米国の家庭医療専門医制度から学ぶべきものを再考察

 

 

 はじめに

 プライマリ・ケアに携わる医師のトレーニングは、常にその国や地域のヘルスケアシステムから要請される医師像に依拠するものである。しかし、例えば心臓外科医ならば、心臓外科医にもとめられるコンピテンシーはヘルスケアシステムに依存することなく設定されるだろう。なぜなら、心臓外科医は、どの地域、どの国でも行う仕事は基本的に同じだからである。プライマリ・ケアを専門とする医師は、そういう点でSystem-oriented specialtyであるといえるだろう。従って、米国のプライマリ・ケア専門医の一つである家庭医療専門医研修プログラム(以下レジデンシーと略す)のアウトカムやカリキュラム、そしてトレーニングシステムをそのまま日本に適応することは不可能である。しかし、米国のレジデンシーには、家庭医療が専門科として認められるようになってから、時代の変化に応じて、家庭医が果たすべき役割を検討し、質の向上に取り組み、様々な教育上のイノベーションを展開してきた歴史がある。

 

米国家庭医療の歴史

 Taylor[1]は米国家庭医療の歴史を3つの時代区分があるとして、その時代の背景、家庭医療の状況、その時代に必要だったリーダーシップのタイプについて論述している。

The early years 1960年代~70年代後半 黎明時代 ゲリラ、戦士型

The growth years 1970年代から90年代 成長時代 マネージャー型

The emerging years 1990年代後半から現在まで あたらしい時代 ファシリテータ型

 米国には、過度の専門分化により身近に質のよいかかりつけ医が失われているという市民団体の問題提起を受けて、国家として家庭医療の専門医を発足させた歴史がある。

 世界的にみても、医学界内部からジェネラリストの必要性を認識し、その教育や研究を切り出して部門として独立させたという歴史はないといってよい。英国のNHSにおけるGPの役割は政策から生み出されたものである。2015年現在、日本における総合診療の専門性の確立に関しては、市民レベルと政策レベル双方から期待されて進んでいる事は、これまでの各国の経験と相似であるといえるだろう。

 さて、米国では1960年台に入って、公民権運動、女性解放運動、ベトナム反戦運動などに象徴される時代背景をもとに、市民運動として家庭医療の確立が求められるようになったことは前述したとおりである。家庭医療は当時の医学エスタブリッシュメントに対するいわばカウンターカルチャーであり、その推進者はファウンダーらしい独特の個性とある種の野蛮なリーダーシップを兼ね備えていた。

 その後、多くの医学生がレジデンシーに参入するようになり、急速に家庭医療の展開規模が大きくなり、診療、教育、研究いずれも大きな展開がもとめられる状況になり、有能なマネージャーがリーダーとして必要とされた。その後米国の医療環境が変化するにつれ、家庭医療の道をえらぶ医学生が減少するようになったが、様々な交渉や変化に適応し、連携やイノベーションを生み出すことが求められるようになり、組織ファシリテータとしての役割がリーダーに求められるようになっている。

 

米国家庭医療の動きから何を学ぶか

 外からみると米国の家庭医療には盤石の基盤があるようにみえるが、必ずしもそうではない。英国のようにヘルスケアシステム(National health service)上、GP(家庭医)の役割が明確に位置づけられているがゆえに、存立基盤に関して根本的な問い直しを必要としない国と違って、ある意味で米国の家庭医療は存在論的不安につねに直面しているといってよいだろう。常に自らの現状を見つめなおし、課題を設定し、改革を行い、評価することを継続し続けてきた。その改革の取り組みの経験から、日本がプライマリ・ケアの再編を構想するために学ぶことは極めて多い。

 では、日本のプライマリ・ケアは米国家庭医療の試みからどんなを学ぶことができるだろうか。ここでは、2000年代前半よりに米国家庭医療学会が一貫して重視し、取り組んでいる患者中心のメディカル・ホーム(Patient centered medical home:PCMH)のプロジェクトを紹介する。次に、PCMHに適した家庭医療専門医を養成するためには、従来のレジデンシープログラムの改革が必要であるという認識から、イノベーションをとりいれたレジデンシープログラムをサポートし、その成果を測定するプロジェクトであるPreparing the Personal Physician for Practice :P4について解説する。さらに、家庭医資格の維持と生涯教育を連動させようとする資格更新制度を紹介する。

 ヘルスケアを取り巻く様々な環境の変化に対して米国の家庭医療界がどのように対応し、未来を切り拓こうとする試みである。これらが超高齢社会など激変する日本のヘルスケア環境において総合診療の果たすべき役割やそのための教育についてよい示唆を得られるだろう。

 

患者中心のメディカルホーム:PCMH

2000年に入って、米国のヘルスケア改革のプライオリティに関して議論がなされ、以下の問題が指摘されている[2]

  • ヘルスケア・システムの質が国際的にみて低い(当時WHOの評価では191カ国中37位)
  • 医療の効率が悪い。多くの患者が必要な検査を受けていない、また逆に不必要な検査や手技も多い
  • 医療費が高騰している
  • 医療へのアクセスが悪い。無保険者の問題だけでなく、保険があっても医療にアクセスするためのバリアが様々存在する。
  • ICTも含めてオートメーション化のスピードが遅い

 こうした問題群の解決のためには、プライマリ・ケア基盤型のヘルスケアシステムの構築が必要であると米国家庭医療学会は提案し、イノベーティブなソリューションとしてPCMHが定期された[3]

 PCMHの起源は、様々な医療機関に分散された小児患者の診療情報を一冊のカルテに集約するという、1976年に米国小児科学会の取り組みにある。そして、特別な医療ニーズのある小児のケアが様々な施設に分断されていた状況を改善させるために、医療保健上の「我が家:ホーム」に情報をまとめ、よく組織化されたケアを提供できるようにしようという運動をメディカル・ホームと呼ぶようになった。2002年にメディカル・ホームのコンセプトがより具体的な診療構造に拡張された[4]。2007年米国小児科学会に加えて、米国家庭医療学会、米国整骨医学会、米国内科学会が共同で、あたらしいレベルのプライマリ・ケアを記述するための表1のようなメディカル・ホームの原則(構成要素)を発表し[5]、患者中心のメディカル・ホーム:PCMHと呼ぶようになった。

表1 メディカル・ホームの原則

*かかりつけ医がいること

*医師が責任をもつ専門職連携実践

*全人志向がキーとなる包括ケア

*複雑なヘルスケアシステムの構成要素のコーディネーション

* 医療の質改善と安全性の意識的追求

*PCMHの価値をよく評価した従来と違う支払い方式

 

 米国においては、こうしたPCMHを普及し、すべての国民が自らのPCMHを持つことによって、より良い健康の実現、より良いケアの提供、より少ないコストの3つの目標を達成することができるのではないかと期待された。また、PCMHの普及はプライマリ・ケアを提供する施設の組織化、労働環境、労働満足度が改善も期待されていたようである。このプロジェクトは現在の進行中であるが、その成果も徐々に明らかになりつつある。

 

教育のイノベーションP4

 さらに注目したいのは、PCMHを自らのもっとも中心的なプロジェクトと位置づけた米国家庭医療学会は、家庭医療専門研修プログラム(レジデンシー)がPCMHに必要なかかりつけ医(Personal physician)を養成することをアウトカムとして、さまざまな教育的イノベーションを採用した14のレジデンシーを追跡調査し、その成果を評価するプロジェクトを2007年から開始した。これは、Preparing the personal physician for practice:P4と呼ばれる[6]

 従来の米国の家庭医療レジデンシーは、3年間で各科ローテーションをサイクリックに行うということが基本構造であった。特に各科の経験の積み上げによりジェネラリストを構築することがジェネラリストの教育法として想定されていたが、それが時代に合わなくなってきたという反省もあった。

 従来の米国家庭医療レジデンシーの構造は以下の要素が必須である。

  • 基本的に3年間
  • 3年間と通じて実施する家庭医療センターにおける継続外来
  • ブロックローテーションでの専門科研修(数週~2ヶ月)
  • 一般内科、家庭医療科病棟、小児科、救急科、外科、整形外科・スポーツ医学、産婦人科
  • その他施設の特徴を活かしたローテーション

 次にP4として採用された14のプログラムのイノベーションのうちいくつかを紹介する(表2)。

 

表2 P4に参加した家庭医療レジデンシー-の改革ポイント

 レジデンシー名

       イノベーションのポイント

 Lehigh Valley

 従来のような大型の(診察室が数十あるような)家庭医療センターではなく、コミュニティで活発に医療活動を行っている小規模の診療所で、レジデントに継続診療の経験を保証する

 Tufts University

 医学情報の取り扱いや情報を効果的に組織化するトレーニング(EBMレーニング等)を縦断的かつアウトカム基盤型カリキュラム

 Middlesex Hospital  

 レジデンシー期間を4年として、予防医療と慢性疾患マネージメントに重点を置いたカリキュラム

 Baylor University

 レジデンシー期間を4年として、MPH(公衆衛生学修士)の同時取得を可能とし、国際保健あるいは入院医療と参加ケアを重視したカリキュラム

 West Virginia University Rural

 レジデント1年目を医学部4年でスタートさせる、へき地家庭医養成プログラム。慢性疾患マネージメントの縦断的カリキュラムを導入

 Christiana Care

 外来診療においてレジデントが指導医(メンター)とチーム組んで、重点領域を研修するカリキュラム

 University of  Rochester

 「理想的マイクロプラクティス(極小規模診療所)」を家庭医療センター内に設置する。指導医とレジデントがそこにおいて、重要な領域に関するあたらしい診療モデルを実践する

 Cedar Rapids

 レジデント2年目、3年目はローテーション方式をやめて、より継続ケアの経験を増やす

 Loma Linda University

 レジデンシー期間を4年とし、MPHコースと統合しつつ、医療に恵まれない人たちへのケアの経験を重視する

 Hendersonville  

 大型家庭医療センターからへき地の家庭医療診療所のネットワークに主たるトレーニングの場を移行

 

 P4における各種教育イノベーションは以下のように整理できると思われる。

  • 細切れでない縦断的なカリキュラム構築
  • プログラムの期間を従来の3年から4年に延長
  • 臨床能力の評価において学習ポートフォリオを活用
  • チーム基盤型のケアとその中でのトレーニング(専門職連携実践)
  • PCMHの原理に基づく診療所の再構築
  • 慢性疾患マネージメントの重視
  • 地域の小規模診療所をトレーニングの場として採用
  • 地域ケア、あるいは特定の人口集団へのケアを重視
  • 小グループ学習の導入
  • 入院医療のローテーションを減らし、診療所でのトレーニングの時間を増やす

 

 実は、これらは米国家庭医療レジデンシーの教育上の問題点として指摘されていた以下の項目に対する改善策ともいえるものである。すなわち、

  • カンファレンスでの教育は受身型のことが多く、成人教育の原則が適用されていないことが多い
  • 診療所運営や経営へのかかわりが少ない
  • プライマリ・ケアの専門トレーニングであるにもかかわらず、治療医学(キュア)が過度に重視されている。
  • Solo Practice或いはLone Physician[7](孤高の医師像)を想定したトレーニングが中心で、チームや専門職連携(Interprofessional work)の中の医師という役割を自覺することが少ない

 P4の視点は、日本において総合診療専門医プログラムを地域の実情にあわせて構築する際に示唆に富むと思われる。

 

家庭医療専門医資格の維持と生涯教育システム

 専門医資格の再認定は、その専門医制度の確立当初から、米国家庭医療学会が重視してきた制度である。従来は7年おきに書類提出とMCQの合格で資格更新とされていたが、この方式では、本来の再認定の目的、すなわち継続学習: Continuing Professional Development:CPDにより、医療の質保障を行い地域住民の健康に寄与するというミッションにはなじまず、不評であった。

 現在はCPDのプロセスそのもので再認定しようという方向となっており。以下の4パートの領域について、3年間のモジュールを3回つみあげることで、10年に一度の専門医資格の更新を行う形式となっている[8]

 

Part I: Professionalism

 医師免許を維持するとともに、米国家庭医療学会のプロフェッショナリズム・ガイドラインに従っていること。

Part II: Self-Assessment and Lifelong Learning

 3年間で最低一つのセルフアセスメントモジュールを完了していることと。必要な生涯教育単位を獲得していること。

Part III: Cognitive Expertise

 再認定試験に合格すること

Part IV: Performance in Practice

 3年ごとの少なくとも一つの診療実績に関するモジュールを終了していること

上記の4つのパートは、CPDの本来の構成要素であり、極めて妥当性が高いと思われることと、米国家庭医療学会はこれらのパートの継続学習をサポートするシステムを各種構築している。

 日本においては、超高齢社会を迎えて、プライマリ・ケアを中心としたヘルスケアシステムの実質的な再編が進んでいる。あたらしい世代のためのあたらしい総合診療や家庭医療の専門医制度の確立がそのために貢献しうるが、充分ではない。おそらく従来型の専門医から転向したプライマリ・ケア医のあたらしい生涯教育プログラムの開発も急務である。そのために米国家庭医療の様々な教育的な取り組みから学び、日本における適用を考えていくことも有用であろう。

[1] Taylor RB : The promise of family medicine: history, leadership, and the age of aquarius. The Journal of the American Board of Family Medicine 19(2) : 183-190. 2006

[2] Leatherman S, McCarthy D : Quality of Health Care in the United States: A Chartbook. Commonwealth Fund, New York, 2002.

[3] www.aafp.org/valueoffamilymedicine (2017年6月2日確認)

[4] Medical Home Initiatives for Children With Special Needs Project Advisory Committee, & American Academy of Pediatrics : The medical home. Pediatrics 110 : 184-186, 2002

[5] American Academy of Family Physicians : Joint principles of the patient-centered medical home. Delaware medical journal 80(1): 21, 2008

[6] David, AK. Preparing the personal physician for practice (P4): Residency training in family medicine for the future. JABFM 20:332-341, 2007;

[7] Saba GW, Villela TJ, Chen E, et al : The myth of the lone physician: toward a collaborative alternative. The Annals of Family Medicine 10 : 169-173, 2012

[8] https://www.theabfm.org/MOC/index.aspx (2017年6月2日確認)

https://www.instagram.com/p/BTqce0FAgJx/

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省察的実践家としての家庭医

省察的実践家とは何か

 医師の専門領域の細分化は、患者にきめ細かなサービスを提供できるようになるという利点があるが、複合的・領域横断的な複雑な問題に対応できなくなるというリスクがある。現代において、細分化と患者ニーズの複雑化が同時並行的に進む中、医師のあり方、さらには専門家のあり方そのものが問い直されている。例えば、医療の安全性の問題、QOL重視の医療など現代的な課題を考えるとき、旧来の医療のパラダイム、専門家パラダイムでは対応できない問題に直面しているともいえる。


 さて、専門分野の体系化された標準知識や原理をまず学び、これを現場の問題に「合理的」に「妥当性」をもって適用し、そうした経験を反復していくことで熟達していく専門家像(technical expert:技術的熟達者)が従来の専門家像であった。これは医師に関しても例外ではない。マサチューセッツ工科大学のドナルド・ショーンは、こうした専門家像に対抗した専門家のモデルとして、省察的実践家(reflective practitioner)というモデルを提唱した。
 ショーンの「専門家の知恵」(ゆるみ出版 2001年)によると、「現場で実践する専門家」の本当の専門性とは、現場の実践のなかに存在する「知と省察」それ自体にあるという。実践する専門家は自分のそれまでの知識や技術、能力、価値観を超える問題に直面した時、不安や戸惑いを感じる。この状況を突破するために、それまでの経験を総動員して何か行動を起こし、直面する状況に変化をもたらす。問題をなんとかしのいだ後に、今回直面した状況の変化を評価し、教訓(実践の理論)を導き出す。この繰り返しによって、「状況と対話」し、「行為の中の省察」を通じて、専門家は自ら学び、解決策を身につけ、発達していく。これがショーンのいう専門家モデル=省察的実践家である。

省察的実践家をどう育てるか
 省察的実践家理論は、医学教育において非常に大きな意味をもっている。それは、ショーンは、こうした反省的実践家を育てるためにはどういう教育が必要かを検討しているためであり、この教育モデルは、これまで日本の医学教育では、重要でありながら、軽視されてきた領域に光を当てるものだからである。
ショーンの教育論を筆者らが医学教育に適用したモデルを提示してみよう。

 

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 上の図は筆者らがショーンの省察的実践家の発達モデルを医学教育に応用するためにあえて簡略化したものである。この図のプロセスを説明しよう。

1. 医師は、フォーマルに学んだ知識や技術と、それまで蓄積した経験から得た実践の理論(theory in practice: clinical pearls, コツ、自分の基準などと称される)が統合された「zone of mastery」の領域に基づいて、毎日の業務を行っている。その時点でのzone of masteryで対処できる限り、医師は特にひっかかりなく時を過ごしていく。無意識に仕事がこなせる状態である。
2. しかし、医療現場では予想外のこと「the unexpected」、あるいは驚き「surprise」に出会うことが多い。予想外の病状の変化、予期せぬ患者の怒り、自分が経験したことのない問題への対処、チーム運営の障害など、それまでのzone of masteryでは自然には対処できないようなことに医師はしばしば出会う。
3. さて、予想外だから、あるいは準備不足だからといって、その場から逃げ出したり、問題を放置しておいたりするわけにはいかない。医師は、それまでの経験や知識を総動員し、その問題に対処するためのヒントを見つけようとする。あるいは、テキストを読みなおし、インターネットを通じてあたらしいガイドラインを見つけようとするかもしれない。あるいはより経験のある医師、あるいは関連スタッフにアドバイスやを求めに走るかもしれない。いずれにしても、こうした予期せぬ出来事に対処しているその時に、なんとかその場を切り抜けるためにおこなう一連の振り返りを行為の中の省察(reflection in action)と呼ぶ。
4. ここまでは、仕事をする人なら毎日行っているプロセスであろう。しかし、ショーンは省察的実践家として成長するためには、この段階まででは足りないとしている。省察的実践家として成長する専門家は、この驚きや予想外の事態が終了したあとの振り返りをきちんとやっているという。この事後的な振り返りを「行為に基づく省察」(reflection on action)という。事態が終わった後に「あの事態はなんだったのか」「どういう意味があるのか」というテーマについて、できればチームや同僚で、忌憚なく話し合ってみることが重要なのである。そして、この振り返りから新たな自分なりの実践の理論を導き出し、また自分のプロフェッショナルとしての成長の課題を見出し、学びの次のステップを具体的に設定してみるということが、reflection on actionの目的である。特にこの次のステップの設定は最も重要なものであり、自分自身の課題を認識し言語化するプロセスを近年「行為のための省察」(reflection for action)と呼ぶようになった。
5. 驚きや予想外の事に関するこれら3つの振り返りを行うことで、zone of masteryの領域は増加し、自然に行える仕事のレパートリーが増え、実践する専門家として「ひと回り大きくなった」ということができるのである。そして、近い将来、また新たな驚きとの出会いと学びが生じることになる。

 

省察的実践家としての医師の教育法
 上記のサイクルを繰り返し行っていくことで、省察的実践家としての「現場の専門家」が育つ。このモデルから、医学教育や卒後臨床研修、さらには生涯研修にとって重要な示唆を得ることができる。すなわち、医師の教育においては以下のポイントを押さえておきたい。
1. 日常業務上の「予想外のこと」「驚き」を重視する
(ア) 臨床経験のなかのSignificant events(自分にとって重要に思えた経験、出来事)を抽出する。
(イ) 気になったこと、心配なことに関してこまめにメモをとって蓄積する
2. 行為の中の省察を効果的に行う
(ア) 現場での学習者への時宜を得たフィードバックで振り返りを援助する。
(イ) マイクロスキルなどのフィードバック技法を指導者が学ぶ。
(ウ) インターネットなど高速な情報検索環境をそろえる。
3. 行為に基づく省察行う
(ア) 事後的に構造化された振り返りを行うセッションを恒常化させる。
(イ) 起きてしまった過去の批評のみを行うのではなく、学習者の未来の課題に焦点を当てた「行為のための省察」を行う。

省察的実践家としての家庭医
 この省察的実践家という専門家モデルは、家庭医にとって極めて親和性が高いといえる。それはなぜだろうか。
 家庭医の定義は、特定の個人、家族、地域に対して、継続的にかかわっていく仕事である。「成人高血圧の1例」を治療するというよりは、〇〇さんと長くつきあうというニュアンスがより強いといえる。個別性の領域に入れば入るほど、複雑性、決定不能性の色彩が強くなる。大規模な臨床研究から導き出されたエビデンスガイドラインで示された推奨された治療法でも、具体的に〇〇さんにそのまま適用できるわけではなく、「薬をのむことは自分に負けること」という価値観を○○さんが持っている場合、どういう判断が適切といえるだろうか?
 家庭医の意思決定プロセスに関する質的研究 によると、意思決定に影響を与えるのは、エビデンスだけでなく,以下に列挙するように多くの要因がある。これらの要因に関しては、いわば正解の無い、不確実性に満ちた領域である。技術的熟達者教育のように、なにか特定のコースを受講したり、文献をよんで原則を理解することだけでは、到底対応できない領域ともいえる。プライマリ・ケアの現場が不確実性にみちているという実質はここにある。

家庭医の意思決定要因

  • 医師の要因
  • 以前の臨床経験、自分自身の健康観、医療哲学
  • 患者の要因
  • 患者の解釈モデル、健康信念、背景因子
  • 患者医師関係
  • 患者とよい関係を続けることの重視
  • 言語的・非言語的コミュニケーション
  • 診察中の言葉や態度が意味するものに左右されることがある
  • Evidence-based medicine (EBM
  • 信頼のおける臨床研究
  • 外的要因
  • コストとメディア

 「実践する専門家の意思決定」について教育学者の佐藤学はおよそ以下のように述べている。

 「~である(to be)」という言説に代表される「説明」と「分析」という枠組から、「~すべき(ought to be)」という枠組にジャンプする過程が意思決定であり、これを規範的跳躍(normative leap)と呼び、この規範的跳躍を事後的に分析することが振り返りである。このプロセスで、データ(エビデンス)は解決のための「推奨」に変換され、事実は「価値」に変換される。家庭医の日常診療はこの規範的跳躍に満ちているのである。この跳躍には、「うまくいった側面」「うまくいかなかった側面」があり、また医師自身の感情を伴うプロセスでもある。これらを言語化することで、実践の理論(Theory in practice)を蓄積することができる。

 しかしこの「実践の理論」は高度に文脈依存性なため、他者には伝わりにくいが、不確実性に耐えなければならない家庭医の成長に不可欠なものなのである。

 

驚くことができる家庭医
 もし、医師があらかじめ自分の対応できる領域を設定し、それに合う患者を診ることを自分の仕事と設定するならば、ショーンの言うところの技術的熟達者型の生涯学習をしていけばいいだろう。自身の領域のアップデートを学会参加や、講習会、ジャーナルなどで行い、同じ領域の医師とグループを組み情報交換していけばよい。実はこれがサブスペシャル専門医の生涯学習のやり方である。しかし、家庭医は非選択的な健康問題への対応をその行動原則とする。いいかえれば、何に出くわすかわからない仕事なのである。持ち込まれる問題は、未分化であり、そもそも医学的問題ではないかもしれないし、自分がこれまでまったく経験したことがない問題かもしれない。こうした現場に対応できる専門家像は省察的実践家モデルであろう。
 家庭医療の現場は驚きにみちている。もし、驚くことはあまりないと感じているのなら、それは家庭医療ではないかもしれないと思った方がいいだろう。「驚くことができること」これが家庭医にもとめられる究極の臨床能力であるといえるかもしれない。

https://www.instagram.com/p/BSX3wDUA2C6/

こうし

家庭医をテーマにしたテレビドラマを妄想するw

現実逃避の妄想です・・・


 日曜夜9時の連続ドラマ「家庭医療レジデンシー物語」ってのをもし作るなら・・・

 

 舞台は東京下町の家庭医療教育診療所。3人の家庭医療レジデント(専攻医)が地域の中で様々な思いをもって,ホンモノの家庭医になるべく奮闘する笑いあり,涙ありの医師たちの成長物語です。

 

放送予定(全十三話)

第一話:「これって医者の仕事なの?!」
 2年目レジデントが入院を嫌がる肺炎の一人暮らし高齢男性患者に翻弄されるうちに,男性患者のこれまで語らなかった過去が明らかになる・・・

第二話:「わたし先生がすきになっちゃったの!」
 1年目レジデントが診療所でパニック障害若い女性患者に親身に相談にのるうちに,ある日診察室で「先生のことを考えると眠れないんです。先生が好きになったみたいです・・・」と告白されて・・・

第三話:「家で死のう!」
 3年目レジデントが定期訪問している末期の乳がんの患者の苦悩と家族のかかわりの中で,レジデント自身がかかえる家族内の問題をふりかえることになる・・・

第四話:「あ、僕の先生だ!」
 学校でいじめられているという小学校3年生の喘息のある男の子の担当になった1年目レジデント。自転車で往診している最中にその子が同級生に囲まれているところに出くわして、彼がとった行動が大問題になる・・・


配役を妄想してみました

余貴美子(教育診療所所長、伝説の家庭医といわれている。元麻酔科医)
高橋一生(教育診療所副所長で指導医、米国でレジデンシーを修了して帰国。過去に何かあったらしい)
吉高由里子(4代続く開業医のひとり娘。気位が高い。3年目レジデント。副所長に憧れている。実は両親が不仲であり、家を継ぎたくない)

高畑充希(おっとりしたマイペースの2年目レジデント。医学部同級生の彼氏との別れ話の真っ最中)
神木隆之介(才気あるが、かなり純情な1年目レジデント。非常にモテるが、本人はそのことに無自覚)
カンニング竹山(もとサラリーマンで、苦労して医学部卒業した1年目レジデント。妻子あり。はやく開業したいと思っている。)
薬師丸ひろ子(教育診療所師長、歌がうまい)
市川実日子(教育診療所スタッフナース 博士号取得して地域医療やりたくて就職したが,現実と理想のギャップに悩み有り)
國村隼(教育診療所事務長、経営がきになってしょうがない)
堺雅人(カメオ主演,初代診療所所長。もともと問題医師だった余貴美子演ずる麻酔科医を一人前の家庭医に育てたあと急逝)

 

ちょっとシン・ゴジラ入ってるけど,マジ観たい。だれかつくってくれないかなあ・・・

https://www.instagram.com/p/BOOZJVBjQ__/

しんげんもちアイス

 

 

 

都市部開業医のマイクロプラクティス化

 ご無沙汰しております!今年もよろしくお願いいたします。更新がとどこおってしまっておりますが,今年から雑誌連載をはじめまして,医学書院「総合診療」誌上で,「55才からの家庭医療学」というタイトルです。この数ヶ月そちらに注力していたため,SNSなどをこえてブログエントリーを作るところにパワーがまわりませんでした。

 ことしはもちっと力を抜いたエントリーを気軽につくっていこうとおもっております。時々本格的な調査?によるエントリーもおりまぜていきますので,どうぞよろしくお願いいたします。

 最近東京の診療所,特にビル診では,医師+派遣事務のみで運営しているところがふえているのでは?っていう印象があったんですけど,この印象を裏付けるような実態を聞く機会がありました。看護師なしの診療所です。実際若手で近年開業するDrはそのような運営をしていることが多いようです。これは米国ではマイクロプラクティス,ほぼ医師一人だけっていうところはウルトラマイクロプラクティスって呼ばれるスタイルで,特徴としては,

 

1.プライマリ・ケアではなく特定の専門領域の軽症外来診療に特化している 
2.人件費のオーバーヘッドを極限まで減らす 
3.人事と採用という開業医に最もストレスフルな業務を廃止する 
4.外来数は増えないのと日当点も今後上がらないので,少ない患者件数でも経営的に成立するようにする 
5.事業拡大は考えない 
6.在宅医療はやらない 
7.なるたけ予約制にして,フレキシブルなワークライフバランスを保てるようにする

 等があげられると個人的には思っています。
 

 おそらく,東京,都市部の診療所はマイクロプラクティスの個人事業主としての開業医,と在宅及びプライマリ・ケア指向のグループプラクティスの両極化すると思いますが,後者のグループプラクティスは,中小病院が外来・在宅医療機能として新部門を展開する可能性が大きいと思いますし,各種医療チェーンがプライマリ・ケア型診療所開設にのりだしてくるでしょう,というのがわたくしの予想。場合によっては,いくつかの訪問看護ステーションが共同出資して家庭医療型プライマリ・ケア診療所を設立するってのもありえるかもしれません。さたに,地方都市の場合,自治体立,あるいは大学サテライトとしてのグループプラクティスを構想しているという話もかなりきくようになりました。

 大都市圏の高齢者人口の急増に対しては,上記構造から見ても,マイクロプラクティスはほとんど無力です。事業形態としては個人事業主の開業医にたとえば在宅診療や地域包括ケアの参入してもらうという構想はあまり現実的ではないと思ったりします。

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今年読んだ本の自分的ベスト3を選ぶ

 たまに医療系ではないエントリーも欲しいという貴重なご意見もいただいたので,年間ベスト◯◯的なものものせてみます。ことしは結構専門書以外の本も読みました。特にキンドル(E-inkを使ったも)は自分的には福音です。老眼がすすんで,もう文庫本はそのままでは読めなくなりましたが,Kindle Readerなら活字が大きくできて,しかもそれが単なる拡大ではないので非常に読みやすいです。そして,今愛用しているKindle Voyageが軽くて,読みやすくて,特に縦書きのキンドル本との相性は抜群で,通勤や移動中に本をよむという習慣が復活した1年でした。

 まず,このエントリーでは,マンガを除く今年の書籍自分的ベスト3をあげてみます。

 

第1位 「マチネの終わりに」平野啓一郎

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 純粋恋愛小説だが,自分の年令でも十分読めるし,かなりえぐられるところもあり,新鮮な体験。50歳以上の方におすすめしたい。そもそも小説を読むって体験は,中年以降ガクッと減っているはずなので,読めた自分にびっくり。要約してしまうと,単純なストーリーなんだけど,いまどきの作家ではめずらしい過剰とも言える「描写」が新鮮だし,どの登場人物の目線で読むかで,随分印象がかわります。自分的には孤高の映画監督の父とその娘であるヒロインの和解の場面にヤラれました。皆さんおっしゃるように,ラストの美しさは絶品。急いでよまず,描写をきちんと追ってよむことをおすすめします。

第2位 「悩みどころと逃げどころ」ちきりん,梅原大吾

悩みどころと逃げどころ(小学館新書)

悩みどころと逃げどころ(小学館新書)

 

 ちきりんさんの本は,ほとんど読んでるし,ほぼ論調は把握しているのですが,この対談でうかびあがるのは,むしろナンバーワン・プロゲーマーのウメハラの真っ当さです。彼はあきらかに「義」によって立っているという印象で,印象的なフレーズが多彩にでてきます。自分的に一番好きなかれの発言は「早く行きたいならひとりでいけ,遠くまで行きたいのならみんなでいけ」というアフリカのことわざを引用して,ライバルと一緒に遠くにいくことが自分の大義であるという意味を発言をしているところですが,かなり熱くてしかも思慮深いという人柄が見てとれます。この本は,むしろベテランの職業人に読んでもらいたいですね。

第3位 「魔法の世紀」落合陽一著

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 現代テクノロジーが人間観に根本的な変更=更新をもたらすだろうことが見えるという点で,衝撃の書といえると思います。語り口はていねいで,ですます調で優しいのですが,人間主義っていうか,人間中心主義を徹底的に破壊していきます。とくに人間の知覚の解像度をはるかにこえる測定や映像化によって,おそらく人間がコンピュータの端末になっていくということがSFでなく現実に展開しうるということに相当揺さぶられます。

 

 他にもいろいろおもしろい本にであうことができた1年でした。

 ねがわくば,Kindle本がもっと増えて欲しいです笑

 

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InterprofessionalismとValues Based Care

専門職連携実践が注目されているわけ

 専門職連携実践:Interprofessional work(以下IPW)は日本の医療・介護・福祉の領域において、現在ブームになっているといってよいでしょう。昔からチーム医療は大事だと言われ続けてきているわけですが、改めてIPWが日本の医療で注目されている理由として、以下の2点に注目すべきでしょう。

1.医療の高度化、細分化、分業化が急速に進行すると同時に、医療の安全性と質の保証への要求水準が高くなってきていること。

2.超高齢社会を迎えつつある地域のなかで、身体心理社会倫理的な要因がからみあう複雑で困難な健康問題にチームで取り組む機会が急速に増加してきたこと。
 
 医療はもともと多くの領域の異なる専門職により担われてきましが、従来それぞれの専門職は独自の知識技術構造と教育システムをもち、一定の排他的な世界を構築してききたわけです。しかし、上に述べたような状況下では、従来の専門職のあり方では適切に対応できない場面が多くなってきています。そうした理由として佐伯*1は以下の3つの限界性をあげています。


1.個人で仕事を行うことの限界性:医療技術の複雑化、細分化の中で自分の専門領域のみで治療・ケアを行うことは不可能になってきている

2.専門職種の縦割りで仕事をすることの限界性:専門職間の連携不全が医療事故やケアの質の低下につながることが認識されている

3.患者の問題領域を一つに絞って仕事を行うことの限界性:疾病のみでなく生活する人として患者や家族をとらえケアすることに、医療のパラダイムがシフトしてきている
 

 例えば、医師という職種には「主治医としてすべての責任を負い」「他の専門職種へ権限は移譲せず」「患者の生物医学的側面だけをとりあつかう」といった傾向が従来から強いとされてきました。しかしながらSabaら*2は、そうした伝統的な医師のモデルをLone physician model(孤高の医師モデル)と呼び、それはすでに現代の医療においては神話にすぎないとして、「協働」と「連携」そして「患者中心性」を軸としたあたらしい職業モデルが必要であると主張しています。そして、これは日本においても適用できる視点だと思います。


IPWと価値対立
 以下の2つのケースを読み、どんなタイプの対立や葛藤が生じているか考えてみてください。

ケース1
 誤嚥性肺炎を繰り返す高齢認知症患者が入院している。担当医はさらに抗菌薬治療を続け、胃瘻造設を考えている。家族もそれなりに治療をつづけてほしいといっている。しかし、これまでの入院ケアを担当してきた病棟看護師たちは、比較的コミュニケーションのとれていた状態で患者本人が話していたライフヒストリーをよく知っており、これでいいのか?と疑問を持っている。

 

ケース2
 久しぶりの休暇予定だった若い医師が、その当日の外来担当医師の体調不良で、急遽外来診療をやることになった。急に欠勤となった医師はしばしば「体調が悪い」とのことで診療を穴をあける問題医師であった。イライラする気分を医師はコントロールできないし、次々と予約外の患者がやってくる状況である。「今日は臨時対応だから予約以外はことわってくれ」と看護師に伝えた。窓口で予約外患者が看護師に大声でクレームをいっているのがきこえる。看護師は「先生からそのような指示をもらっているので、申し訳ありません」と答えている。

 

 専門職連携実践にはつねに葛藤と対立がつきものです。さらに言えば、おそらく連携とは対立の自覚化と解決の不断の連続がその本質であるともいえるのではないでしょうか。 
 実際の医療場面では仕事をスムースにすすめるために、職種間あるいはチームメンバー間の対立をそれをまあまあと水にながしたり、棚上げにしたり、隠したりすることがある種の「スキル」として、従来も求められてきたと言えるかもしれません。そうした状況は、医師を頂点とした各種権威勾配があり、またかく職種内にさまざまなヒエラルキーが存在することで可能になっていたと思います。
 

 ところで、チームメンバーのなにが対立するのでしょうか?

 それは価値の対立であるといっていいと思います。

 

 この価値はチームメンバーの個人的な価値観、そしてその背景となる職場価値、社会価値体系に由来するものもあれば、チームメンバーの属する職種における価値体系によるものもあります。そして、チーム医療では個人対プロフェッショナル、個人対個人、プロフェッショナル対プロフェッショナルといった様々な価値対立がキメラ上に存在しているというふうに思います。
 上記のケース1においては、おそらく医療自体の目的に関する医師と看護師のプロフェッショナルとしての価値対立が、対立構造の重要な側面を構成しています。ケース2においては、医師の個人の価値観と看護師や事務職員のプロフェッショナルとしての価値観、権威勾配にもとづくメンバーの内的葛藤が生じているでしょう。

 付け加えれば、これらの事態が、さらなる混乱を招いたり、状況がさらに悪い方向へ向かった場合も考えられますが、事態がそれなりに収拾したあとに、安全な環境で事後的にふりかえることで、チームの連携力の成長に繋がる契機にすることができるはずです。


個人の価値観の多様性
 ところで、チームメンバーの個々の価値観はきわめて多様性に富んでいるという前提に立つ必要があります。
 まず、平均的な日本国民としての価値観(むろん海外出身、あるいは外国籍のメンバーの場合は異なった価値観をもっているでしょう)があるでしょうし、個々のメンバーの生育史、生活史に由来するユニークな価値観もあります。たとえば以下の◯◯にどんな言葉を当てはめるかは、メンバーごとに相当なバリエーションがあるはずです。

- 人間の生きがいとは◯◯である
- 仕事とは◯◯のためにやるものである
- 人が死ぬということは◯◯なことである
- ◯◯は言葉ではつたわらない
- 家族とは◯◯であるべき
- 親の責任は◯◯である
- こどもは親に対して◯◯であるべき
 

 こうした個人の価値観は臨床上の価値判断において、実は大きな影響を与えるものです。そして、それらが、しばしば自分自身のプロフェッショナルの価値観と対立する場合もあります。たとえばある医療従事者が「もし家族メンバーが病気になったなら、なにはなくても駆けつけるべきであり、それは仕事に優先するものではないし、それが本当の家族だろう」という価値観をもっている場合、見舞いにあまりこない患者家族は、「まともな家族ではない」と感じている可能性があります。こうした個人的な価値観に基づく感覚や印象が臨床判断にバイアスをもたらす可能性は十分あることは容易に予測されるでしょう。

 実際には、家族のあり方はきわめて多様性に富んでおり、「正常」のレンジは相当広いと考えるべきです。そして、恵まれた家庭環境で育ってきた若い医療者の家族像の許容範囲はしばしば狭小すぎる傾向があります。


 プロフェッショナルとしての価値観
 次にプロフェッショナリズムについて考えてみたいと思います。

 一般的にすべての医療プロフェッショナルに共通のコアとなる価値は以下に列挙するようなものだと思いますが、実際には個人個人でこれらの捉え方や行動化は相当違うものです。


- まず害をなさないこと
- シンプルをよしとする
- 正直であること
- みんなで協力しあって行動する
- バランスよく行動する


 注意すべきなのは、職種が同じなら共通のプロフェッショナルとしての価値観を共有しているわけではなく、たとえば医師においても個人の価値がプロフェッショナルとしての価値体系にビルトインされていることがおおいものです。たとえば、どうすれば良いケアになるかを看護師と議論している時に、ケアのプロセスを重視する看護師に対して「要はなおればいいんでしょ。なおるようにやればいい。思いへの配慮とかっていう主観的なものでぐだぐだと議論するのは無駄だよ」という医師の発言はプロフェッショナルとしての「価値」対立の露呈なのだが、同時に、この医師のプロフェッショナルとしての価値観の個人へのビルトインの仕方の多様性も明らかにしてしまっています。
 職種ごとに倫理指針が各職能団体*3*4から発表されていますが、職種ごとのプロフェッショナルとしての価値とはこうした倫理綱領より幅広く、言語されていないものもあると思います。 

 たとえば一般的に医師は疾患の治癒(Cure)に価値をおき、看護師は患者のQOLの向上(Care)に価値をおくといわれますが、事態はそう単純ではなく、実際にはCare重視の医師もいるし、Cureを重視するセラピストも多いです。これらの個々のプロフェッショナルとしての価値観は実際の診療活動でプランや行動に具体的にビルトインされますが、それとして自分が意識していることは少ないものです。むしろ、前に述べたようにチーム内に生じる違和感や対立に関するやりとりを通じてそれが露呈することが多いという印象をもっています。そして、そこにこそ、効果的なIPWを促進するためのキーポイントがあるのではないでしょうか。


IPWにおける価値のマネージメントの実際
 さて、質の高いIPWのためには、チーム内コミュニケーションをいまいちど見直すことが重要です。なぜなら、日常的なチーム内のコミュニケーションを円滑におこなえることが、価値対立を見出し、解決するための条件だからです。 
 まず定期的なチームのミーティングの時間を保証することです。この時に、多職種で学習をすることが有用です、成人教育の観点からすると、実際のケースの検討を通じた、多職種による問題基盤型学習の形式をとるとよいと思います。これを通じて、自分以外の職種の専門性に関して、彼らの役割、価値観、問題にかんしてどのようなアプローチをするのか、あるいは問題にたいして、どこまでできるように教育されているのかといったことを知ることができるようになります。たとえば、セラピストがどのような教育課程を経ているのか、管理栄養士教育におけるカウンセリングスキルに関するアウトカムはなにか、そもそも看護学という学問はどのような体系なのか、といったことに答えられる医師はほとんどいないでしょう。しかし、それが重要なのです。逆に医師がオールマイティなスキルをもっているという幻想をいだいている他職種メンバーもいるかもしれないのです。

 これと関連して、個々のチームメンバーが他のチームメンバーに対して何を期待しているのか、その内実について共有することが大切です。たとえばあるメンバーが「ベストを尽くしたい」というときの「ベスト」とはなにか。それは個人によって定義やイメージが違う可能性があります。こうしたお互いへの期待は仕事の引き継ぎをたのむときに問題になることが多いです。情報の手渡しのスキルはつねに向上させる必要がありますが、情報の手渡しのコツは、伝える相手にどのようにして欲しいかを映画のように頭のなかで再現できるような、具体性をもった内容を伝えることです。 
 また、一般的チーム内コミュニケーションの促進をはかるために、一緒に昼食を取るなど。時間を確保して、落ち着いた雰囲気で「仕事以外のこと」について話し合うことにより促進されるでしょう。チームが一緒に昼食をとったり、仕事後に職場内でパーティをしたりすることは有意義です。

 

相互フィードバックの文化
 上述したさまざまな方略のインフラとして、チームメンバー同士のフィードバックの文化を醸成することが必要です。相手にフィードバックするスキルはすべての職種に重要です。
 効果的なフィードバックの一般原則として以下のポイントに留意しておきましょう。


1. 相手の人格ではなく、具体的な行動に対して評価するという姿勢を保つ。これを可能とするのがNo blame cultureである。
2. 推測や噂ではなく、具体的な情報や事実に基づいて行うこと。
3. 相手の失敗や弱点だけでなく、かならずうまくいったところ、強みについても同時に評価すること。
4. 相手がこのチームにどのように貢献しているかをチームメンバーで共有すること。
5. 次回はどのようにすればうまくいくか、どんな学習が今後必要なのかといった、前向きの議論に時間をかけること
6. 発言は一般的に、「私は◯◯と思う、考える」というように自分を主語にして発言するこころがける。「一般的にいうと・・・」や「世の中では・・・」といった相手への評価の主体が不明確なフィードバックは効果的でない。

 フィードバックはなんとなくできるようになるというようなものではなく,かなり意識的にとりくまないと,自然にはできるようにならないものです。

 

まとめ
 IPWにおいて、価値の対立とそのマネージメントは、チームの協働が有効に行われるためのキーになります。コミュニケーションのインフラをきちんと作りながら、対立や葛藤を明らかにし、チーム全員で考え、対応していく文化を形成できれば、IPWの質は不断に向上していくことになるでしょう。

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 このエントリーは、新興医学出版社モダンフィジシャン(Modern Physician) 2016年No.5に寄稿した記事に加筆訂正したものです。

*1:佐伯知子. IPE (InterProfessional Education) をめぐる経緯と現状, 課題: 医療専門職養成の動向を中心に. 京都大学生涯教育フィールド研究 2:9-19, 2014

*2:Saba GW., et al. The myth of the lone physician: toward a collaborative alternative. The Annals of Family Medicine 10:169-173, 2012

*3:日本医師会「医の倫理綱領」2000

*4:日本看護協会「看護者の倫理綱領」2003

情報伝達ではないコミュニケーションも医療現場には必要

 吉田尚記著「なぜ,この人と話をすると楽になるのか」太田出版,を読んで,いろいろ考えさせられました.
 

 プライマリ・ケアの現場では,患者医師関係はきわめて重要な構成要素であり,また地域基盤型ケアにおいては多職種連携実践が必要であり,また施設連携でもさまざまな情報をやり取りすることが多いです.プライマリ・ケア医とは,コミュニケーション量が相当多い仕事であるといっていいと思います.

 そして,医師の間では,コミュニケーションが効果的,効率的に情報を伝達しあう道具あるいは媒体とみなされることが多いことと,とくに患者から診断のヒントとなる情報を引き出すための問いかけが基本的はな臨床スキルとして求められるため,情報は正しく誤解なく伝えなければならないし,患者からは診療に必要な情報を必ず引き出すことができるという前提に無意識に立っていることが多いのです.
 

 しかし,構成主義的なコミュニケーション論の観点からみると,正確に意味内容が伝わるコミュニケーションというのは基本的に不可能であるという前提に,まず立つことが必要となるかもしれません.たとえば,発信する側が意図しなくても,何かが伝わってしまい,コミュニケーションが成立してしまう不可避性や,意味とメッセージの関係が恣意的であるということを前提にするということです.
 

 さて,世に流通しているコミュニケーションに関する一般書籍のなかでから,とくにこの本に興味をもった理由は,著者が「コミュニケーションを通じて最終的に何が伝わるかは,こちら側の意図とはほぼ無関係なんです」と述べているように,著者はそうは語っていないのですが,この本が構成主義的なコミュニケーション論を実生活に生かす観点で読めるように思えたからです.
 

 繰り返しになりますが,本書の出発点は,医学教育で重視される医療面接,メディカルインタビューからイメージする情報媒体としてのコミュニケーションとは違った地平のコミュニケーション観です.というのは,著者は,そもそもコミュニケーションの目的は,楽しくなるため,うれしさや喜びを体感したいというところに本質があるといい,コミュニケーションはよいコミュニケーションを成立させるために行うということ,いわばそのためのゲームであるとしているところです.そして,ダンバー数(人間が意味のある関係を築ける最大数,おそらく150人程度)で有名なロビン・ダンバーを引用しながら,猿が毛づくろいという気持ちのよい行為により集団形成をしていったが,人間は毛づくろいの代わりにコミュニケーションを発明したといっています.つまりそもそもコミュニケーションとは意味のある社会=人間集団をまとめるためのものだったと考えます.
 

 そして,次のように述べています.
「いちばん気持ちいい,毛繕い的な会話とは何か? もう答えは出ているようなものですね.ムダ話,雑談,バカ話,そういう類のコミュニケーションだったんです」
「意味のない会話と意味のある会話,両方のハイブリッドこそが,現代の社会生活に絶えず要求されるコミュニケーション・スキルです.くだらないワイドショウと真剣な意思の疎通,両方大事.毛繕いをコミュニケーションに変えてきた人間は,そういう無意味と意味のハイブリッドを生きているんですね」
 

 こうした観点は非常に重要だと思います.コミュニケーションは必ずしも言葉によるものだけではないです.たとえば,子どものころ友達が家に遊びにきて,それぞれが別のマンガを寝そべって読んで,かっぱえびせんを一つの袋から二人でつまみながら,だまってマンガを読み続け,2時間位たって「夕飯だから帰るね~」といって友達が帰っていくっていうような経験は誰でもあると思いますが,この2時間は気持ちがよいもので,充実した時間だったのではないでしょうか.こうした沈黙の時間を共有するだけでも満足感の得られる関係は現代社会においてはずいぶん少なくなったように思います.おそらくこうした友達との沈黙の時間は,それ以前のどうでもいい世間話の継続がその基礎になっているのでしょう.
 

 さて,医療や介護などの現場ではどうでしょうか?意味のある会話がを追求しなければならないというプレッシャーのなかで,毛づくろい的なコミュニケーションはどこにあるのでしょうか.
 たとえば20年近くみている,比較的安定した患者さんとの外来における定期診察で,
「どうですか?」
「かわりないです~」
「あ? そう,血圧はかっとこうね」
「はい」
「いつものくすりでいいかな?」
「はい」
「じゃ,またね」
といったやりとりは,特別何かを伝えているものではないのですが,お互いに長いつきあいのなかで,到達した沈黙がそこにあるといえるのかもしれません.これは意味のある医療面接や,インフォームド・コンセントの結果生まれたというよりも,著者が「ムダなゴシップを延々やりとりしなければ絶対にたどり着けない場所,それが沈黙です」と述べているように,いわば毛づくろい的なコミュニケーションの蓄積の結果なのかもしれません.
 

 著者の吉田尚記さんは,ニッポン放送の人気アナウンサーであり,現代の若者のラジオ人気の復活に一役かっておられるようですが,彼は自分自身を「もともとコミュニケーション障害」があるともいっていて,自身が生活や仕事のなかで獲得してきたコミュニケーションに必要なスキルをていねいに解説しています.たとえば,「相手のことは完璧には理解できない,誤解ウェルカムでいこう」,「ふだんの会話から,「嫌い」,「違う」の単語だけ外すように心懸けてみてください」,「「ホメる」,「驚く」,「おもしろがる」は,コミュニケーションの技術を考えるうえですごく重要な三大テーマと言っていいと思う」といったフレーズは,実生活だけでなく,著者が意図しなかったであろう医療や介護現場でのさまざまな文脈で有用だと思いました.
 

 コミュニケーションとは,その場の全員が気持ちよくなることをゴールとするゲームであるという視点の咀嚼を続けていくことも必要ではないでしょうか.

 

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