ブログとインターネット

 長らくブログ更新できずにいましたが、代替としてPodcast配信などしておりました。しかしながら、更新していないにもかかわらず毎月1000以上のビューがあり、古いエントリーもよく読んでおられる熱心な読者の方たちがいることを知り、大変もうしわけなく思っております。

 実は2018年暮れから今年のはじめに体調を崩して入院治療などしておりました。2月20日現在は、ほぼ通常生活にもどり、仕事や発信なども普通にできるようになっております。病いとはなにか、現代の病院の文化とはなにか、患者は何を忖度して入院生活や外来通院を続けるのかなど、多くの気付きと発見がありました。また、SNSなどを通じて多くの方からの励ましの言葉も頂戴し、たいへんありがたく思っております。

 最近はSNS、特に脊髄反射的なTwitter言論や嗜癖性の高いYouTube動画のようなあまり良質とはいえないインターネットの日本的状態が指摘されているように思います。しかし、ポッドキャストそしてかろうじてブログは、自由で開放的で生産的な古き良きインターネット(?)文化がまだ生きているように思います。ということで、以前のような論文型の書き込みは相対的に少なくなりますが、このブログ更新と活性化を心がけていきたいと思います。ブログのタイトルもマイナーチェンジしております。

 また、中断していた写真撮影も再開して、ブログに活用していく計画です。

 開かれた言論空間、例えば、評論家の宇野常寛さんが提唱している「遅いインターネット計画」に、自分も寄与していきたいと思います。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

Wall of Portraits 2

 

高齢者多疾患併存、その診療のコツ

日本における多疾患併存の現状はまだまだ明らかになっていない

 多疾患併存(Multimorbidity)とはいくつかの慢性疾患各々が病態生理的に関連するしないにかかわらず「併存」している状態であり、診療の中心となる疾患を設定しがたい状態をいいます。例えば、慢性心不全骨粗しょう症、転倒傾向、糖尿病、慢性閉塞性肺疾患うつ状態を伴う血管性認知症が併存するような場合をおもいうかべてみてください。

 多疾患併存の状態では、どの科の専門家が中心となるべきかが明確になりにくく、ケアが科別に分断され、容易にポリファーマシーや予期せぬ入院などを生じやすいとされます。

 現在ワールドワイドでプライマリ・ケア研究における最もホットなトピックスが多疾患併存です。しかしながら先進国の中でこの問題に、今まさに直面しているはずの日本では、最近までほとんど研究がなかったのです。しかし、最近私達(CFMD)のレジデンシー出身の家庭医療専門医で、現在京都大学所属の青木拓也Drらの先駆的な研究[1]により、日本おける以下のような状況が一定明らかになってきています。

1.悪性疾患+消化器疾患+泌尿器疾患+心血管疾患+代謝性疾患の組み合わせの他疾患併存では顕著な多剤投薬状態になっている

2.悪性疾患+消化器疾患+泌尿器疾患、呼吸器疾患+皮膚疾患、骨疾患+関節疾患+消化器疾患の3つのパターンの他疾患併存では、一日の服薬の回数がより頻繁になっている

  

多疾患併存における治療負担の視点とアプローチの方向性

 複数以上の慢性疾患をもつ患者は、様々な治療に対しておおきな負担感を感じています。May[2]はこうした患者の負担を治療負担(Treatment burden)と呼び、注意を促しました。治療負担の主たる要素には、

*治療とその目的を学ばなければならないこと

*服薬などの治療に対するアドヒアランスを維持すること

*ライフスタイルを変え、治療のモニタリングを自分で行うこと

などがあります。

 この治療負担とうまく折り合いをつけて生活するために、「疾患の知識」「社会的サポート」「レジリエンス」が患者には必要となります。

 見方を変えれば、治療負担を軽減し、治療負担に耐えられるように援助するということが多疾患併存のマネージメントであるともいえるでしょう。

 

高齢者多疾患併存へのアプローチのコツ

 多疾患併存への臨床アプローチは、まだ確立したものないといえます[3][4]。ただ、私自身はその「コツ」といえるようなものはあると考えています。それをいくつか紹介します。

1.患者及び家族と「どこを治療やケアの落とし所にするか?」を探っていくという姿勢をもつことです。疾患毎の診療ガイドラインの推奨の「加算」がベストの治療であるとういう認識からはスッパリと縁を切りましょう。

 

2.まず一歩ひいて全体をつかみましょう。高齢者においては、主症状が特定の疾患の診断と直結する頻度はおよそ40%であるという研究もあります[5]ADLIADL、認知機能、社会サポートなどに関する評価をおこない、生活の様子を具体的にイメージできるようにしましょう。そして僅かであっても改善可能なポイント群があれば、チームでアプローチするのです。

 

3.通院している医療機関代替医療施設をリストアップし、最新状況を把握しましょう。どのくらいの頻度で、何が行われているのかを具体的に把握し、OTC利用もしらべておきたいですね。そして、多くの専門科が関わっている場合、その役割を再評価し、処方などの一本化をめざしましょう。

4.高齢者多疾患併存でキーとなる疾患及び健康問題は、私の経験上、

慢性心不全

慢性閉塞性肺疾患

認知症

筋骨格系の慢性疼痛

孤独と貧困

であると思います。

 これらに対する必要最低限かつ根拠のある投薬にくわえて、非薬物治療(食事や運動、鍼灸等)の積極利用、ソーシャル・サポートの構築などをこころがけましょう。

 

5.80才以上で、双極性障害統合失調症で通院している患者も多いものです。担当精神科医と積極的に情報交換すると事態が整理される場合が多いようです。

 

6.治療負担になりやすい高齢者の骨粗鬆症治療に関して、その適応を慎重に判断しましょう。

 

 総じて高齢者多疾患併存へのアプローチは、患者の価値観、生活ルーチンの持つ意味等「主体としての患者」を診るという医療ジェネラリズムの本質につながるところがあると私は考えています。

 真の主治医意識を持って取り組むとよい結果が得られることが多いと思います。

 

[1]: AOKI, Takuya, et al. Multimorbidity patterns in relation to polypharmacy and dosage frequency: a nationwide, cross-sectional study in a Japanese population. Scientific reports, 2018, 8.1: 3806.

[2]: May C, et al: We need minimally disruptive medicine. BMJ, 339: 485–487. 2009

[3]: Smith, S. M., Soubhi, H., Fortin, M., Hudon, C., & O’Dowd, T. (2012). Managing patients with multimorbidity: systematic review of interventions in primary care and community settings. Bmj, 345, e5205.

[4]: WALLACE, Emma, et al. Managing patients with multimorbidity in primary care. bmj, 2015, 350.jan20 2: h176.

 

[5]: Fried, L. P., Storer, D. J., King, D. E., & Lodder, F. (1991). Diagnosis of illness presentation in the elderly. Journal of the American Geriatrics Society, 39(2), 117-123.

 

注)このエントリーは医学書院「総合診療」2018年8月号に寄稿したものに加筆訂正を加えたものです

The Line

看護研究が家庭医療に寄与するもの

Introduction

 看護研究に医師が日常的に接するという場面はこれまであまりなかったのではないかと思います。看護研究は看護の研究であって、医師の仕事や役割は看護とはちがうところにあるとかんがえられていたこともその原因のひとつでしょう。看護師と医師はそれぞれ独自のプロフェッショナルアイデンティティがあるということは、以前にくらべてかなり明確に医療会では意識されてきていると思います。むろん一部の古い世代では、看護は医師の補助、介助の仕事であるというふうな言説はのこっていて、看護師が行う看護研究の具体的イメージがまったくもてていない現状もあると思います。さらに、医師の卒前医学教育では、専門職連携教育(IPE)が徐々にひろがりつつあって、看護師の職能を理解する機会は増えてきています。例えば、すくなくとも看護の独自業務としての、保助看法における「療養上の世話」に対する認識は医師の間でもかなり理解されてきたといえるでしょう。しかし、看護学あるいは看護研究とは何かといった内容のカリキュラムが医学部で行われているという話は、あまりききません。

 しかしながら、結論からいうと私が専門とするプライマリ・ケア、家庭医療学、医学教育の領域では、看護研究の成果は極めて有用だと考えています。

 

看護研究と家庭医療学

 家庭医療学(Family Medicine)とは、シンプルにいえば「質の高いプライマリ・ケアを地域住民に効果的、効率的かつ公平に提供することに資する学問領域」のことです。そして、プライマリ・ケアに従事する医師の基盤的学問でもあります。ただし、日本においては歴史的にプライマリ・ケアの担い手医師は、専門医である開業医により多く担われてきました。感染症が主たる健康問題だった時代には非常に有効なシステムでした。しかし、慢性疾患から退行性変化へ健康転換がすすむとともに、現代に必要なプライマリ・ケア医をそれとして養成する必要性が認識されるようになり、海外ではスタンダードな存在である家庭医やGP(一般医)が注目され、その基盤となる学問領域としての家庭医療学も認知度が上がってきています。

 さて、上述した家庭医療学の定義の一つ一つの言葉を取り上げてみると「プライマリ・ケア」「質」「地域」「住民」「効果的」「効率的」「公平」といったキーワードが、研究の領域を示すといえるので、狭義の医学研究である「疾患を対象とする生物医学的な研究」にとどまらないものであることが理解できると思います。こうした家庭医療学のパースペクティブStangeらはGeneralist Wheel[1]として俯瞰的に提示しています。プライマリ・ケア担当の総合診療医である家庭医が現場で遭遇し、解決・安定化を求められる領域、具体的対象の例、研究方法を整理すると

1)臨床医 自己への気付き、省察ジャーナリング

2)関係性 対人関係 参与観察

3)患者・家族・地域社会 個々の価値 深いインタビュー

4)正義 社会的価値 政策分析

5)システム 組織 ヘルスサービス研究

6)優先順位 医療の価値 費用効果分析

7)疾患 自然科学的対象 疫学や実験医学

8)情報技能 根拠に基づく医療(EBM) 教育学

9)統合 ヘルスケアと癒し 越境的研究や混合研究

の9つとされ、医学生物学、疫学、医療社会学、人類学、心理学、政策科学など多くの学問領域がクロスオーバーしている領域であることがわかります。こうした領域設定は、あきらかに現代的な看護研究とホモロジーがあり、しかも研究方法論に関して共有できるものもすくなくありません。

 ただし、北米やヨーロッパにおいてさえ、家庭医療学への研究ファンドは必ずしも多くありません。しかし、プライマリ・ケアの重要性は各国の医療保健政策のステイクホルダーにはよく理解されており、近年急速に発展してきている分野といえます。

 

卒後医師研修、医学教育と質的看護研究

 次に、医学教育、特に卒後研修において看護研究の成果を導入した経験を紹介したいと思います。

 臨床の場面において、複雑な(complex)問題に直面した際に若い医師が抱えやすいいくつかの困難性がありますが、その中の一つに「複雑であることをどのように分析・記述し、伝え、共有すればいいのかわからない」ということがあります。

 実際に経験した教育事例ですが、あるレジデント(専攻医)が癌のエンドステージの患者の受け持ち医になりました。丁寧に家族に病状を説明した翌日、患者の家族に呼び止められ「うちのひとは、大丈夫なんでしょうか?」と聞かれたので、ふたたび丁寧に説明したのですが、その次の日も家族に病棟で呼び止められ、説明をしたとのことでした。ベッドサイドの回診のときも家族に「つかまって」しまい長い話をきかされたり、さらに状態安定しているので、家に帰れるうちに帰りましょうと提案すると「家ではとても面倒見れないです」と断られたとのことでした。専攻医は私に「どうも話が通じない、理解の悪い家族」だと思うが、どうしたらいいのでしょうという相談をしたのです。

 そもそも人間は、論理や仮説に基づく行動をしないことがしばしばあり、人間の主観とそれに内在する不合理性に焦点をあてなければうまく説明できない現実が多く存在します。特に生身の人間に向き合う医療現場ではしばしば困難な問題としてそれが立ち現れます。こうしたことに対しては、質的看護研究による様々な対象研究と理論構築が参考になります。複雑困難な事例を前にして、その事例をフレーミングする枠組みや記述するボキャブラリーが「自分自身の人生経験」しかなければ、ただ困惑するだけでしょう。 

 私は、平 [2]による終末期がん患者を看取る家族が様々な緊張状態とどのようにして折り合い、乗り越えているのか?という問いに対する質的研究を専攻医に紹介しました。この研究では家族が折り合うためのストラテジーとして、「状況や自分の行動を受け入れる」「面倒や負担から自分を守る」「可能な添い方を試みる」といったカテゴリーを抽出しています。終末期のケアにおいて、家族が何度も病状の説明を求めたり,「本当に治らないのでしょうか?」「何かよい治療がほかにあるんじゃないでしょうか?」といったことについて若い医師が対応する場合、そうした家族の行動を「病状理解が十分でない」と評価しがちですが、この質的研究によれば家族は状況を受け入れるための「吟味」をしていると理解することができます。また,自宅への退院をすすめる際に「この状態では家にかえれない」「入院をつづけてください」と家族から意見が出た場合「自宅での介護にあまり熱心ではない」などと評価しがちですが、実際には状況に折り合いをつけるために「家族を守る」という戦略を採用していると理解することができます。質的看護研究の中には、医療における複雑で困難な状況を理解するためのタームとモデルを提供しているものがあります。専攻医はこの研究論文を読み、自分の患者やその家族の捉え方が、狭かったことに気づき、この家族への対応を看護師と相談しながら、うまく行うことができるようになりました。

 別の事例を紹介します。超高齢社会である日本において、定期訪問診療はプライマリ・ケアにたずさわる医師にとって非常に重要な仕事となってきています。一人の若いレジデントがある単身生活の高齢者の定期訪問診療を担当していました。「一人暮らしで寂しくないですか?」ときくと、「さびしいときもあるね・・・」というこたえがかえってきて、施設で生活したほうが、他の人もいるし気が紛れていいのではないか」と私に相談したのでした。

 通常若い医師は、家族としては、自分とその周辺の家族くらいしか知らなかったりするので、「正常」にみえる家族構成はかなり狭い場合があり、単身世帯だったり、少し変則的な家族に出会ったりすると、ハッピーにみえなくて、なんとかならないのか!と考えてしまったりします。

 この医師の指導する側としては、「この方のQOLはどうなんだろうね?」と問いかけてみました。このときに、たとえば一定の数の単身生活高齢者を対象にして、なんらかのQOL測定ツール(例えばSF-36)によるサーベイを実施したという研究は、果たして役にたつでしょうか?私の考えでは、むしろ田村[3]によるひとり暮らしの高齢女性のQOLに関してグラウンデッド・セオリーを用いた質的研究論文の方が役にたちます。この研究によると、ひとり暮らしの高齢女性のQOLは「しあわせ型」「心残り型」「あきらめ型」「うらみ・くやみ型」の4パターンに識別され、特に「一人暮らしをどうして選んだのか」という要因が重要で、特に自分で意識的に選んだレイヤーは「しあわせ型」と「心残り型」に集中するという知見が非常に興味深いと思います。論文自体もいきいきと記述されており、すでに発表されてから20年以上が経過していますが、いまでも色あせない印象があります。この論文をこのレジデントに読ませたところ「自分の人に対するみかたの幅の狭さを実感した」「この枠組みを念頭に、患者さんと対話してみたいと思う」とコメントが得られました。

 この教育事例にように、優れた質的看護研究はそれを読むこと自体が医師に対してきわめて教育的であるということがわかります。

 対象の理解と説明、すなわち意味(meaning)の探求をめざす質的研究は、本来的には処方的研究、つまり「こういう場面ではこうしなさい」という推奨をめざすものではありません。しかし、質的看護研究との対話によって、自分自身の認知バイアスに気づき、別の視点から患者や家族に向き合えるようになるという意義は、医師にとっては非常に大きいことだと考えています。現在の日本の医学教育においては、こうした側面への教育はほとんどなく、医師個人の資質に還元されてしまうところがあり、へたをすると不適切な「オレ流」の患者さん理解が横行してしまう現状もあります。

 私は、良い質的看護研究は「医療における意味」の探求成果として、すべての医療職が共有すべきと考えています。

ヘルス・システムと看護研究

 次に、私が関心を寄せている看護研究領域として、ヘルス・システムを対象とした研究群があります。ナイチンゲールの活動の歴史をみればわかるように、もともと看護師は一定のポピュレーション(入院患者、地域住民等)に対して看護師集団として取り組むという特徴を持っています。また、病院や施設という医療やケアの環境調整、チームのスムーズな運営、指揮命令系統の最適化などが、看護師という仕事の本質と関連しています。また、この看護が対象とする「一定のポピュレーション」には地域=共同体=コミュニティも含まれます。

 看護師はしばしば個別ケアの場面でその仕事の内容が語られることが多いですが、例えば、ナイチンゲールをモデルにした藤田和日郎の手によるマンガ「ゴースト・アンド・レディー」には、個別ケアと組織マネージメントを有機的に結びつける看護師の様子が活写されています。

 たとえば、RCTなどによりその有効性、安全性が科学的にあきらかになった看護師の介入行為としての「身体抑制はしない」というエビデンスが、それまでのその施設で伝統的におこなわれてきた身体抑制をいかにゼロまでもっていくか、という課題はエビデンスをどう組織文化にしていくことができるかという研究分野でもあります。医師の場合、エビデンスに基づく医療を実践するかどうかは、あくまでその医師個人の意識の問題になっていることが多いのです。しかし、看護は組織で動きますので、どうしたらそのエビデンスを組織に実装できるのかというまったくちがった動きをします。こうした、Evidence based practice implementationEBP実装)をむしろ医師が学ぶべき時代になっていると思います。例えば、アイオワ大学の看護学部が提案している、EBPの実装プログラムであるアイオワモデル[4]はとても洗練されており、すべての医療者が一読したい内容をもっています。

 病院における医療の質の担保をどうするのか、そして安全性をどう確保するのかついては、組織変革が重要で

 さて、2006年に米国のThe National Institute of Nursing Researchが発表した、インパクトの大きい看護研究10[5]をみてみると、以下のようなテーマのヘルスシステム変革に関連した研究が多く取り上げられています。

*不十分な看護師の配置が患者のリスクを増大させる

*若者が健康的な運動食事習慣を確立することを看護師が援助できる

*看護師を中心とした多職種チームの介入により、都市部の黒人の高血圧を改善させることができる

*若いマイノリティの女性のHIVのリスクを減らすために看護師が介入できる

*高齢のヒスパニックの関節炎のセルフマネージメントを改善させる看護師による地域基盤型プログラムの効果

*ケアの場がかわることを看護師が援助することで、退院する高齢患者のアウトカムが改善する

低所得者層の母子への看護師による家庭訪問が有効である

こうしたリストの論文を読みながら、では自分の地域では、あるいは病院では何が可能かを医師も含めたチームで考え、とりくんでいくことは、とてもワクワクすることです。

まとめ

 看護学自体が極めて広大な領域を対象としており、医師にとってもその専門性によって、関心をもつ看護研究の分野は違うでしょう。たとえば、感染症の専門家なら院内の感染コントロールシステムの構築に関する研究に興味をもつだろうし、心臓血管外科なら、手術室の効率的な運営に関する研究に興味があるだろうと思います。今回の論考では家庭医であり、医療者教育をライフワークとしている私自身が看護研究をどのように利用しているかについて述べました。結局看護研究がめざすところも、家庭医療学がめざすところも、ひとりひとりの患者さんのQOLを改善させること、住民が地域の中で充実した生を生き抜くことができるよう支援することですし、同時に限られたリソースで最大のパフォーマンスを発揮することにあります。実際の医療現場だけでなく、研究においても看護師と医師が「専門職連携」をすすめ、Interprofessional researchをそれぞれの地域で進めていければと思っています。

 

[1]: Stange, K. C. et al. Developing the knowledge base of family practice. Family Medicine 33: 286-297, 2001

[2]: 平典子: 終末期がん患者を看取る家族が活用する折り合い方法の検討. 日本がん看護学会誌 21: 40-47 2007

[3]: 田村やよひ:一人暮らしの女性老人のクオリティ・オブ・ライフ 自己概念とLife Satisfactionを中心として, 看護研究, 25, 249-264, 1992

[4]: Cullen L: Strategies for Nursing Leaders to Promote Evidence-Based Practice, 看護研究 43 : 251-259. 2010

[5]: Changing Practice, Changing Lives: 10 Landmark Nursing Research Studies : National Institute of Nursing Research, U.S. Dept. of Health and Human Services, National Institutes of Health, 2006

 

なお、このエントリーは医学書院「看護研究」2016年12月号 に寄稿した原稿を元に、加筆訂正して作成したものです

 

Vacant house

日本の総合診療が学ぶべきもの

日本の総合診療は諸外国の実践から何を学ぶべきか?

 

 現在議論されている日本における総合診療が、諸外国ではどのような医療形態にあたるのかは実は明確になっていない。Family Medicine(北米、東アジアでの名称)あるはGeneral Practice(欧州、コモンウエルス圏での名称)とされるものなのか、あるいはGeneral Medicine(欧州、コモンウエルス圏での名称)あるいはGeneral Internal Medicine(北米での名称)、Hospital Medicine(米国での名称)を包含するものなのか?
 これまでの日本における総合診療に関する議論の経過とステイクホルダー達の発言をたどる限り、日本の総合診療専門医の医師像とは、

1.診療所(病院も含む)の非選択的外来診療、在宅医療、地域の保健予防活動を担うプライマリ・ケアの専門医(ほぼ家庭医療に一致する)
2.病院において必要に応じた病棟医療、一部救急医療や外来診療を担うPhysician for adult medicine≒ホスピタリスト≒(総合)内科医

 のハイブリッド型と言えるだろう。そして諸外国においてはこの二つの専門医像は異なる領域であり、これまでの世界的な常識では、同じ研修プログラムによって生み出される専門医とは考えられていないと思われる。しかし、日本の文脈でこの二つの医師像が総合診療医というひとつの名称で呼ばれていることの意味を、私は深く探るべきであろうと考えている。
 総合診療自体が、もともと最初に定義されたものではなく、これからの日本の医療においてどのような医師が必要になるのかという論点で、様々なレイヤーで行われてきた放射的な議論から「帰納的」に生み出された日本独自のコンセプトであるという認識が必要である。
 

 日本の医療あるいはヘルスケアシステムの今後を構想する上では、
1.少子高齢化と人口減少
2.経済的低成長の持続と国家財政の逼迫
3.疾病構造の変化と国民の医療に対するニーズの変化・多様化
 を基調とした上で、医療の「質」「提供の妥当性」「費用対効果」「公平性」をバランス良く保ち[1]、地域ごとに医療・介護・福祉の提供体制の最適解を追求する「地域包括ケア」を構築する必要がある。そのためには、英国など欧州に代表されるようなプライマリ・ケアを中心とした医療システムの再構築が、日本においても必要であろう。

 また地域基盤型ケアにおける統合(水平統合)と施設間連携における統合(垂直統合)が地域包括ケアの本質であるといえる。そして、水平統合は専門職連携がキーであり、垂直統合においては、医療における価値を共有した(規範的統合)連携のキーとなる専門職がそれぞれの施設に存在する必要がある。
 日本における総合診療医とは、こうしたプライマリ・ケアを中心としたヘルスケアシステム、そして地域包括ケアが機能することに資する専門医であるといえるのではないだろうか。つまり、施設のコンテキストに次第でその業務の内容を変化させ、必要な知識や技術を伸長させ、ある時期は診療所で、またある時期は病院病棟でも機能できるような医師のことといえるだろう。

 こうした医師像は、米国で家庭医が病院病棟を担っている地域にそのホモロジーをみることができるが、殆どの国では病院とプライマリ・ケアにおける役割が完全に分離しているため、直接日本が参考にできる事例は少ないと思われる。
 しかし、むしろ様々な国における家庭医療やホスピタリスト医療の構成要素をハックし、日本にビルトインすることは可能である。まずはトライしてみる、そしてきちんと評価し、フィードバックするというような試みは緊急的にも必要である。前例主義が主流の日本の医療政策立案環境において、トライ&エラー&フィードバックといったやり方は根付いたものではないが、医療システムの再構築が喫緊の課題であるがゆえに、今こそそれをやるべきではないだろうか。そこで、


1.プライマリ・ケア中心のヘルスケアシステムにおける登録制導入の重要性
2.病院医療における総合診療部門の必要性
3.総合診療医を量的質的に確保するための医学部卒前卒後教育のカリキュラム
4.各科専門医から総合診療医へのコンバートを可能とするための条件整備

 について、各国の状況から急ぎ輸入すべきものはなんだろうかと考えてみたい。

1.登録制を導入している代表的な国は英国であり, そのプライマリ・ケアシステムを参照して,様々なEU諸国が導入してきていることは周知の事実である。近年登録制を導入した先進国の成功例としてはノルウエー があげられるだろう。

 そして、すくなくともフリーアクセス自体の国民の健康へのインパクトや費用対効果へのポジティブな影響は実証されていないと思われる。おそらく日本におけるフリーアクセス「主義」は現時点ではイデオロギーでしかない。

 特に注目したいのはエストニアの試みである。1991年の独立以降,eHealth戦略のヴィジョンのもと登録制にもとづくプライマリケアの構築とエビデンスに基づく医療政策立案実行を掲げている。
 今後の日本においては,私の考えでは、逼塞状況にあるマイナンバー制度の活用と,日本の実情を加味した一定の登録制を急ぎ導入する必要があるのではないだろうか。また,この制度はかかりつけ医の診療報酬上の重視というような,患者負担を増加させる方向ではなく,むしろ登録制に乗る患者の自己負担を軽減する方向ですすめるべきであろう。


2.地域包括ケア時代における病院医療では,地域との連携,垂直統合がキーであり,規範的統合の要となる病院部門が必要である。その病院部門は総合診療部門である。この病院における総合診療診療の担い手が病院総合医と呼ばれることが多い。しかし、このモデルとして参照できる国は比較的少ない。おそらくもっとも近い構造を持つものが米国におけるホスピタリストである。ホスピタリストの主たる役割は、外来診療を担うプライマリ・ケア医(家庭医)から患者を引き継いで入院診療を行い、治療終了後は再びプライマリ・ケア医に患者を戻すことであり、病院における医療のリーダーとされていて,基本的にジェネラリストである。ほぼ成人患者を対象とするが、病棟さえも、守備範囲である限り、年齢性別、疾患を問わない事例も少なくない(成人の入院と同時に、小児の軽い肺炎や、妊婦の妊娠悪阻、出産直後の健康な母子などの入院事例を並行で診療することがある)。長くアテンディング制の伝統のある米国において,病院医療に特化した専門職は当初の予想をこえて広がってきている。

 日本のコンテキストにおいては,おそらく米国型のホスピタリスト制度の参照は部分的であろう。が,病院医師の働き方改革として「交代制」「チーム制」をとるホスピタリストの働き方は注目すべきである。また,日本の病院の医師は,プライマリ・ケア外来や救急外来,さらには在宅診療までやっていることもあり,その仕事の内容は実質的に総合診療に近いところがある。おそらく日本の総合診療は診療所から病院病棟勤務まで仕事内容にグラデーションと多様性があるといってよい。

 米国の家庭医療部門はかなりの高機能の病棟部門を持っている場合があるが,これはその部門とつながっている地域の家庭医が診ている患者のための病棟である。つまり,地域の不特定多数に開かれた病棟ではない。不特定多数に開かれているのは救急部門と一般内科病棟である。この違いは地域包括ケア時代における日本の病棟医療を考える時に極めて示唆的である。たとえば地域包括ケア病棟を担当する医師は総合診療医がベストであるといえるのではないだろうか。なお。米国のホスピタリストとして仕事をする医師の出身レジデンシーは内科及び家庭医療科であることにも注目したい。

3.総合診療医のキャリアを選ぶ医師をどう確保するかということについては,各国が苦闘している状況がある。しかし,一定のコンセンサスは出ており,オーストラリアやカナダの取り組みに注目したい。答えはシンプルであり,医学教育の場を地域に広げること,地域での医学教育に取り組む医師を確保することである。
 米国が1960年台後半に家庭医療の専門医制度を構築する際に,大学での家庭医療部門を同時に設置したが,その際にリーダーとして採用した教授陣は地域の先鋭的な総合診療医だったことを思い出すべきである。既存アカデミーの価値観の中からは,あたらしいカテゴリーのリーダーは生まれないという視点からの施策である。当時の米国においては家庭医療は明らかにイノベーションだったからである。

 日本の総合診療の発展が当初期待されたほどには生じなかった 主たる理由はここにあるのではないだろうか。既存の価値観を持つ 教員のよこすべり人事ではイノベーションがおこるはずがないからである。今からでもおそくないので,真の総合診療のリーダーをテニュアとして大学が採用し,そして大学病院の経営への貢献でエフォートを評価しないことで,日本における大学総合診療部門の再興に取り組むべきである。

4.診療各科医を総合診療医にコンバートする方略としてもっとも注目すべき国の一つは,またしてもエストニアである。1991年(旧ソ連から独立)よりプライマリヘルスケアに注力すでにプライマリケア医として働いている地域の医師、小児科医、婦人科医、救急医はパートタイムで再訓練を受けられるしくみになっている。つまり、家庭医の研修は当初オーダーメイドの再教育プログラムとして開始された。3年間におよび、最終試験を経て終了となるこのプログラムは1991年から2004年まで行われたとのことである。また、タイでは5年以上の地域医療での勤務歴があれば総合診療専門医へのアクセスの門戸をひらいている。
 シンガポールでは一度病院等で勤務した医師が家庭医を目指す場合は2つのルートがある。一つは各FM Residency programに申し込んで3年間の研修を受けるルート。もう一つが既存の勤務先で勤務を続けながら家庭医になるためのトレーニングを受けるGDFMのコースである。医師の中には現在の勤務を続けながらも家庭医療の専門医の資格を取りたいと考えている医師、家庭の事情によりResidency Programには進めない医師もいるため、そのような医師に対して2年間のパートタイムの教育を提供することで家庭医療専門医を増やしていく取り組みを行っている。これは日本が見習いたい制度である。
 いずれにしても,さまざまなルートで総合診療医へのキャリアチェンジが可能になる仕組みを至急構築すべきである。

 ただし、不幸にも日本においては総合診療専門医制度はガバナンスと理念に欠ける専門医機構がすべてをルールするといういささか前近代的なスタイルでの運営が始まっており、現場のエキスパートジェネラリストがその運営に関与できない現状がある。この状況もハックして変化をもたらすことも必要であろう。

 

[1]: Boelen, C. Prospects for change in medical education in the twenty-first century. Academic Medicine, 1995; 70(7); 21-8.

Lunch

 

看護理論を多職種カンファレンスに活かす

 昨年はケアマネージメントに関する検討会に医師として出席する機会が多くありました。およそ20回にわたるその検討会には、主として首都圏のケアマネージャー達が担当しているとびきりの困難事例が持ち込まれます。そして、各地から集まったケースワーカー理学療法士作業療法士、看護師、行政担当者、薬剤師、医師などの各種専門職との対話や討論を通じて、ケアマネージメントの方向性を見出していこうという実験的検討会でした。ここでいうとびきりの困難事例というのはたとえば、以下のようなケースです。

 ある神経難病をかかえた初老の一人暮らしの女性で、援助者に対してひたすら罵倒しつづけ、担当するケアマネージャーが次々とメンタル不調に陥ってしまうケース。

 幼いころから、住み込み店員をやっていた初老の男性が、認知症の進行のためか店での失禁をきっかけに職を失い、また赤ん坊のころから面倒をみていたその店の娘に、職をうしなっても金をせびられ、本人の住むアパートの部屋はガラクタがうず高く積まれ、「かまくら」のようになっているようなケース。

 この検討会においては、助言者として参加している専門職の方たちが、そのケースの当事者ではないというところが、非常に興味深く議論が展開するキーだと思いました。当事者ではないことで、それぞれの専門職から、俯瞰的なコメントが発せられ、「はっ」とすることも多かったのです。そして、そうしたコメントを通じてそれぞれの職種の専門性についての気づきを多く得ることができたのです。
 ちなみに、こうしたケースにおいては、医師による医学的アドバイスといったものはあまり役にたたないのではないかと思われるかもしれませんが、実はそうでもありません。たとえば診断名というラベリングは事態に一定の枠組みをあたえるという点で有効な場合があります。たとえば精神遅滞学習障害、薬剤の副作用などがケアマネージメントの方向性に大きな影響を与えうる場合があります。
 ところで、こうした事例で判断や援助実践を構築していく際に直面するのは、きわめて哲学的な命題であることが多いと思いました。それは「健康とはなにか?」「人間は何のために生きるのか?」「死とはなにか?」「幸せってなんのこと?」といった、オトナになったらそういうことを面とむかって討議するのは気恥ずかしくなるテーマ群です。

 ところで、この検討会でこうした問題群につながるシャープなコメントを連発するベテラン訪問看護師の方に出会いました。彼女は日常的に看護理論を参照しているとのことで、その発言に非常に啓発されたのでした。
 看護学には,看護実践の理論的基盤を構築する分野があり,その結実が様々な看護理論として発表されています。看護理論には比較的個別の看護実践をとりあつかう中理論から,コスモロジーも射程にいれている大理論まで様々な立場のものがあって,これが決定版といったものがあるわけではありません。しかし,メタパラダイム(ある学問を体系化するための概念的枠組みのこと)の視点から看護学をみてみると,看護学におけるメタパラダイムとは、 4つの概念すなわち「人間」「環境」「健康」「看護」か ら成 り立っていますが、これらを明らかにしていこうという試みが看護理論構築といえると思います。
 たとえばヴァージニア・ヘンダーソンの看護理論においては,人間とは以下の14の基本的ニードを持ち、必要なだけの体力、意志力、知識を持てば自立していける存在である,という定義がされていますが、人間の構成要因を明らかにしようという試みにも見えます。

**14の基本的ニード**

  • 正常に呼吸する

  • 適切に飲食する

  • 身体の老廃物を排泄する

  • 移動する、好ましい肢位を保持する

  • 眠る、休息する

  • 適当な衣類を選び、着たり脱いだりする

  • 衣類の調節と環境の調整により、体温を正常範囲に保持する

  • 身体を清潔に保ち、身だしなみを整え、皮膚を保護する

  • 環境の危険因子を避け、また、他者を傷害しない
・他者とのコミュニケーションを持ち、情動、ニード、恐怖、意見などを表出する

  • 自分の信仰に従って礼拝する
・達成感のあるような形で仕事をする

  • 遊び、あるいはさまざまな種類のレクリエーションに参加する

  • 「正常」発達および健康を導くような学習をし、発見をし、あるいは好奇心を満足させる

 実は,こうした枠組みは,先にのべた困難事例の検討にとってきわめて有用な分析の方向性を提供してくれると思いました。しかもこれは援助にかかわる職種に共通の規範的枠組みになりうるとも思いました。

 例えば、わずかに家庭医療学を除いて,一般的に医学はこうした議論は苦手です。医師は様々なバリエーションの生物機械論と,個々の医師の由来不明のオレ流価値観にもとづいて人間をとらえていることが多いように思います。
 看護理論には様々なバリエーションがありますし、日本発の「科学的看護論」といった「大理論」も存在しています。ただ、いずれにしても,看護学はすべての医療職が参照すべき学問分野であり,看護理論から多くを学ぶことができることを強調しておきたいと思います。

 

参考文献:ヴァージニア ヘンダーソン (著) 湯槇 ます (翻訳)「看護の基本となるもの(再新装版)」 日本看護協会出版会

a family

 

地域包括ケア時代の看護の役割

 今年実施したイベントで特に印象深かったのは,吉江悟さんをゲストに迎えて,地域包括ケア時代の看護の役割をテーマにして参加者と一緒に考えたNursing Cafeでした。 

 その際のディスカッションの記録をSoundCloudPodcastにも配信されています)にアップしましたので,このブログにものせておきます。

soundcloud.com

 

総合診療のエキスパートとしての「病院総合医と家庭医」の連携

 かつての診療所プライマリ・ケア医(多くは開業医だった)と病院医師の関係は,出身医局といういわば相撲業界的な部屋制度に依存していたといえるかもしれない。だから,出身大学や出身病院と連携可能な場所でプラクティスをおこなう医者が多かったといえるだろう。しかも,その医局「部屋」の人間的なつながりは,異常なほど活発で,医学部だけで作っている独自の閉鎖的な部活動の上下関係がそれを下支えしていた。
 例えば僕などは医学部のオリエンテーションの初日に,医学生は「部活動,特に運動部に参加しないと将来医者として生きていけない」というような,脅迫に近い説明を大学教員から受け,驚愕したものである。
 しかし,時は流れ,もはやかつての医学部で養われてきた独特な人間関係性あるいは,特殊なテーマ・コミュニティは消滅しつつあり,それを基盤に成り立っていた医療連携もその性質を変えた。

 また,地域包括ケアの時代になり,医者だけの閉じた空間が多職種連携というパワーに融解されつつあると同時に,診療所-病院連携も別次元の発想が必要になってきた。
 ここで紹介したいのは,総合診療医学,あるいはGeneralist Medicineを基盤にした医師像の二つの派生形態である「家庭医と病院総合医」間連携の今日的な意義である。今日的というのは地域包括ケアの時代におけるということである。

1.診断未確定だが、入院が必要とおもわれる患者についての連携
 在宅療養中の患者が発熱して、バイタルサインに問題がある。何らかの病態による「菌血症」ではないか。あるいは、状況からは「誤嚥性肺炎」も「尿路感染症」もありうるといった場合に、入院を相談する電話を病院にかけたとしよう。
「わかりました。何科のドクターにおつなぎしましょうか?」
「え~と、内科で……」
「どの内科でしょう?」
といった電話口でのやりとりは日常茶飯事であったが、強力な総合診療科と連携するようになって話が早くなった。なぜなら、このような患者の問題が地域で生じやすいことを、病院総合医はよく知っているからである。

2.診断はついているが、経過が非定型的な場合
 たとえば、「市中肺炎」と診断して外来で治療を開始したものの発熱が長引き、このまま治療継続したほうがいいのか、あるいは入院させて経過観察したほうがいいのか、判断が難しい場合である。病院に入院の相談で電話をかけると、
「すいません。肺炎球菌性肺炎で、外来で抗菌薬を使用して経過みてたんですけど、熱が下がらず本人が不安がっているもので、入院をお願いしたいんですけど」
「ああ、菌も確定しているし、抗菌薬を◯◯に変更して、もう少し経過みてください」
「えっと、本人が不安がっているんですけど」
「変更して数日経過みてダメなら、もう一度電話ください」
といったやりとりもよくあった。しかし、強力な総合診療科があると話が早い。なぜなら、入院の理由は医学的な適応だけでないことと、診療所でこういう患者を抱えることの困難性をよく知っているからである。

 あげれば枚挙にいとまがないが、家庭医と病院総合医有機的な連携が可能なのは、トレーニング過程で共通項が多く、価値観や患者観が共有できていることに影響されており、総合診療がインクルーシブ(inclusive:とりあえず診ますということ)な専門科であることについての「規範的統合」ができるていることに基づいている。

 ちなみに,目の前の事例が自分の仕事かどうかを判断することからはじめるタイプの診療をエクスクルーシブ(exclusive)と僕は呼んでいる。インクルーシブかエクスクルーシブかは医者の仕事のスタイルを大きな2つのベクトルであると考えている。「インクルーシブ」な「専門科」といってしまうと,2つの語彙同士が矛盾するするのであるが,僕の考えでは,インクルーシブな専門医はスペシャリストではなくて,エキスパートと呼んだほうがよりニュアンスが伝わるかもしれない。つまり,総合診療のエキスパートが総合診療「専門医」の意味するところだと思う。

 ところで,家庭医は、病院総合医にお願いするばかりではない。たとえば1.2.のケースでは、診断未確定で入院依頼するにしても、血液培養や喀痰培養を実施しておくことは入院医療のサポートにつながる。むろん、不必要な入院を防ぐのは、家庭医の役割である。そして、病院での治療途中でやむなく退院し「在宅医療」に移行する場合、病院総合医は家庭医のチームにその後を安心して委ねることができるだろう。

 「家庭医」と「病院総合医」が“同じトレーニングプロセス”を共有していることが、地域包括ケア時代の真の病診連携につながるのである。

 

注:このエントリーは医学書院「総合診療」2017年11月号(Vol.27 No.11)に寄稿した Editorialに加筆訂正を加えたものである。

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