回構成のプログラムを作り、指導医自身のアイデンティティ形成を中心に据えました。並行して、精神分析的なスーパービジョンの概念——逆転移、パラレルプロセス、containing——を家庭医療の後期研修に接続できないかを検討しています。日本では、指導医が「この患者に苛立っている」と口に出すこと自体が失格の告白のように受け取られるので、まずそれを安全に言える場を作らないと、概念だけ輸入しても働きません。

オスラー 私の時代にそういう場はありませんでした。私たちは、それを晩餐と書簡でやっていたのだと思います。制度ではなく私的な関係で。

McWhinney 私的な関係に頼る仕組みは、その関係に入れなかった者を取り残します。

オスラー ……その通りです。

藤沼 先生、ひとつ立ち入ったことを伺ってもよいでしょうか。

オスラー どうぞ。

藤沼 先生は晩年、ご子息を戦争で亡くされています。そのあとの書簡を読むと、不動心を説いた方の言葉とは思えないものが並んでいます。

オスラー ……あの講演をしたのは四十歳のときです。あれは、自分がそうありたいと願ったことを、若い人に向けて語ったものでした。願いを規範として語ることの危うさを、私は考えていませんでした。

McWhinney 私の講演も同じでしょう。自己反省的な学問になれと私は書きましたが、私自身がどこまでそうであれたかは、別の話です。


五 病院総合診療は復古か、新種か

藤沼 最初の問いに戻ります。病院総合診療は、オスラー先生の一般内科への回帰なのか、それとも別のものなのか。

オスラー 私から質問させてください。あなた方の総合診療は、何によって統一されているのですか。私の一般内科は、疾患という概念によって統一されていました。どの臓器の話をしていても、私は同じ方法——観察し、記録し、経過を追い、可能なら剖検で確かめる——を使っていました。方法が領域を統一していたのです。

藤沼 私たちの側には、その意味での統一原理がありません。強いて言えば二つあります。ひとつは、問題や患者の引き受けを内容によって決めていないこと。言い換えると、他が引き受けない患者を引き受けます。もうひとつは、その患者の軌道(病みの軌跡、トラジェクトリー)を、退院後の生活からの逆算で見ていることです。

McWhinney 前者は、私が家庭医の第一の差異として書いたものと同じ構造です。関係が内容に先行する。長期性ではなく、無限定性のほうが定義にあっている。

オスラー すると、あなた方は私の後継ではありませんね。

藤沼 と言いますと。

オスラー 私の一般性は、方法の一般性でした。ひとつの方法をあらゆる疾患に適用できるという意味での一般です。あなた方の一般性は、引き受けの無限定性です。何を引き受けるかを限定しないという意味での一般。この二つは、外から見れば同じ「何でも診る医師」に見えますが、中身は別物です。

McWhinney その区別は、私も持っていませんでした。

オスラー そして、その混同があるかぎり、あなた方は私の物差しで測られ続けます。私の物差しとは、診断です。どんな難しい診断をつけたか。それが病院という場における、ある種の名誉の単位であり、その単位を作ったのは私です。

藤沼 実際、日本の病院総合診療で最も承認を得やすい自己記述は、「診断がつかない患者に診断をつける」です。これは分かりやすく、他科からも敬意を得られる。ただ、病棟で実際に起きている仕事の大半は、そこではありません。

オスラー 承認されやすい記述を選ぶと、承認された時点で仕事の中身が変わります。若い医師は、承認される部分を見て集まってきますから。

McWhinney 私はそれを、周辺人の問題として書きました。学問的主流に受け入れられるために、主流の言語で自己を記述する。受け入れられたときには、記述されなかった部分が失われている。

藤沼 では、私たちは何によって自己を記述すべきでしょうか。

オスラー ひとつ申し上げるなら、私の時代にあなた方の仕事に当たるものがどこにあったかを考えてみてください。八十五歳の独居の女性を、私は病棟で診ていません。彼女はどこにいたか。

藤沼 ……家にいた。

オスラー そして誰が診ていたか。

藤沼 かかりつけの医師、あるいは家族です。

オスラー つまり、あなた方が病棟でしている仕事の相当部分は、かつて病院の外にあったものです。それが病院の内側に移ってきた。高齢化と、慢性疾患の長期化と、家族の縮小によって。あなた方は私の後継者ではなく、McWhinney先生の分野の仕事を、病院という場でやらされている人々ではありませんか。

McWhinney ……藤沼さん、これは私からは言えないことでした。

藤沼 私も、そう言いたい誘惑にはずっと抵抗してきました。家庭医療の理論をそのまま病棟に持ち込むのは乱暴だと思うからです。場が違えば、同じ導出でも現れ方が変わる。

オスラー そこは慎重でよいでしょう。ただ、方法の一般性ではなく引き受けの無限定性から出発するのだと決めれば、参照すべき理論がどちらの系譜にあるかは、はっきりします。


六 場の条件が変えるもの

藤沼 では、家庭医療の理論を病棟に置き直すとき、何が変わるのかを詰めさせてください。私が前にMcWhinney先生と話して見えてきたのは、時間という道具が使えない、ということでした。外来なら「来週また来てください」と言える。病棟では言えません。

McWhinney 診断の不確実性を時間で解く方法が閉じられている。そのぶん、空間と多数性で補っているのだろう、というところまで話しました。看護師、療法士、薬剤師、ソーシャルワーカーが、それぞれ別の距離で同じ患者を見ている。

オスラー 私の病棟でも、看護師は私が見ていないものを見ていました。夜のあいだの様子、家族が来たときの顔つき、食事の減り方。私はそれを聞き取ってはいましたが、自分の観察の補助としてしか扱っていません。彼女たちが別種の知を持っているとは考えていませんでした。

藤沼 いまの病棟では、それが補助では済みません。八十五歳の患者の退院可否を決めているのは、多くの場合、医師の診断ではなく、生活動作の評価と、家族の受け入れ能力と、地域の資源です。医師が持っている情報は全体の一部でしかない。

オスラー では、医師は何をするのですか。

藤沼 そこが、いちばん言葉にできていないところです。「全体を見る人」と言ってしまうと無内容になる。私はいま、「分散した焦点が統合される場を維持する人」と言い直せないかと考えています。カンファレンスをどう設計するか、記録に何を書くか、家族面談をどこに置くか。抽象的な資質ではなく、具体的な作業として書けるはずだ、と。

オスラー それは、私が病棟で作ったものと同じ種類のものですね。私は診断学を作ったと言われますが、実際に作ったのは制度です。回診の順序、記録の様式、研修医が病院に住み込むという仕組み。制度が思考の様式を作ります。

McWhinney 思考の様式が先にあって制度が作られるのではなく。

オスラー 両方でしょう。ただ、後から見ると、残るのは制度のほうです。私の疾患概念は書き換えられましたが、レジデンシーは残りました。あなた方が病院総合診療に固有の思考様式を残したいなら、それを制度の形にしておくほうが確実です。ただし、制度は思考を裏切ることもある。

藤沼 裏切る、というのは。

オスラー 私が作った住み込みの研修制度は、若い医師を病院に縛りつけました。彼らが患者から学ぶためにそうしたのですが、結果として、彼らは病院の外の生活を知らない医師になりました。あなた方が扱っている、退院したあとの生活を見る力の欠如は、私の制度設計の副産物です。

藤沼 ……その系譜で見ると、病院総合診療が生活を見ようとしていることは、先生の制度への修正ということになりますね。

オスラー そう受け取ってくださって結構です。


七 教育に何を残すか

藤沼 最後に、それぞれのお立場から、日本で病院総合診療を育てようとしている者への助言をいただけますか。

オスラー 私からは、記録についてです。何を書くかが、何を見るかを決めます。あなた方が「軌道を規定している問題」と「追わない判断」を臨床の中核だと考えるなら、それが書かれる欄を作りなさい。書く欄のないものは、観察されなくなります。私の時代に病歴の様式を定めたとき、その効果を実感しました。

藤沼 ……日本の病棟記録には、「なぜ検査しないか」を書く場所がありません。

オスラー ならば、そこから始められます。

McWhinney 私からは二つあります。ひとつは、摩擦の場所を集めること。うまくいった症例を集めても、あなた方の固有性は出てきません。他科の医師から「なぜそこまでやるのか」と言われた場面、逆に「なぜやらないのか」と問われた場面。差異は価値観がぶつかるところに現れます。

藤沼 もうひとつは。

McWhinney 自己知の訓練を、プログラムに組み込むこと。ただし、それが評価の対象になった瞬間に、学習者は評価される種類の省察を生産し始めます。それを前提に設計してください。防ぐ方法は私も知りませんが、必ずそうなると分かって作るかどうかで、寿命が変わります。

オスラー 付け加えてよいですか。

McWhinney どうぞ。

オスラー 私は不動心を説き、あなたはそれを批判しました。ただ、私たちが同じことを言っている部分もあると思います。私が求めたのは、患者の前で自分を主役にしないということでした。あなたが非人称の愛と呼ばれたものも、たしか、好意に依存しない態度でしたね。

McWhinney Needlemanから借りた言い方です。自我を離れた、非人称の愛。ギリシャ人がアガペーと呼んだもの。好きになれない患者にも同じことができるかどうかが問題だ、という意味で使いました。

オスラー 私の不動心も、そこを目指していたつもりです。到達の仕方が違っただけで。

McWhinney ……あなたは硬くなることで到達しようとし、私は開くことで到達しようとした。

オスラー どちらも、行き過ぎれば失敗します。

藤沼 その二つの失敗の形を、若い医師に見せるのが教育なのかもしれません。硬くなりすぎた医師と、開きすぎて壊れた医師の両方を。


八 結び

藤沼 今日いただいたもので、私のなかでもっとも感銘をうけたのは、オスラー先生が言われた区別です。方法の一般性と、引き受けの無限定性。この二つが混同されているかぎり、病院総合診療は内科の物差しで測られ続ける。

オスラー 物差しを作った者として、申し訳なく思います。ただ、物差しは壊せません。別の物差しを作って、二本並べるしかない。

McWhinney そして、新しい物差しは周辺から出てきます。中心にいる者は、自分の物差しの限界を見る位置にいません。周辺にとどまることを選んだ者だけが、それを記述できる。

藤沼 周辺にとどまりながら、病院という中心の建物のなかで働く。それが日本の病院総合診療医が置かれている位置ですね。

オスラー 私の建物です。使ってください。ただし、私が置いた家具の配置は、疑ってかかることです。


(鼎談を終えて)内科の認知エンジンは、単一の病理過程が経過を支配する患者層と、剖検による照合という条件のもとで完成した、方法の一般性である。病院総合診療のそれは、引き受けを内容によって限定しないという無限定性から出発する。両者は外から見れば同じ「何でも診る医師」だが、統一原理が異なる。この区別を立てないかぎり、病院総合診療は診断という単一の名誉の単位で評価され続け、実際に病棟で行われている仕事の大半——軌道を規定する問題の見極め、追わない判断、退院後の生活からの逆算、分散した焦点の統合——は記述されないまま残る。

安全感(sense of safety)は家庭医療の基盤となる

藤沼康樹

作成支援:Claude Opus 5(Anthropic)Gemini Flash(Google)


1. 「トラウマ」ではなく「安全感」から始める理由

trauma-informed care(TIC)という言葉から入ると、多くの人は暗黙のうちに、ある順序を思い浮かべるように思う。まずトラウマとなった出来事を同定し、次に該当する人を識別して、その人に特別な対応をする、という順序である。この順序で受け取られたTICは、日常診療に追加される特殊な業務のように見えてしまう。そして忙しい外来で、追加業務が定着することはあまりないのではないだろうか。

ただ、この順序は、臨床の実態とはいくらかずれているのかもしれない。

ひとつには、安全でないと感じることは、はっきりしたストレッサーがなくても生じうるらしいということがある。Brosschot らの Generalised Unsafety Theory of Stress が述べているのは、慢性的な生理的ストレス反応の多くが、ほとんど意識されることのない「安全でなさ」への反応として持続している、ということである。だとすれば、特定できるトラウマ的出来事があることは、必要条件でも十分条件でもないことになる。出来事から入る設計は、原理的にどこかを取りこぼしてしまうのではないだろうか。

もうひとつには、安全感を自ら査定するという営みは、一部の人にだけ起きている例外的な事態ではないように思われる。Maslow が安全を「メタ欲求」と呼んだように、人は絶えず、自分に対処する力があるかどうか、そしてこの場の他者とどうつながっているのかを、瞬間ごとに身体で測りつづけているらしいのだ。Lynch らの質的研究で「sense of safety という言葉はあなたにとって何を意味するか」と尋ねられた実践者たちが語ったのも、この「関与できるか」と「つながっているか」を同時に査定することだった。安全感が損なわれている状態のほうが特殊なのではなく、査定することそのものは誰においても常に働いている、と考えたほうがよいのかもしれない。

そうであるなら、臨床的により正確な入口は、出来事ではなく状態のほうにあるように思う。「この人に何があったか」ではなく、「この人の安全感は、いまどこで脅かされているのだろうか」と問うことだろう。この問いはすべての患者に開かれていて、既往の開示を必要とせず、外来のどの瞬間にもこの問いをたてることができる。

さらに、もっと実務的な理由もある。日本語の「トラウマ」は、日常語としてはかなり摩耗してしまっているし、臨床用語としてはPTSD、すなわち精神科領域のほうへ引き寄せられやすい。この二重のずれは、家庭医療に持ち込もうとするときの最初の抵抗そのものになってしまうのではないだろうか。これに対して「安全感」「安心感」という言葉であれば、患者も、看護師も、事務スタッフも、家族も使うことができる。Lynch らがあえて日常語を選んだのも、それが共通の言葉になり、協働の目標になり、全人的な地図にもなりうるからだったようである。訳語をどうするかという話ではなく、設計思想そのものの選択なのだろうと思う。


2. 安全感は情緒の問題ではなく、生理の問題である

ここを曖昧にしたままだと、安全感の実践は「接遇」や「やさしさ」の話に回収されてしまうように思う。

人の身体は、物理的な脅威と、社会的・関係的な脅威とを区別しないらしい。警報は全人的な出来事として起こり、免疫の過程から表情の読み取りにいたるまで、多層のシステムが、脅威とそれに応じる自分の力とを絶えず査定しているという。そして安全感が慢性的に失われた状態は、多系統の生理的な調節不全——アロスタティック・オーバーロード——として身体に符号化され、健康や平均余命にまで及ぶとされる。医学的に説明のつかない症状のうち少なからぬ部分が、この経路から理解できるのかもしれない。

ここから、ふたつのことが言えるように思う。

ひとつは、安全感への配慮が生理を変える介入であるならば、それは医療の本来の役割に属するということである。付け足しのホスピタリティではないのだろうと思う。

もうひとつは、診察室が安全でなければ、そこで行われる医療そのものの効果が減衰してしまうのではないか、ということである。受診の中断、検査の回避、服薬アドヒアランスの低下、行動変容が起こらないこと。これらはしばしば「アドヒアランス不良」として患者の側の属性に帰せられる。けれども安全感という視点から眺め直すと、診療の側が生み出している部分もあるのではないかと思えてくる。トラウマ体験のある人が服薬を避ける背景に、心理的・身体的な制御可能感を失うことへの恐れや、身体感覚を意識することそのものへの回避がありうるという Raja らの指摘は、この構造をよく示しているように思う。

そしてもうひとつ、心に留めておきたい知見がある。脅威に曝されたこと自体が長期的な害を決めるわけではないらしいということだ。McEwen や Shonkoff の整理によれば、分かれ目は支持的な関係があるかどうかにあるという。適応する力を超えるとみなされ、なおかつ支えとなる関係を欠いているときにはじめて、有害な負荷になっていくのである。

だとすれば、支持的な関係を提供しうる立場にいる者は、それだけですでに生物学的な変数になっているのかもしれない。家庭医は、まさにその立場にいるように思う。


3. 家庭医療にとって、これがなぜ本質的だと感じるのか

3-1. 「困難事例」という言葉を、もう一度考えてみたい

「難しい患者」というのは、臨床上の実体ではないのかもしれない。多くの場合それは、安全感が損なわれた状態にある人と、それを読み取る枠組みを持たない診療とのあいだに生じている、関係のありようを言い表している可能性があると思う。

Bulford らのシステマティックレビューには、この転換を捉えた実践者の語りが収められている。難しい患者だと見えていた人を、大きな困難を抱えて痛みのなかにいる一人の人として捉え直した瞬間に、必要なケアの像が変わった、という証言である。同じレビューの中心テーマのひとつが「Changing the paradigm(枠組みの転換)」と名づけられているのも、この認識の組み替えを指しているのだろうと思う。

枠組みを持たないままだと、どうなるだろうか。こじれは患者の性格や態度に帰せられ、カンファレンスは対処法の議論に終始し、医療者の側には説明のつかない無力感と徒労が積もっていく。枠組みが欠けていることは、患者へのラベリングと医療者の消耗とを、同時に生み出してしまうのではないだろうか。

3-2. 全人的に関わるからこそ、傷つけてしまう機会も多いのではないか

家庭医は身体に触れる。家族に会う。長い時間をかけて関わりつづける。診断書を書き、ときには通告の義務を負うこともある。心理職やカウンセラーと違って、家庭医は身体に立ち入り、権限を行使し、生活のなかにまで踏み込む立場にいる。

だからこそ、再トラウマ化の機会が構造的に多くなってしまう危険性も心しておかねばならないだろう。Bulford らのレビューが、身体診察をトラウマインフォームドに行うことを、心と身体の両方を繊細に扱わなければならない総合診療という専門性に固有の課題として名指ししているのも、そうした事情によるのだと思う。

そう考えると、安全感の技能は、家庭医にとって「あればなおよいもの」ではなく、「害しない」ための職業上のリスク管理でもあるように思えてくる。そして幸いなことに、この領域の実践の多くは、具体的に実行することができる。診察の前にどこに触れるかを予告しておく。あたりまえのことではあるが、全身を見る必要がなければ、着替えではなく衣類をずらすという選択肢を示す。つらくなったときの合図をあらかじめ取り決めておく。いずれも、相手の被害歴を知らないままで、すべての患者に対して行うことができる。

3-3. 新しい概念ではなく、すでにしてきたことなのかもしれない

Lynch らが「generalismの技芸(Craft)」として整理した四つの原理——全人的なスコープ、関係としてのプロセス、癒しへの志向、統合的な知——は、安全感やTICの原理とほとんど重なっているように見える。Bulford らも、実践者の語りから浮かび上がったパラダイムの転換が、専門技能としての generalism の再発見と重なると述べている。

とりわけ興味深いのは「holding」という概念だと思う。治癒を前提とせずに、信頼できる関係を保ち、安全な場であり続け、共感的な支持と代弁を続けていくこと。これは英語圏の家庭医療においても、多くの臨床家が長らく本能的に理解しながら、名前を与えられてこなかったものだとされている。安全感の枠組みは、この暗黙知に、名前と生理学的な根拠と、そして教えることのできる形とを与えてくれるのかもしれない。

ここに「本質的」という言葉の意味があるように思う。安全感の実践は、家庭医療に何かを追加するものではなく、家庭医療がすでに何をしてきたのかを説明するものなのではないだろうか

3-4. 継続して関わりつづけられることが、いちばんのリソースになる

安全感は、一回の面接で生まれるものではないらしい。その査定は繰り返され、そのつど更新されていく。かつて信頼を裏切られた経験のある人にとって、安全とは主張ではなく、時間をかけて確かめられていく事実なのだろう。

だとすれば、継続性と近接性、そして多重の接点を持つ家庭医療は、この領域において構造的に恵まれた場所にいるのかもしれない。もちろん、領域別専門診療は出来事を扱うことができる。けれども、状態を長い時間にわたって扱いつづけられるのは、おそらく家庭医療なのではないかと思う。


4. 医療者自身の安全感についても、同じことが言えるように思う

ここまでの話はある意味で普遍的な「生理」の話だった。そして生理は、医療者にも等しく当てはまるはずだろう。医療者もまた、絶えず自分の安全感を査定しながら働いているのである。

Bulford らのレビューが抽出した三つの中心テーマのひとつは、「Navigating the emotional load(情緒的負荷をうまく扱っていくこと)」だった。同じレビューの結論は、臨床家が背負う情緒的な負荷への手当てが、臨床家個人の福利のためだけでなく、プライマリ・ケアという人材の持続可能性と、TIC実装の長期的な成否そのものに関わるのだと述べている。それにもかかわらず、それをどう支えればよいのかについてのエビデンスは、いまのところほとんど空白なのだという。

Raja らのTICピラミッドの第4層が「自分自身の被トラウマ歴と反応の理解」であり、そこで代理受傷やバーンアウトへの注意、そして "trauma stewardship"——患者の苦闘を自分が引き受けてしまうことなくケアすること——が挙げられているのも、同じ論理の帰結なのだと思う。彼らは、日々の診療の情緒的な側面に圧倒されているとき、共感的なコミュニケーションはほとんど不可能になる、と書いている。患者の安全感と医療者の安全感とは、独立した二つの課題ではなく、おそらく同じひとつの変数なのではないだろうか。

安全でない組織から、安全な診療が生まれてくることは、たぶんないのだろうと思う。バーンアウトは熱心さの副作用ではなく、安全感を扱う枠組みを持たないまま、安全感を必要とする仕事を続けてきたことの、いわば当然の帰結なのかもしれない。

そしてこの見方は、教育の設計に直接の要求を突きつけてくるように思う。研修プログラムに安全感の実践を組み込むのであれば、学習環境そのものの安全性が同じ設計文書のなかに含まれていなければ、そのカリキュラムはどこかで自己矛盾を起こしてしまうのではないだろうか。権威の勾配がある場で「患者に安全感を提供しなさい」と教えることは、それ自体が教えている内容の反証になってしまうように思う。


5. では、日々の診療に何を求めることになるのか

出来事を探すことからではなく、状態に注意を向けることから始めたい。トラウマや安全感のスクリーニングは、順序としては最後に来るのだと思う。Raja らもこれをピラミッドの最上層としていて、陽性だった人に応じられる資源がないのであれば実施すべきではない、とはっきり書いている。

ただし、七つの全人的領域——環境、社会的風土、関係性、身体、内的経験、自己感、スピリットと意味——は、点検票のように使うことができるかもしれない。「何があったか」ではなく、「いまどこが脅かされているのか」を問うために。

「治す者」から「保つ者(holding)」への役割の捉え直しも必要だと思う。これは能力を手放すことではなく、別の種類の能力といえるだろう。速やかに解決できないことへの苛立ちは、この捉え直しがまだ済んでいないときに生じてくるのかもしれない。

そして、明日から変えられるところから手をつけたい。予測できること、選べること、あらかじめ説明されていること、中断の合図があること。これらは態度ではなく手順であり、手順であるからこそ、共有することも評価することもできるのだと思う。


6. どこまで言えるのか、そして留保しておきたいこと

過剰に主張しないでおくことも、この枠組みに対する誠実さのうちに含まれるのだと思う。

Bulford らのレビューに採用された研究は、すべて高所得の欧米圏のものであり、著者たち自身が転用可能性の限界を明記している。プライマリ・ケアにおけるTIC介入の効果についての頑健なエビデンスも、いまだ乏しい。Sense of Safety の理論枠組にしても、著者らの言葉によればまだ揺籃期にあり、測定尺度の開発はこれからの課題なのだという。

したがって本エントリーは、確立した知見の紹介ではない。日本の家庭医療という文脈のなかで、この枠組みが何を説明することができ、何を可能にするのかを、これから検証していくための出発点として書きとめるものである。


7. おわりに

安全感を保証する実践は、家庭医療に新しい仕事を足すものではないのだと思う。すでに行われている仕事の、どこに治療的な作用があるのかを言葉にしていくものなのではないだろうか。

そして、言葉にされないものは、教えることも、評価することも、受け継いでいくこともできないのだ。

日本の家庭医療がこの言葉を持たずにきたことの代償は、すでに二つの形で支払われているように思う。患者の側では、「難しい人」というラベルが繰り返し生産されるという形で。医療者の側では、説明されないままの消耗という形で。

この二つが同じひとつの欠落から生まれているのだということを示すことができたなら、それがこの試みの最初の成果になるのかもしれない。


主要文献

  1. Lynch JM, Stange KC, Dowrick C, Getz L, Meredith PJ, Van Driel ML, Harris MG, Tillack K, Tapp C. The sense of safety theoretical framework: a trauma-informed and healing-oriented approach for whole person care. Front Psychol. 2025;15:1441493.
  2. Bulford E, Baloch S, Neil J, Hegarty K. Primary healthcare practitioners' perspectives on trauma-informed primary care: a systematic review. BMC Prim Care. 2024;25:336.
  3. Raja S, Hasnain M, Hoersch M, Gove-Yin S, Rajagopalan C. Trauma informed care in medicine: current knowledge and future research directions. Fam Community Health. 2015;38(3):216–226.
  4. Lynch JM, van Driel M, Meredith P, Stange KC, Getz L, Reeve J, et al. The craft of generalism: clinical skills and attitudes for whole person care. J Eval Clin Pract. 2022;28(6):1187–1194.
  5. Lynch JM. A whole person approach to wellbeing: building sense of safety. Routledge; 2021.
  6. Brosschot JF, Verkuil B, Thayer JF. Generalised Unsafety Theory of Stress.(Lynch et al. 2025 内の引用による)
  7. Cocksedge S, Greenfield R, Nugent GK, Chew-Graham C. Holding relationships in primary care: a qualitative exploration of doctors' and patients' perceptions. Br J Gen Pract. 2011;61(589):e484–491.
  8. Woolhouse S, Brown JB, Thind A. Building through the grief: vicarious trauma in a group of inner-city family physicians. J Am Board Fam Med. 2012;25(6):840–846.
  9. Kuruppu J, Humphreys C, McKibbin G, Hegarty K. Tensions in the therapeutic relationship: emotional labour in the response to child abuse and neglect in primary healthcare. BMC Prim Care. 2022;23:48.
  10. Substance Abuse and Mental Health Services Administration. Concept of Trauma and Guidance for a Trauma-Informed Approach. Rockville, MD; 2014.

病いの変容学習—Biographical Disruptionと意味の再構成のあいだ、理論的覚書

藤沼康樹(医療福祉生協連 家庭医療学開発センター)

執筆支援:Fable 5(Anthropic)


0. この覚書の位置づけ

この文章は、HEP(Healer-Educator Programme) 第4回ワークショップの準備過程で浮かんだひとつの着想を、忘れないうちに書きとめておくための覚書である。着想の中身は、こう要約できる。

変容学習理論は、指導医がレジデントの変容に伴走するための理論としてだけでなく、医師が患者の病いの経験——慢性疾患、障害、喪失、死への直面——に伴走するための理論としても読めるのではないか。そしてその読み替えは、Interpretive Medicineが未回答のまま残している「では、どうすればいいのか」という問いに、部分的な答えを与えるのではないか。

きっかけは、緩和ケアの領域で、終末期患者の精神的変容を変容学習の枠組みで記述する試みがすでに行われていることを知ったことだった。末期診断を「混乱を引き起こすジレンマ」として読み、ケアチームの関係性を変容の条件として位置づける議論である。これを見て、この応用は緩和ケアに限定されるものではなく、慢性疾患ケア一般、さらには総合診療の診療構造そのものの理論化に届きうると考えた。

以下、論点を順に整理する。


1. 出発点——三つの理論の分業関係

慢性疾患の経験をめぐって、医療社会学はすでに豊かな記述の語彙を持っている。しかし、それらを並べてみると、興味深い空白が見えてくる。

Buryのbiographical disruption(1982) は、破断の理論である。慢性疾患の発症は、単なる身体の不調ではなく、当たり前とされていた世界の構造——身体への暗黙の信頼、人生の見通し、他者との関係の配置——を破断させる伝記的な出来事である、という定式だ。この概念は、病いの経験研究の礎石になった。

その後の再構成の過程についても、記述の語彙は用意されてきた。Gareth Williamsのnarrative reconstruction は、患者が病いの原因や意味を自分の人生の物語のなかに位置づけなおす営みを描いた。CharmazのLoss of self は、慢性の病いにおける自己の喪失と再定義を扱った。Corbin と Straussのbiographical work は、その再構成が継続的な作業であることを示した。そしてFrankの三つの語り——回復の語り、混沌の語り、探求の語り——は、再構成の帰結が取りうる形を類型化した。

これらはいずれも優れた理論である。しかし、共通する限界がひとつある。いずれも観察者の理論であるということだ。何が起きるかを記述し、類型化することには長けているが、破断から再構成へ至る中間の過程で、かたわらにいる他者——家族、医療者——に何ができるのかについては、ほとんど語らない。

Joanne ReeveのInterpretive Medicineも、この限界を別の形で共有している。Reeveは、総合診療の中核が疾患の同定ではなく病いの意味の解釈にあること、その解釈が患者との協働のなかでその場で構成されること(making sense)を明確に主張した。しかし、その協働的な意味形成をどのように支援するのかという方法論の水準では、議論は薄い。重要性の主張と、方法の不在。この落差が、私がかねて感じてきた物足りなさの正体である。

ここに、変容学習理論を差し込む余地がある。


2. なぜ変容学習なのか——「かたわらにいる者」が理論化されている

変容学習が上記の理論群と決定的に違う点は、ひとつしかない。最初から、学習者のかたわらにいる他者(教育者)の位置が理論の内部に組み込まれていることである。

メジローの理論において、前提の省察は一人では完結しない。前提とは疑わずに使っているもののことだから、その妥当性は他者との対話にさらすことでしか検証できない。だから省察的な対話が理論の必須の構成要素になっている。

クラントンは、さらに踏み込んで教育者の仕事を定式化した。変容は起こせない。他人の準拠枠を外から組み替えることはできず、しようとすべきでもない。しかし、変容が起こりやすい条件——心理的な安全、十分な時間、選択の自由、支持と挑戦のバランス——を整えることはできる。そして、学習者には変わらない自由があり、それを尊重できるかどうかが、変容の支援と操作とを分ける。

この「条件を整える者」としての他者の理論は、biographical disruptionの後の再構成過程に、そのまま移し替えられるように見える。すなわち——

  • 診断や機能喪失という出来事は、混乱を引き起こすジレンマとして読める
  • それに続く恥、罪悪感、孤立感は、メジローの十の局面の第2局面(罪悪感や恥をともなう自己吟味)に対応する
  • 「同じ経験をした人が他にもいる」と知ること(第4局面)は、ピアサポートや患者会の効果の理論的説明になる
  • narrative reconstructionと呼ばれてきた営みは、前提の省察を経た準拠枠の再構成として記述しなおせる
  • そして医療者の仕事は、変容を起こすことではなく、条件を整え、待ち、起きたときにそれと気づくこととして定式化できる

三つの理論の分業を図式化すれば、こうなる。Buryが破断を記述し、WilliamsやFrankが再構成の帰結を記述する。変容学習は、そのあいだの過程と、そこに関与する他者の構えを記述する。


3. 先行する応用——この線はすでに引かれかけている

この着想は、まったくの新規ではない。成人教育学の側では、生命を脅かす病いを変容学習の場として扱った研究系譜がすでにある。

CourtenayとMerriamらは1990年代末に、HIV陽性者の意味形成過程を変容学習の枠組みで分析した。Baumgartnerはその対象者を年余にわたって追跡し、診断を起点とするパースペクティブ変容が長期に維持・深化することを報告している。緩和ケア領域でも、終末期の患者の精神的変容——アイデンティティへの執着を手放していく過程、ケアチームの関係性が変容の安全基地として働くこと——を変容学習として記述する議論が現れている。

ただし、これらの応用には偏りがある。対象がHIVと終末期に集中しており、慢性疾患ケア一般の理論として、しかも臨床医の側の構えの理論として組み上げたものは、管見の限り見当たらない。とくに、Buryに始まる医療社会学の病いの経験研究と、変容学習理論とを正面から接続した文献は思い当たらない。両者はデューイ的な省察の系譜とナラティブ論という近い水脈を持ちながら、別の学問共同体で発展してきたためだろう。

ここに文献上の空白がある。HEP第4回の準備で確認した空白——ジェネラリスト指導医のための変容学習FDに関する文献の不在——と、ちょうど対をなす空白である。


4. 総合診療の診療構造は、変容の条件を偶然満たしている

この読み替えがもたらす最大の理論的な利得は、次の命題が言えるようになることだと考えている。

総合診療の診療構造——とりわけ継続性——は、メジローが列挙した省察的対話の条件を、制度として部分的に満たしている。

メジローが挙げた対話の条件を思い出したい。正確で十分な情報。強制からの自由。他の視点への開かれ。前提そのものを検討の対象にできること。参加の対等性。そして十分な時間。

このうち「時間」は、教育の場面でさえ確保が難しい条件である。前提の省察は一回の対話では起きない。行きつ戻りつし、何年もかかることがある。ところが、継続性のある総合診療の外来は、この時間を構造として持っている。数年にわたる関係のなかで、患者がある日ぽつりと口にした一言を医師が覚えていて、半年後の受診でそこに戻る。あの縦の構造は、変容学習が要求する対話の器に、期せずしてなっている。

だとすれば、Reeveのmaking senseに対する「どうすればいいのか」の答えは、新しい面接技法の開発ではない。すでに持っている診療構造を、患者の前提の省察を支える器として自覚的に使うことである。具体的には——

  • 患者の平板な言葉(「もう歳だから」「仕方ないんです」)の下にある前提に気づくこと
  • 揺らぎの表現——怒り、投げやりさ、意外な明るさ——を、解決すべき問題ではなく変容の入口の候補として見ること
  • 答えを与えて早く楽にしたいという善意の衝動を、保留できること
  • 意味の再構成を急がせないこと。混沌には混沌のままでいる権利があること
  • そして、再構成が起きたとき、それと気づいて証人になること

列挙してみて気づくのは、これがHEP第4回で指導医に求める構えと、ほとんど一語一句同じだということである。この点は第6節で立ち返る。


5. 三つの留保——この応用が孕む危険

この着想には、少なくとも三つの留保を付さなければならない。むしろ、この留保の部分にこそ、議論の誠実さがかかっていると思う。

留保1|変容の規範化という暴力

病いの経験を「学習」と呼んだ瞬間に、変容しない患者、意味を見出さない患者、成長の物語を語らない患者が、暗黙のうちに「失敗」として位置づけられる危険が生じる。

Frankが混沌の語りについて述べたことは、ここで決定的に重要である。混沌の語りが聞き手を苦しめるのは、そこに筋がないからであり、聞き手はつい筋を要求したくなる。しかし、筋の要求はそれ自体が暴力になりうる。同型の批判は、心的外傷後成長(posttraumatic growth)の研究が「成長の押しつけ」として受けてきたものでもある。

クラントンの「変わらない自由」は、教室においてよりも病床において、はるかに重い。変容学習を臨床に持ち込むなら、この概念を中心に据えなければならない。変容は、患者の義務ではない。

留保2|経路の問題——ここではダークスを選ぶべきかもしれない

メジローの本流は、批判的省察と言語的な討議を変容の経路とする合理主義的な理論である。しかし、死や喪失に直面した人の変容は、おそらくこの経路をあまり通らない。

理論の分岐を思い出せば、ここで有力になるのはダークスの系譜——変容を魂の仕事として、イメージや象徴や感情という言語以前の水準で捉える立場——である。とりわけ、ボイドとマイヤーズが変容の中核に据えた喪の作業(grieving)識別(discernment) は、もともと喪失の現象と地続きの概念であり、緩和ケアや慢性疾患の文脈との親和性が高い。古い自己を手放すことは喪失であり、喪失には悲嘆が伴う。この定式は、biographical disruptionの後の過程の記述として、批判的省察よりも正確であるように思われる。

メジローとダークスの2006年の対話は決着がつかなかったが、患者の変容を考える場面では、選ばれるべきはかなりの頻度でダークス側だろう。言葉にして吟味する方向へ促すのか、言葉にならないものが言葉にならないまま留まることを許すのか——この選択は、診察室では後者に傾くことが多いはずである。

留保3|概念の輸入であることの明示

変容学習は成人教育の理論であり、患者は学習者として医療の場に来ているわけではない。この越境を無自覚に行えば、Newmanの批判——変容学習とは良い変化一般の言い換えではないのか——が、教育の文脈におけるよりも一層強く刺さることになる。

接続面を滑らかにする候補としては、メジローの認識論的な語彙よりも、Illerisによる再定義——変容学習とはアイデンティティの変化を伴う学習である——のほうが有望かもしれない。Buryが破断したと言ったものは、知識の枠組みというより伝記、すなわちアイデンティティだからである。Kegonの「主体が客体になる」という定式——自分がそれに埋め込まれて見ることしかできなかったものを、距離を取って眺められるようになること——も、病いの受容過程の記述として使いうる。


6. HEPにとっての意味——HealerとEducatorの理論的同型性

最後に、この着想がHEPというプログラムにとって何を意味するかを書いておく。

プログラムの冒頭の文書には、こう書いてある。「患者をwhole personとして診るように、研修医をwhole personとして育てる。この二つは、深いところでつながっています」。この一文は、これまで理念の表明であって、理論的な命題ではなかった。

しかし、患者の病いの経験が変容学習として記述でき、レジデントの成長もまた変容学習として記述できるのなら、この「つながり」は同型性として明示できる。すなわち——

  患者に対する医師 レジデントに対する指導医
出来事 診断、喪失、biographical disruption 生物医学の枠で扱えない経験との遭遇
揺らぎの現れ 平板な言葉、怒り、沈黙、意外な明るさ 平板な言葉、もやもや、「疲れました」
してはいけないこと 意味の押しつけ、筋の要求、安心の急ぎ売り 答えの即時提供、早すぎるフィードバック
できること 条件を整える、待つ、気づく、証人になる 条件を整える、待つ、気づく、証人になる
守るべきもの 変わらない自由 変わらない自由

最下段の二行が同一であることが、この表の要点である。HealerとEducatorは、対象が違うだけで、同じ構えの二つの現れだと言える。これは、第4回で扱ったparallel process——指導関係が診療関係を映すという構造——の、さらに一段深い層にある同型性である。指導医が診察室で患者の揺らぎに対して行っていることを、そのまま研修室でレジデントの揺らぎに対して行えばよい。逆もまた然りである。

この同型性は、HEPの教育設計に対しても含意を持つ。指導医が患者の変容に伴走する力と、レジデントの変容に伴走する力は、別々に養成する必要がない。おそらく同じ知覚——揺らぎに気づく力——を共有しているからである。


参照した主な文献・概念

  • Bury M. Chronic illness as biographical disruption. Sociol Health Illn. 1982;4(2):167-182.
  • Williams G. The genesis of chronic illness: narrative re-construction. Sociol Health Illn. 1984;6(2):175-200.
  • Charmaz K. Loss of self: a fundamental form of suffering in the chronically ill. Sociol Health Illn. 1983;5(2):168-195.
  • Frank AW. The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics. University of Chicago Press, 1995.
  • Reeve J. Interpretive Medicine: Supporting generalism in a changing primary care world. Occas Pap R Coll Gen Pract. 2010;88:1-20.
  • Mezirow J. Transformative Dimensions of Adult Learning. Jossey-Bass, 1991.(邦訳『おとなの学びと変容』鳳書房、2012)
  • Cranton P. Understanding and Promoting Transformative Learning. 3rd ed. Stylus, 2016.
  • Boyd RD, Myers JG. Transformative education. Int J Lifelong Educ. 1988;7(4):261-284.
  • Dirkx JM, Mezirow J, Cranton P. Musings and Reflections on the Meaning, Context, and Process of Transformative Learning. J Transform Educ. 2006;4(2):123-139.
  • Illeris K. Transformative Learning and Identity. J Transform Educ. 2014;12(2):148-163.
  • Courtenay BC, Merriam SB, Reeves PM. The centrality of meaning-making in transformational learning. Adult Educ Q. 1998;48(2):65-84.
  • Baumgartner LM. An update on transformational learning theory: a longitudinal study. Adult Educ Q. 2001;51(1)ほか一連の追跡研究.
  • Newman M. Calling Transformative Learning Into Question: Some Mutinous Thoughts. Adult Educ Q. 2012;62(1):36-55.

※書誌事項は記憶にもとづく暫定的なものを含む。引用・公表の際は原典に当たって確認してください

 

反転診療とSAGE診療モデル入門

藤沼康樹

作成支援:Claude Fable 5(Anthropic)

 この間、反転診療に関する学会発表を行ったり、臨床哲学の先生方との対話があったりして、反転診療についてさらに考えています。今回のエントリーでは、以前に作ったエントリー(以下のリンクで読めます )で示したものよりわかりやすい、反転診療入門的なレジデントのための実践フレームワークを作成してみました。

fujinumayasuki.hatenablog.com

 


このエントリーの使い方

反転診療(Flipped Consultation)は、生物医学的評価から始める通常の診療構造を反転させ、社会的文脈の探索から入るアプローチです。ただしReeve自身が認めているように、SAGEモデルの5ステップは「プロセスの骨格」を示しますが、「その各局面で、患者の中で実際に何が生じるか、生じさせるか」までは踏み込んでいません。

この資料は、その空白にHavi Carelの現象学的アプローチを差し込むためのものです。反転診療の各ステップに、「患者の経験のなかで何が生じるか」という現象学の具体的な問いを対にして配置しました。

形式は認識-対処ペアです。左側に「患者にこのサインが見えたら」という認識の手がかりを、右側に「ではこう問う/こう動く」という対処を置いています。

大前提として、これはデフォルト設定のみであって、規範的なルールではありません。 すべての患者に全ステップを行う必要はありませんし、行うべきでもありません。むしろ後述するトリアージで対象を絞り、絞り込んで使うのが現実的です。目録から離れる勇気も時に必要です。ジェネラリストとしての熟達は、こうした目録をもはや意識しなくても実践できるところにあるといえるので、この資料は「最初の足場」として使うものとして作ってあります。


前提となる用語:SAGEモデルと反転診療とは

これからSAGEという言葉が繰り返し出てくるので、先に整理しておきます。

SAGE(School for Advancing Generalist Expertise) は、複雑な健康問題に対するジェネラリスト(総合診療医/家庭医)の解決策を開発・普及するための国際的な協働体です。Joanne Reeveらが中心となり、専門的ジェネラリスト診療(Expert Generalist Practice)の原理を、現場で使える道具へ翻訳することを目指しています。

SAGE consultation model(SAGE診察モデル) は、その協働から生まれた診察の枠組みで、5つのステップからなります。①VIPレンズ(Vulnerability to bIographical disruption = 生活史的破綻への脆弱性というレンズで、需要と資源の不均衡を見る)、②マルチソースデータ(科学的・患者・専門職の理解を同じ重みの「データ」として集め、科学的知識を特権化する知の階層を外す)、③個別化されたケア(ガイドラインを当てはめるのではなく、この個人のための新しい病い説明を共同創造する)、④迅速レビュー(その解釈が妥当かを診察内で自己点検する)、⑤インパクトレビュー(継続診療のなかで解釈の効果を確かめ、必要なら修正する)。

この5ステップの中核には、専門的ジェネラリストが「病いと疾患のあいだのゲートキーパー」として、この人の病い経験を医療化することがこの人の最善の利益にかなうかを判断する、という発想があります。

反転診療(Flipped Consultation) は、このSAGEの思想を診療構造のレベルで表現したもので、「生物医学的評価から始める」通常の順序を反転させ、「社会的文脈の探索から始め、必要な場合にのみ生物医学的評価へ移行する」アプローチを指します。本資料は、この反転診療/SAGEの各局面に、Carelの現象学的操作を対応させて肉付けするものです。

つまり大づかみに言えば――SAGEが診療の骨格を、反転診療が通常診療の反転を、そしてこの資料がCarelの現象学を通じて「各局面で患者の中に何が生じるか、生じさせるか」を具体的に示すことになります。


PART 0 ― まず「誰に使うか」を見極める(VIPトリアージ)

現象学的アプローチは手間がかかります。これを全患者に展開するのは非現実的で、また不適切な場合もあります。使う前に、この患者が三群のどこにいるかを見極めます。これはReeve & Cooper(2016)の三つの語りのパターンに対応するものです。

認識-対処ペア 0

患者にこのサインが見えたら(認識) ではこう動く(対処)
語りの前景が「日常生活」で、病いは背景に置かれている。 「自分の思うように生活している」「病気に人生を支配させたことはない」といった語り。医療はうまく生活に組み込まれている。 Gliding Swan=レジリエント群。 現象学的操作はほぼ不要なことが多い。目標は「今の生活を損なわないこと」。すでに患者は生活の側から病いを解釈できている。余計な介入はレジリエンスを壊しかねない。「見守る」が基本。
語りの前景が「医療・治療の管理」に占められている。 「薬を管理するのが大変」「数値を目標に届かせないと」「誰か解決してくれる人がほしい」。まだ圧倒されてはいないが、エネルギーが医療に吸い取られている。 Stormy Seas=脆弱群。★この資料の主対象。 反転診療+現象学的操作が最大のレバレッジを持つ。PART 1以降をフルに、または縮小して展開する。
語りの前景が「病い」そのもので、生活が飲み込まれている。 「何もできない」「ただ息をしているだけ」。消耗と圧倒。医療の語りすら乏しい、あるいは医療に絶望している。 Stuck Adrift=断絶群。 現象学的操作に入る前提が崩れている。まず過剰需要の緩和が最優先。 ただしそれは「医療の強化」とは限らない。ときに医療そのものが過剰需要の源なら脱医療化が緊急対応になる。探索に応答できる資源が回復してから、改めてトリアージし直す。

レジデントへの注意点:「若くて重症そうだから濃厚に医療介入」という反射を疑うこと。断絶群への対応は病態の重さでは決まらない。何が需要を過剰にしているか(ときにそれは医療そのものである)を見る。


PART 1 ― 社会的文脈への入口 × 現象学的還元

反転診療は「生物医学から社会的文脈へ」と診療構造を反転させます。この入口で、患者の経験の焦点も反転させます。これがCarelの言う現象学的還元です。

還元とは何か(レジデント向けの一言):「この病気は客観的にこういう病気だ」という当たり前の見方を、いったん脇に置くこと。病気の実在を否定するのではなく、焦点を「病気そのもの」から「それがこの人にどう現れているか」へ移すこと。

なぜこの方向が適切なのか:私たちは「病気が先にあって、経験は後から派生する」と思いがちです。しかしCarelによれば、患者にとっては経験のほうが先で、客観的な病気の実体は後から措定されるものです。だから経験の側から入る反転診療は、経験の本来の順序に忠実であり、認識論的に正しい向きといえるのです。

認識-対処ペア 1

患者にこのサインが見えたら(認識) ではこう問う(対処)
検査値・症状・治療の管理の話に終始し、それ以外の言葉が出てこない。 医療の語りをいったん止める許可を出す。「今日は検査値や症状の管理の話ではなく、少し違うことを伺わせてください。この病気が、あなたの一日のなかで、どんなふうに現れてきますか。朝起きたときから順におしえてください」
「◯◯病は」「糖尿病は」と、病気を三人称・他人事のように語る。 一人称の現れへ転換させる。「あなたにとって、この病気を持って生きているというのは、実際どういう感じなのでしょう。数字ではなく、感じとして」
「失明しないために」「合併症を防ぐために」と、医療目標がそのまま生活目標に成り代わっている(健康が手段でなく目的になっている)。 医療目標を一時的に括弧に入れる。「目標値の話は少し脇に置きましょう。その目標を追いかけていないとき、あなたの毎日はどんなふうですか」
問いに即答できず、黙り込む。言葉に詰まる。 急がせない。代わりに答えを与えない。沈黙を許容する。 「うまく言葉にならなくても大丈夫です。少し考えてみてください」。この沈黙こそ、患者が初めて病いを距離をもって眺める契機になる。

やってはいけないこと:ここで医療者が「つまりあなたは不安なんですね」と解釈を先取りしないこと。脆弱群の患者は「解決を与えてくれる誰か」を求めがちで、そこに解釈を差し出すと依存が強化され、解釈力が発現しない。還元は、患者自身が焦点をずらすのを待つ操作です。


PART 2 ― 探索の内容地図 × 主題化

反転診療で社会的文脈を探索するとき、「何を探索するか」の地図が要ります。ここではMillerのLivelihood Identity三次元(Making/Providing/Receiving)を地図として使い、その上でCarelの主題化を働かせます。

主題化とは何か(レジデント向けの一言):ある経験に注意を向けて、その特定の側面を「くっきりさせる」こと。同じ病いでも、注意の向け方しだいで、怖いものにも・煩わしいものにも・付き合う相手にも見える。その多面性を患者自身に発見してもらう手だてです。

認識-対処ペア 2a ― 単一の意味への固着を解く

患者にこのサインが見えたら(認識) ではこう問う(対処)
病いがたった一つの意味(たいてい恐怖や喪失)で全面を覆っている。「とにかく怖い」「もう終わりだ」。 まずその意味を肯定してから、別の焦点を提示する。「今、この病気はまず『怖いもの』として現れているのですね。それはとても自然なことです。同時に少し違う角度から見ると、この病気はあなたにとって、怖いもの以外の顔――たとえば煩わしいもの、付き合っていく相手、何かを教えてくれるもの――を持つことはありますか」
病いを認知的にしか語らない(数値・機序ばかり)。 情動・道徳の側面に注意を促す。「その管理をしているとき、どんな気持ちになりますか」「うまくいかないとき、自分を責める気持ちはありますか」

認識-対処ペア 2b ― 図と地を開く(★アンカー探索の核心)

これは、Reeveの言う「意味のあるアンカー(変化と不確実性のなかで解釈の参照点になるもの)」を、患者自身に背景として発見してもらう操作です。医療者がアンカーを指定しないことが肝心です。

患者にこのサインが見えたら(認識) ではこう問う(対処)
病いが生活の「図(前景)」を占領し、それ以外が見えなくなっている。 背景(地)を問う。「あなたの生活全体を一枚の絵だとすると、今は病気が真ん中に大きく描かれているように聞こえます。その絵の背景のほうには、何がありますか。病気に覆われていない部分、病気があっても変わらずそこにある部分になにかありますか」
「もう何も残っていない」と語るが、よく聞くと続けている習慣・関係がある。 残存している地を具体化する。「病気になる前から大切にしてきたもので、今も細々とでも続いているものはありますか」 ここで挙げてくるものが、次のステップの再構成の足場になる。

認識-対処ペア 2c ― 複数の視点を開く(パートナーシップの地ならし)

患者にこのサインが見えたら(認識) ではこう問う(対処)
「誰も分かってくれない」と孤立して語る。 視点の複数性を可視化する。「あなたのご家族は、この病気をどう見ていると思いますか。あなたの見方と同じですか、違いますか」 患者・家族・医療者がそれぞれ違って病いを主題化していることを顕在化させると、協働(パートナーシップ)の前提が整う。

ここでのMiller三次元の使い方:2a〜2cで語られる内容が、Making(自分が生み出す活動)の縮小なのか、Providing(役割・責任)の過負荷なのか、Receiving(支援を受け取ること)の枯渇なのか、を心の中で仕分けしておく。とくに脆弱群ではReceivingの歪み―支援を「技術的修理」としてしか受け取れない―が核心にあることが多いが、これは次のPART 3とPART 4で扱う。


PART 3 ― 個別化された病い説明の共同創造 × 世界内存在の再検討

反転診療とSAGEの目的地は、「この個人のための、新しい病いに関する説明を一緒に作る」ことです。ガイドラインを当てはめるのではなく、新しい知識を創造する。その患者側の実質が、Carelの世界内存在の再検討―病いを「生活を侵食するもの」から「生活のなかに位置づけられたもの」へ編み直す作業です。

世界内存在とは何か(レジデント向けの一言):人が生きるということを、身体・その人・環境・人との結びつき・意味や習慣、そのすべての連関として捉えるハイデガー由来の言葉。病いは、この連関のあちこちに広く影響する。だから「病気を管理する」ではなく「生活の連関のどこに病気を位置づけ直すか」で考える。

認識-対処ペア 3

患者にこのサインが見えたら(認識) ではこう問う/こう動く(対処)
PART 2で、生活の「地」(アンカー候補)が見つかっている。 それを足場に呼び戻す。「前回、あなたの生活には病気に覆われていない大切な部分がある、という話が出ました〔具体的に〕。今日は、その大切な部分を中心に置いたとき、病気とのつきあい方がどう見えてくるかを考えたいのです」
病いの管理が生活を飲み込んでいる(管理が目的化)。 手段の位置に戻す。「病気があっても続けたい活動は何ですか。その活動を守るために、管理をどう組み込めばいいでしょう」 =管理を「目的」から「大切な活動を守る手段」へ反転させる。
「誰と一緒にやればいいか分からない」と孤立。 パートナーシップを患者に設計させる。「この病気とやっていくうえで、誰と一緒にやれそうですか。医療者である私には、何を担ってほしいですか」
これから先に絶望を語る。 時間の再定位。「これから先を考えたとき、病気との関係で、どういう時間の使い方をしたいですか」
患者が新しい位置づけを語り始める。 医療者は解釈を与えず、患者の言葉を確認し返す。 「つまりあなたにとっては〔患者の言葉〕ということですね」。Carelの言う通り、語ることで思考が形になる。その伴走をする。

ここがゲートキーパー判断の場:この再構成のなかで、「医療というゲートを通すことが、この人の生活の継続に資するか」を一緒に吟味する。ときに答えは脱処方・脱医療化になる。ただし次のPART 5の自己点検を必ず対にすること。


PART 4 ― 最難関次元:Receivingの歪みに触れる

脆弱群の核心には、しばしば**「支援を受け取れない/技術的修理としてしか受け取れない」**というReceivingの歪みがあります。Carelの「身体的疑念(bodily doubt)」―自分の身体への基礎的信頼が揺らぐ経験―の対人関係的な延長として理解できます。自分の身体を信頼できなくなった人は、他者の支援を受け取る自己の安定も揺らいでいる。だからこれは最も繊細で、最も問いかけの難しい次元です。

認識-対処ペア 4

患者にこのサインが見えたら(認識) ではこう問う(対処)
支援を求めているのに、それが「誰かに問題を修理解決してもらう」形でしか語られない。 まず入り口の軽い問いから。「今、何かや誰かに頼れていますか」
「迷惑をかけたくない」「自分でやらないと」と、受け取ることへの抵抗。 抵抗そのものを主題化する。「誰かに助けてもらうのが難しいと感じることはありますか」「『迷惑をかけたくない』という気持ちが出ることはありますか」
依存が増えたことへの否定的な意味づけ(「情けない」「役立たずだ」)。 依存の意味づけを問う。「助けを求めると、どんな気持ちになりますか」 ―依存の増大が本人にどう意味づけられているかを、責めずに探る。
ごくまれに、うまく受け取れた経験がある。 その例外を光らせる。「最後に誰かに本当に助けてもらった、と感じたのはいつですか」 例外は再構成の資源になる。

レジデントへの注意:この次元は患者の最も脆弱な部分に触れる。急いで「解決」に向かわないこと。受け取れなさを名指しできること自体が支援になる。一回の受診で扱い切ろうとしない。


PART 5 ― 迅速レビュー:自分の解釈を疑う(現象学の非処方性を規律あるいは戒めにする)

反転診療は生活側からの解釈を強く駆動するぶん、逆方向のリスクを負います。脱医療化が「医療者の責任回避」になっていないか。自分の好みや偏見を、患者の生活解釈に押し付けていないか。SAGEの迅速レビューに、Carelの「現象学は単一の理解を提供しない」という原則を、自己点検の基準として組み込みます。

認識-対処ペア 5(自分に向ける)

自分にこのサインが見えたら(認識) ではこう点検する(対処)
「この患者は脱医療化すべきだ」と早々に結論している。 「それは本当にこの患者の視点から出た解釈か、それとも私自身の見方・好み・偏見が入り込んでいないか」 を問う。
患者が「ノンコンプライアンス」だからと、内心で医療を諦めかけている。 脱医療化が「見捨て」の言い換えになっていないか点検する。患者を支えないまま手を引いていないか。
自分の解釈に患者を導きこうとする感覚がある。 現象学の非処方性に立ち返る。唯一の正しい病い理解は存在しない。 患者が別の解釈に向かう自由を残しているか。
医師自身が一人で抱えこんでいる。 同僚との振り返り(SAGEグループ/バリント的検討)に持ち込む。解釈的実践は集団的な吟味を必要とする。

まとめ ― 三層の分業として

この資料の背後にある構造を、最後にまとめて示します。

Reeve(反転診療/SAGE) … 「誰に・いつ・どの方向で」診療するか。プロセスの骨格と三群の層別化。

Miller(Livelihood Identity三次元) … 「何を探索するか」。Making/Providing/Receivingという生活世界の内容地図。

Carel(現象学的三ステップ) … 「各局面で患者の中で何が起きるべきか、なぜその向きが正しいか」。還元・主題化・世界内存在の再検討という経験の操作と、その基礎づけ。

反転診療が「認識論的転換」と自らを規定しながら空白にしていた「その転換のなかで患者の経験に何が生じるのか、立ち上がってくるのか?」を、Carelの現象学が具体的な手続きとして明らかにする。

実装の現実的な原則

  1. 全患者に全ステップは不可能であり、不要。 PART 0でまず脆弱群に絞る。
  2. 縮小版・反復で使う。 フルセットを毎回やらない。一回の受診に一つの問いを差し込む形でよい。継続的な関係のなかで反復することに意味がある。
  3. 家庭医療の継続性が実装基盤。 単発外来では成立しにくい。縦断的な医師-患者関係こそが、この方法を可能にする固有の強み。
  4. Receiving(PART 4)は最も難しい。 訓練と自己規律を要する。急がない。
  5. PART 5の自己点検を必ず行う。 生活側への反転は、逆向きのバイアス(脱医療化の暴走)を生みうる。

縮約版:忙しい外来で一問だけ差し込むなら

局面 一問
還元 「今日は症状管理の話は脇に置いて―この病気、あなたの毎日にどう現れていますか」
主題化(図と地) 「今、病気は生活の絵の真ん中ですか、背景のほうにいますか」
世界内存在 「守りたい生活を中心に置くと、病気とのつきあい方はどう見えますか」
Receiving 「今、誰かに頼れていますか」
自己点検 「今の私の見立ては、患者の視点から出たものか、私の偏見からか」

参考文献

現象学(Carel)

  • Carel H. (2012) Phenomenology as a resource for patients. Journal of Medicine and Philosophy, 37(2), 96–113.
  • Carel H. (2013) Illness, phenomenology, and philosophical method. Theoretical Medicine and Bioethics, 34(4), 345–357.
  • Carel H. (2021) Pathology as a phenomenological tool. Continental Philosophy Review, 54(2), 201–217.
  • Carel H. (2007) Can I be ill and happy? Philosophia, 35(2), 95–110.

反転診療/SAGE/専門的ジェネラリスト診療(Reeve)

  • Reeve J. (2015) Supporting expert generalist practice: the SAGE consultation model. British Journal of General Practice, 65(633), 207–208.
  • Reeve J., Cooper L. (2016) Rethinking how we understand individual healthcare needs for people living with long-term conditions: a qualitative study. Health and Social Care in the Community, 24(1), 27–38. [初出 2014, doi:10.1111/hsc.12175]
  • Reeve J. (2010) Interpretive Medicine: Supporting Generalism in a Changing Primary Care World. Royal College of General Practitioners Occasional Paper Series, No. 88. London: RCGP.
  • Reeve J., Lynch T., Lloyd-Williams M., Payne S. (2012) From personal challenge to technical fix: the risks of depersonalised care. Health and Social Care in the Community, 20(2), 145–154.
  • Reeve J., Blakeman T., Freeman G.K., et al. (2013) Generalist solutions to complex problems: generating practice-based evidence – the example of managing multi-morbidity. BMC Family Practice, 14, 112.
  • Reeve J., Irving G., Freeman G. (2013) Dismantling Lord Moran's ladder: the primary care expert generalist. British Journal of General Practice, 63(606), 34–35.
  • Reeve J., Bancroft R. (2014) Generalist solutions to overprescribing: a joint challenge for clinical and academic primary care. Primary Health Care Research and Development, 15(1), 72–79.
  • Reeve J. (2023) Medical Generalism, Now! London: Routledge.

アイデンティティ・自己(Miller/Dowrick)

  • Miller W.L. (2019) Unlocking the creative capacity of the self. In: Dowrick C. (Ed.) Person-Centred Primary Care: Searching for the Self. Oxon: Routledge.
  • Dowrick C. (Ed.) (2019) Person-Centred Primary Care: Searching for the Self. Oxon: Routledge.
  • Miller E. (2019) Reimagining Livelihoods: Life Beyond Economy, Society, and Environment. Minneapolis: University of Minnesota Press.
  • Erikson E.H. (1950) Childhood and Society. New York: Norton.

生活史的破綻・治療負担・ジェネラリズムの理論的背景

  • Bury M. (1982) Chronic illness as biographical disruption. Sociology of Health and Illness, 4(2), 167–182.
  • Bury M. (2001) Illness narratives: fact or fiction? Sociology of Health and Illness, 23(3), 263–285.
  • Heath I. (2011) Divided We Fail (Harveian Oration). London: Royal College of Physicians.
  • May C., Montori V.M., Mair F. (2009) We need minimally disruptive medicine. British Medical Journal, 339, b2803.
  • May C., Eton D.T., Boehmer K., et al. (2014) Rethinking the patient: using Burden of Treatment theory to understand the changing dynamics of illness. BMC Health Services Research, 14, 281.
  • Gabbay J., le May A. (2011) Practice-Based Evidence for Healthcare: Clinical Mindlines. Oxon: Routledge.
  • Neighbour R. (1987) The Inner Consultation. Lancaster: MTP Press.

本フレームワークは、Havi Carelの病いの現象学(2012, 2013, 2021)、Joanne Reeveの反転診療/SAGEモデル(2015)およびReeve & Cooperの三群モデル(2016)、William L. Millerのアイデンティティ多層モデルとLivelihood Identityの臨床的統合に基づき、家庭医療レジデントの教育目的で構成された。