今回は私が注目して,フォローしている現代作家平野啓一郎氏の手による小説で,2016年の話題作でもあった恋愛小説「マチネの終わりに」(毎日新聞出版)を取り上げます。この作品は,アラフォーの天才クラシック・ギタリストの蒔野と,同じくアラフォーで紛争地ジャーナリストであり,クロアチア人の有名映画監督を父にもつ洋子の恋愛模様が描かれます。また,中東紛争,難民問題,東日本大震災そしてサブプライムローン問題など様々な世界情勢も物語をドライブする要素として盛り込まれます。
平野氏の小説群は,昨今の会話を中心とした小説と違って,描写を駆使して物語を進めていくタイプの文体なので,気軽に流し読めるタイプのものではないのですが,文章自体は冗長さがないので,ちょっと精神を集中すると,一気に物語にはいりこんでいけます。
物語自体は比較的シンプルといえます。二人が出会う⇒お互い惹かれあう⇒すでにいるパートナーの関係に悩む⇒すれ違う二人⇒別れる⇒お互いもとのパートナーと家庭をもつ⇒すれ違った真実の理由が明らかになる⇒再び二人が出会う⇒余韻をのこして終幕,といったストーリーで,物語自体は,よくあるパターンのものといえるでしょう。むろん,その間に蒔野の師匠,同僚の死,ギタリストとしての停滞,洋子の父との和解などのエピソードが盛り込まれるのですが,それを単に通俗的なものがたりにおわらせないのは,文章のちから,特に描写力によるところが大きいと思います。単に懐古趣味的な美文ではなく,現代性をふかく追求した帰結としての描写です。また,40代というライフサイクル上の移行期の困難性もよく描かれているなと思います。
実は蒔野と洋子は,ほぼ3回くらいのFace-to-Faceの時間の共有しかなくて,しかもほぼ「会話のみ」で,熱烈な恋愛関係になりますが,この会話のやりとりが非常にスリリングで,魂に触れる言葉,その人の核心にいたる会話というのが,具体的に存在するのだという実感が得られます。おそらく洋子は蒔野の音楽をもともと知っていたこと,蒔野も洋子のルックスに惹かれたということを前提に関係がはじまってはいるのですが,コミュニケーションが人の人生にこれほどの影響を与えうるのか,という発見がありました。
また,洋子が長く離れていて音信不通(亡命に近い状態)だった父親と,海辺で和解する場面には,むしろ父親の年齢に近い自分としては,かなりこころを揺さぶられました。そして,最終章では,二人はそれぞれの職業的キャリアの頂点にいるのですが,ニューヨークの公園の池の畔で数年ぶりに再会する場面の描写の美しさは印象的です。
以下はちょっと蛇足ですが・・・
プライマリ・ケアは異なる人生に出会う仕事であり,また個人から地域にいたるまで,様々な物語に出会う仕事でもあります。また、人間は苦痛や苦難と折り合いをつけるためになんらかの物語構造にそれを取り込むことで乗り越えようとします。たとえば、かぜをひいてしまったとき、「あの時に雨に打たれて帰宅したせいだ」、がんの病名を告知されたとき「なぜ自分がいまガンになってしまったのか、あの時のあの事件のせいではないか」といった物語の構造をもった解釈をしようとするものです。また、神経難病と長く生きてきた患者は「病気と折り合うための心構え」といった物語を語ることがあります。おそらく、医療、ケアの場面において、物語はキーとなる働きをしているものです。
小説やマンガなどを読める力は職業人生のなかで残念ながら徐々に失われていきがちですが,依然として医療者にとって必要な力だと思います。「マチネの終わりに」は,「最近小説なんかぜんぜん読んでいないよ」という方が、物語の面白さを再発見できる、おすすめしたい一冊です。
(このエントリーはプライマリ・ケア連合学会実践誌2017年春号に寄稿したものに一部加筆訂正を加えたものです)
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