ジェダイ・マスター的家庭医になるために

 

 Robert B. Taylor著 吉村学/小泉俊三 監訳 テイラー先生のクリニカル・パール1:診断にいたる道筋とその道標 メディカル・サイエンス・インターナショナル が出版された。

 僕が個人的に勝手に「Taylor三部作」と呼んでいる一連のRobert Taylor先生のマスターピース単著群の日本語訳が開始されたことは、まことに喜ばしい。超一流家庭医の臨床能力はこの三部作により表現されていると思っている。

 僕にとっての家庭医のジェダイ・マスターは、Ian McWhinney、Robert Taylor、そしてGayle Stephensである。Taylor先生以外はすでに鬼籍に入られたが、Taylor先生がまだまだお元気だときいている。

 この本は、目次をみると、新生児から高齢者まで、婦人科的問題から眼科的問題まではばひろくとりあげられている。米国家庭医のFull scope診療を垣間見ることができる。

 しかしながら、項目は特に網羅的というわけではなく、また項目に関連した総論的な記述がされているわけでもない。いわば、臨床医のつぶやきのようなものである。「140字で語る臨床医学」みたいな本がもしあるとすれば、ここに提示されるような形態になるかもしれない。実は最近、Twitterで書籍がかけないかとおもっているのだが・・・だから、この本は、Point of Careで臨床的な疑問を解決するためのリファレンスとしては使えないだろう。むしろこの本の価値は、Taylor先生が超一流の家庭医であり、本書でとりあげられている問題が、自身の臨床経験に由来しているというところにある。そして、それ故に通読することが重要な本であるともいえる。通読することで、マスター家庭医の頭の中を追体験してみることが可能になるのだ。

 生涯学習の重要なモメントとして、驚きや予想外のできごとを重視すべきであると、ドナルド・ショーンは言っているが、臨床上のサプライズに対して、その場をなんとか切り抜けるために、過去の経験や、文献、情報ネットワークなどを屈指するのだが、事後的にそのことを振り返ることで、自分なりにサプライズの経験を理論化することが重要だといわれている。この実践の理論の構築の習慣がマスターになるためには重要である。このプロセスが、省察的実践家として成長するプロセスそのものである。そして、この書籍の記述は省察的実践家としてのTalor先生の「実践の理論」の集積であり、パーソナル・ナレッジベースが披瀝されているということもできるだろう。

 たとえば、「発熱」002において、「熱射病は、深部体温を急速に低下させるとともに、迅速な介入が必要となる危険信号である」と記述されているが、いわゆる熱射病を熱疲労などと一緒にしてはいけないというパールである。おそらく実際にこのような経験、あるいは重篤な熱射病をそれとして認識することができない事態を目撃した経験があったのではないかと推察される。また「乳幼児と小児」048には、「5日以上発熱が続く小児では川崎病を考慮する」とサラリと書いてある。発疹やリンパ節腫脹が書かれていないところが重要である。とにかく5日熱がつづけば考えろということであるが、これが「実践の理論」であり、クリニカル・パールである。

 クリニカル・パールというのは、ヒヤリとした経験や失敗した経験から生まれるものである。しがたって、事故やミスを防ぐための認知領域の方略ともいえる。よいパールをたくさん身につけることは、医療事故をおこしにくい体質をもつというふうにいいかえることもできるだろう。

 また、クリニカル・パールは過去の文献などを参照することによってより磨かれる。単に、ひとりよがりのパールというのもあって、危ないバイアスにみちているものである。自分自身の臨床経験を課題評価するのは危険である。やはりパールは、いつの時代でも大事な文献による検討、同僚とのディスカッション、SNSなどのネットワークのなかでブラッシュアップされるべきものである。

 本書のような個人的なクリニカルパール集は、ヤブ医者にならないために、意識的に作るべきだろうと強く思う。臨床経験から疑問の抽出、振り返り/省察、文献による検討、自身の課題の記述ということが日常化され蓄積されるならば、ヤブ化は防げるだろう。

 ところで、家庭医と総合内科医の違いはどこにあるか?といった疑問に対しては本書と、著名な総合内科医であるローレンス・ティアニー先生よるクリニカル・パール群のフォーカスの仕方との差異に、一つの解答があるといえるような気もする。

 

 

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大学病院に残る医学部卒業生をどうしたら増やせるのか?

 いったいぜんたい大学医学部の教育プログラムの成果は何で図られるのか?ということに興味をもちまして、いろいろ懇談などしていますと、国家試験合格はまあ対外的には重要らしいのですが、内部的には卒業生が自分の大学病院の初期研修プログラムにどのくらいマッチするかってのが、最重要事項のようだという確信をもつに至っております。

 その大学の卒業生がその大学の研修プログラムに残らないっていうことが、大学内でこれほど問題になっているとは思わなかったですし、また基本的に大学外で職業生活をしてきたせいもあって、そうした状況にそれほど関心があるわけではなかったのですが、パートタイムとはいえ大学に出入りするようになって、そのことを考えてみようかとおもったのでした。

 まず卒前医学教育の成果=Outcomeとはなにで測定されるのかという原則的なところから考えてみます。
 卒前医学教育改革に関する提言をいくつか目を通してみますと、たとえば平成23年に発表された日本学術会議の提言「我が国の医学教育はいかにあるべきか」では、「疾病構造の変化、患者のニーズの多様化、生命科学や医療技術の急速な進歩などを背景として新しい世代の医療人の育成が求められている」といった理念的な目標にとどまっています。その他の文書をみても「患者中心の医療のできる・・・」とか「基本的人権を達成する云々・・・」といったヴィジョンが様々掲げられていますが、では大学卒前教育でこうしたヴィジョンが、どのくらい達成されているのかどうかという評価はなかなかみあたりません。研究あったら教えて下さい・・・(^_^;)。

 で、海外に目をむけてみますと、Kassebaumが医学部のゴールと関連したアウトカム測定あるいはインディケーターを提案しております*1

 この文献によると、メディカル・スクールのゴールをかいつまんで言うと以下のようになります。
入学の選抜

教育

  •  強力な基礎科学の基盤の提供
  •  模範となる臨床の知識とスキルの成長
  •  プロフェッショナルとしての態度の涵養
  •  学生とファカルティの密接なインタラクション
  •  卒後研修を成功させるための準備

キャリアと診療実践

  •  必要とされている、あるいは低く評価されている専門領域のキャリア(プライマリ・ケア等)を選ぶ医者が多い
  •  ライセンス試験(国家試験、専門医試験)の合格
  •  医療に恵まれない地域での診療実践を重視
  •  アカデミックな資源を更新すること、つまり大学での教育活動あるいは研究実践への参入

 このような領域に関して測定のやり方の方法も併記されています。

 きちんと測定していくことも重要だと思いますが、日本では、まずはこうした評価基準をつくることが重要かと思います。たとえば、CBTやOSCEもそうした評価項目になるとは思いますし、他にもあるのかもしれないが・・・。

 こういう目標をみてみると、ある大学の医学部卒業生がその大学の卒後教育プログラムに残るということが、真にアウトカムになりうるのかということに関しては、原理的には、それは違うように思うのですが、日本の医学部の教官が口をそろえて「問題だ」といっている現実は別の何かを表しているとしか思えないわけです。なにか、真のアウトカムの関連したなにかが「残る」「残らない」という言葉になっているのかもしれません(穿ち過ぎ?)。

 そこで、このことを2つの切り口からかんがえてみたいと思います。
 一つは自校教育の観点から、もう一つは学習共同体の観点からです。

 近年、大学では自校教育が注目されています(以下の記事参照)。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090722/169059/?P=1

 学生に対して建学の意義、大学史、自校の研究成果などについて教える授業のことを自校教育といいます。それは学生の大学への帰属意識が薄れているという現状に対応したものです。特に私立大学では、その目標は「愛校心」の涵養となりますが、国立大学ではどうもそうでではなくて、大学の最近の成果の講義などが多いようです。

 特に私立大学では卒業生も含めてコミュニティの形成、大学経営を支える基盤づくりとして捉えられています。いくつかの私立大医学部に出入りした経験では同窓会の存在はきわめて大きいものでした。こうした取組は、一部大学(東大等)を除くと国立大学では非常に弱いように思います。

 しかし、古臭い響きのもつ愛校心なるものを、どう高めるかという取り組みを、あまり経験のないところが急に始めるとおそらくスベる可能性が大です。むしろ、その愛校心の内実であるコミュニティづくり、もっというと学習と実践の共同体づくりを現代的にすすめるのが、今に生きる「愛校心」になるのではないかと思っています。
 例えば、今の医学部の教育が学習共同体づくりになっているのか、それを促進するカリキュラム(PBL:問題基板型学習IPE:専門職連携教育、そしてCOME:地域指向性教育、等)が重視されているのか、教員がそれに適応できるようなFDをやっているのかどうか、などが問われるでしょう。コミュニティ成立の基本は、メンバーの居場所と出番の保証です。そしてメンターとロールモデルの存在も重要です。
 そして、こうしたカルチャーが大学付属病院の医療や研修の基盤になっていないと、それこそ、教育-現場ギャップがあらわとなって、学生にはますますそっぽを向かれるでしょう。

 大学付属病院に卒業生をたくさんリクルートしたいのなら、「大学に残らないと結局生きていけない」「大学にのこればこんなに素晴らしい研究ができる」「大学にのこれば君たちはエリートの仲間入りだ」的な完全勝ち組意識丸出しのリクルートはやめることです。上述したようなカルチャーを涵養する努力を不断につづければ、たとえ目標像に到達していなくても、学生はその空気は感じるものです。そしてカルチャー改革の第一歩はおそらく、大学病院研修医のワークライフバランスの改善でしょう。
 今の勝ち組意識の高いベテラン医師とはちがって、現代の若者は生まれた時から不況が続く時代背景の中で育っています。そこを真剣に捉えないと間違えるでしょう。

 状況の変化はすぐには起こりませんが、道筋は見えているような気がします。

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*1:Kassebaum, G. The measurement of outcomes in the assessment of educational program effectiveness. Academic Medicine, 65(5), 293-6.1990

「診療ガイドライン」と「診療マインドライン」

 John GabbayとAndrée le Mayは英国のプライマリ・ケア診療のエスノグラフィー研究を約9年間にわたって行った*1
 非常に興味深いその結果を、いくつか紹介してみよう。

 まず、GPの役割は以下の4つがあるとのこと。これらは全体に複雑で、混乱しやすく、同時に生じ、不測の事態が生じやすく、対立を生むこともあるとのことだが、この役割の記述は、日本の家庭医にもほぼあてはまると思う。

*Clinical Domain

診断、処方、検査、アドバイスと説明、紹介、アドボカシー

*Managerial Domain

リソース・人材・ロジの管理、質のモニタリングと改善、ITシステムの開発、契約や法的必要事項の遵守、プライマリ・ケア・トラスト(英国独自の制度です)の取り扱い、診療所スタッフのトレーニング
*Public Health Domain

疾患予防、スクリーニング、ヘルスプロモーション、健康教育、疾患サーベイランス、担当地域を知る

*Professional Domain

Keeping up to date、診療の振り返り、教育と指導、同僚ネットワークの涵養、家庭医療のプロモーション、信頼の維持

 

 そして、彼らが見出したのは、家庭医(GP)の臨床的な判断は、いわゆる診療ガイドラインではなく、マインドライン(Mindlines)と呼ぶようなものに従っているということだった。このマインドラインは著者らの造語である。

 この診療マインドライン(Clinical mindlines)とは、どういうものだろうか?
 その定義は、Internalized collectively reinforced,partly tacit, guidelines-in-the-head that clinicians use to guide their practiceとされ、内在化されて、集合的に強化されており、部分的には暗黙知的であるような、臨床家が自身の診療をガイドしている「自分の頭のなかのガイドライン」がマインドラインである。その特徴を以下に列挙してみよう。

  • フレキシブルで、融通が効き、実践的で、文脈を考慮している
  • 非線形かつ合理的でパターン認識化されている
  • これまでいわれてきた各種認知モデルとしての、「ヒューリスティック」「Illness script」あるいは「経験則(Rules of thumb)」に比べて、より幅広いものである
  • 診療に影響をあたえる、フルレンジの要求や各種制限、複数の役割を考慮にいれている
  • 他者の実践的な知識が一人の人間の認知に具現化している
  • 複数の素材をKnowledge-in-practice-in-contextに変容させている


 この診療マインドラインのイメージをJohn Gabbay and Andrée le Mayは以下のように図示している*2

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 では、なぜ、リサーチエビデンスは家庭医のマインドラインに組み込まれないのか?その理由として彼らは以下のような理由を挙げている。

  • リサーチエビデンス、およびそれを土台にした診療ガイドライン
  • 複数の役割を対象にしていない
  • 実践的な知ではない
  • フレキシヴィリティに欠ける
  • コンテキストが単一である
  • 長年かけて積み重ねられたマインドラインよりよいものとは思われない
  • よく調べない限り、妥当とはみなされない

 さらに、非常に興味深いのは、このマインドラインは、ソーシャルにあるいは組織的に他の医療者のマインドラインとリンクして、集合知を形成しており、集団的マインドラインとでもいえるようなものを、以下の図のようなイメージで、形成していることである。

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 このような集合知「実践の共同体」Wengerら)そのものともいえるだろう。

 かれらのエスノグラフィーによるプライマリケアや家庭医療における診療マインドラインの発見は、教育や研究に非常に有用なフレームワークを与えてくれるだろうが、特にプライマリケアにおけるジェネラリストのナレッジマネージメント、生涯学習、Continuing professional developmentはどうあるべきかという疑問に大きなヒントを与えてくれると思われる。

 家庭医がマインドラインをどのように涵養していくかについての研究は、これからの課題だろうが、僕自身の臨床経験からいえることは、このマインドラインというコンセプトは非常にしっくりくるということである。そして、マインドラインは、おそらく総合性、あるいはGeneralismの本質とつながっている。

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*1:Gabbay, John, and Andrée Le May. Practice-based evidence for healthcare: Clinical mindlines. Routledge, 2010.

*2:Gabbay, J., & le May, A.. Evidence based guidelines or collectively constructed “mindlines?” Ethnographic study of knowledge management in primary care. BMJ, 329(7473), 1013. 2004

米国家庭医療から何を学ぶか?患者中心のメディカルホームへ:Part 1

 プライマリ・ケアに携わる医師のトレーニングは、常にその国や地域のヘルスケアシステムから要請される医師像に依拠するものである。しかし、例えば心臓外科医ならば、心臓外科医にもとめられる臨床能力のコンテンツはヘルスケアシステムに依存することなく設定されるだろう。なぜなら、心臓外科医は、どの地域、どの国でも行う仕事は基本的に同じだからである。したがって、例えば日本で心臓外科をやるために米国でトレーニングをうけるというのは正当であるといえるだろう。しかし、プライマリ・ケアにおいてはこの心臓外科のトレーニングモデルを導入するのは、違和感がある。

 プライマリ・ケアを専門とする医師は、そういう点でSystem-oriented specialtyであるといえるだろう。従って、米国のプライマリ・ケア専門医の一つである家庭医療の実践内容や専門医研修プログラム(レジデンシー)が設定する教育目標やカリキュラムをそのまま日本に適用することは不可能である。しかし、米国のレジデンシーには、家庭医療が専門科として認められるようになってから、時代の変化に応じて、家庭医が果たすべき役割を検討し、質の向上に取り組み、様々な教育上のイノベーションを展開してきた歴史がある。


 Taylor*1は、米国家庭医療の歴史には3つの時代区分があるとして、その時代の背景、家庭医療の状況、その時代に必要だったリーダーシップのタイプについて論述している。整理してみると以下のようになる 。

The early years  1960年台~70年台後半   黎明時代 ゲリラ 戦士型|
The growth years  1970年台から90年台    成長時代 マネージャー型
The emerging years 1990年台後半から現在まで 新時代  ファシリテータ型 

 

 米国には、過度の専門分化により身近に質のよいかかりつけ医が失われているという市民団体の問題提起を受けて、国家として家庭医療の専門医を発足させた歴史があるが、実は世界的にみると、医学界内部からジェネラリストの必要性の認識が高まり、その教育や研究を切り出して部門として独立させたという歴史はないといってよい。

 例えば英国のNHSにおけるGPの役割は、保健医療政策から生み出されたものである。プライマリ・ケア重視のヘルスケアシステムの構築を決定し、そのシステムに必要なのがGP(general practitioner)であるから、既存の医師をGPにtransformすべしという政策にもとづいている。つまり、英国の医師集団がGPDrivienのヘルスケアシステムを生み出したわけではない。そもそも英国においてGPが独自の学会(RCGP)をつくることを医師会がみとめたのは、1953年であり、歴史的にはそれほどふるいことではない。それ以前にGPが独自に学会を作ろうとしたときにそれをブロックしたのは、実は内科学会と外科学会であったとされている。それは、「いや、そんな独立するなんていわないで一緒にやればいいじゃないか」というのが内科学会や外科学会らの主張であった。そしてRCGPの設立を実質的にサポートしたのは当時の英国厚生省であった。


 2015年現在、日本における総合診療の専門性の確立に関しては、市民レベルと政策レベル双方から期待されて進んでいる事は、これまでの各国の経験と相似であるといえるだろう。そして、既存の医学アカデミーが最後のバリアになっていることも、これまた世界史の上では定番の動きである。


 さて、米国では1960年台に入って、公民権運動、女性解放運動、ベトナム反戦運動などに象徴される時代背景をもとに、市民運動として家庭医療の確立が求められるようになった。家庭医療は当時の医学エスタブリッシュメントに対するいわばカウンターカルチャーであり、その推進者はファウンダーらしい独特の個性とある種の野蛮なリーダーシップを兼ね備えていたという。その後、多くの医学生がレジデンシーに参入するようになり、急速に家庭医療の展開規模が大きくなり、診療、教育、研究いずれも大きな展開がもとめられる状況になり、有能なマネージャーがリーダーとして必要とされた。その後米国の医療環境が変化するにつれ、家庭医療の道をえらぶ医学生が減少するようになったが、様々な交渉や変化に適応し、連携やイノベーションを生み出すことが求められるようになり、組織ファシリテータとしての役割がリーダーに求められるようになっている。

 外からみると米国の家庭医療には盤石の基盤があるようにみえるが、必ずしもそうではない。英国のようにヘルスケアシステム(National health service)上、GP(家庭医)の役割が明確に位置づけられているがゆえに、存立基盤に関して根本的な問い直しを必要としない国と違って、ある意味で米国の家庭医療は「存在論的不安」につねに直面しているといってよいだろう。定期的に開催されているKey Stoneカンファレンスに代表されるように、常に自らの現状を見つめなおし、課題を設定し、改革を行い、評価することを継続し続けてきた。そのダイナミックな改革の取り組みの経験から、日本がプライマリ・ケアの再編を構想するために学ぶことは極めて多い。

 では、日本のプライマリ・ケアは米国家庭医療の試みから、今どんなを学ぶことができるだろうか。次のブログ・エントリーでは、2000年代前半よりに米国家庭医療学会が一貫して重視し、取り組んでいる患者中心のメディカル・ホーム(Patient centered medical home:PCMH)のプロジェクトを紹介する。さらに、家庭医資格の維持と生涯教育を連動させようとする資格更新制度を紹介したいと思う。

https://instagram.com/p/3YVRELS-Zy/

アジサイ

*1:Taylor, R. B.. The promise of family medicine: history, leadership, and the age of aquarius. The Journal of the American Board of Family Medicine, 19(2): 183-190 2006

診療所で家庭医がヤブ化しないための10の原則(承前)

 いよいよ診療所の医者がヤブ化していく姿が、同世代でチラホラとみえるようになってきた。

 若い医師は決してその医者になにかを指摘することはないので、ヤブ化している本人がそれに気づくこともない。また、日本はフリーアクセスということになっているので、患者からのフィードバックが苦情くらいしかないため、根拠なく自信をもっている診療所家庭医(自分も含めて)は結構多い。

 自分もそういう年代になってきて、どうしたらいいのか、いろいろ考えているが、とりあえずの原則を10個くらい、自戒も含めてひねり出してみる。おそらくどこかで読んだ文献から記憶をたどっているのだが、それぞれの項目についての考察は徐々に発表していこうと思います。

 

  1. ひとりぼっちにならないようにしよう
  2. スキルを維持するために病院の仕事もしよう
  3. 自分の臨床経験を過大評価しないようにしよう
  4. 自分にフィットする学習スタイルをみつけよう
  5. 文献を読むことはいつの時代も大切にしよう
  6. ICTマスター(GMailGoogle DriveDropboxEvernoteFacebookあたりを使える程度でOK)になろう
  7. 印象深い事例や思いがけないデータは記録して、ふりかえりを書こう
  8. 教えることは学ぶことなので教育をやろう
  9. 新薬に飛びつかないようにしよう
  10. パネルマネージメントに挑戦しよう(以前のブログエントリー参照してください)

 

https://instagram.com/p/2p4ZO0S-TC/

Instagram

 

年長者よ、クラウドで仕事をしよう

 2007年頃に年下の同僚からすすめられた梅田望夫さんの「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる」ちくま新書 2006年 は当時僕にとっては、そうとう衝撃的な読書体験となった。「すべてがGoogleになる」「すべての人が発信者になる」といったフレーズは当時としてはかならずしもピンとこないところもあったが、大きなパラダイム転換がきているという雰囲気を感じ取ることができた。これは単純に情報伝達の問題ではなくて、生活全般、価値観、世界観に影響をあたえる変化なんだろうな、という直感もあった。

 実際に現在では、クラウドにすべてのデータを保存し、個別のPCやスマホはネットワークがあってはじめて意味を持つようになっており、SNSも日常生活にとけこんだものになっている。たとえばFacebookのデータは自分のPCやスマホにはなく、クラウド上に存在しているのだが、そういうことをもはや意識することもなくなっている。

 こうした時代において、医者の仕事(直接の診療、マネージメント、教育や研究、プライベートライフ等)にもこうしたICT(Information and Communication Technology)のパラダイムチェンジが大きな影響をあたえてきている。しかし、案外「ITは苦手」とか、「IT弱者」などと自嘲気味に語るものも中高年の医者の中には少なくないが、最近読んだ堀正岳さんによる「理系のためのクラウド知的生産術 メール処理から論文執筆まで」講談社2012は、医師が日常の生産性を向上させるために、現代のICTがどのように役に立つのか?という疑問に答える内容になっている。

 クラウドサービスとは何か?からはじまって、GmailDropboxEvernoteのいわば3種の神器の基本から解説しつつ、それらを使った仕事のコツについてわかりやすく解説している。また、論文管理については、クラウドの論文管理サービスであり、世界的に普及しているMendeleyの紹介をしているところは、類書がすくないだけに貴重である。また、無料のビデオ・音声会議システムを構築できるSkypeの使い方も実践的に紹介されている。すでにこの書籍が出版されてから3年が経過しているが、基本的に上述したサービスは継続進化しており、操作や考え方の基本は同じである。

 僕がICTにおいて、もっとも重要な成果として考えているのはSNSに代表されるあらたなコミュニケーション様式であり、広範囲に構築される弱いつながり(weak ties)、そして共有の文化である。クラウドを活用して仕事をすることはこうしたことと直結しているのである。

https://instagram.com/p/3YVJjXy-Zr/

アジサイ

 

事務所のヴィジョンとミッションを書いてみる

 なんとなく事務所もそれなりに実体がでてきているので、そろそろヴィジョン&ミッション&行動計画書を作る必要がでてきたが、なかなか難しい・・・妄想も含めて、草稿としてつらつら書いてみよう。これが全部実現できるとはおもってないけれど・・・

 藤沼康樹事務所(仮)のヴィジョンとミッションと行動計画

 家庭医、家庭医療、家庭医療学は、これまでの私の医師人生のキーワードを構成しています。家庭医療(Family Medicine / General Practice)は、特定の個人、家族、地域に継続的に、全ての健康問題にかかわる医療形態であり、「長くそこにいて、すべてにかかわること」がプリンシプルです。

 また、家庭医は、異なる人生に出会う仕事であり、様々な人生のプロセスにある患者さんの手助けができるが故に、身体、心理、家族、社会、倫理など多次元にわたる問題に取り組むことがもとめられ、多職種*1との有機的な連携が必須な、領域横断的な仕事であるともいえます。
 日本は超高齢社会を迎え、絶対死亡数も今後20年で60万人増加すると推計されています。元気な高齢者も増えますが、End of life careもまた日常的にそこかしこに存在するようになります。そうした高齢者を適切にケアするためには、地域指向性の多職種によるチームが地域に多く必要になります。そういう点で、以前から多職種連携に関しては大変関心を持ってきました。
 また、家庭医療学は質が高く、妥当性があり、費用対効果にすぐれたプライマリケアを公平に地域住民が享受するための研究分野です。家庭医療学の研究対象は日常病、患者の病い体験、医師の行動、ヘルスケアシステム、医療者教育、環境など多岐にわたり、研究方法論も、生物医学的研究、疫学的研究はもとより、人文社会科学的方法論も含まれており、実は対象や方法が看護研究とオーバーラップするところも多く、私は看護研究には非常に興味をもって接してきました。
 上述した文脈の中で、私自身の30年の地域医療実践と教育実践をより多くの職種の医療人や医療系学生と共有し、多くの地域に貢献できる人材を育てることに第二の職業人生の時間を使いたいと思います。具体的に開発普及を構想している教育実践プログラムを以下に列挙します。


1.IPE/IPWにおけるリーダーシップを涵養するプログラムの開発
 IPE/IPWは、医療保健福祉にかかわる各種組織や施設のリーダーの意識改革が必要ですが、そうしたリーダー向けのプログラムの開発を行います。これまでの私の30年にわたる医療人としての経験を活かしやすい領域と考えています。


2.都市部プライマリ・ケア現場に特徴的な問題に対応する多職種チーム支援プログラムの開発
 高齢社会の困難の本質は、高齢化率の問題ではなく、都市部における高齢者人口の爆発的増加にあると言われています。特にケアの分断、不要なあるいは不適切な救急受診や入院につながる事例、そしていわゆる複雑困難事例などの問題に直面する頻度が高くなります。こうした都市部特有な問題に対するIPWを円滑にするためのツール開発(tools for shared patient-centered problem solving)を行います。


3.診療所或いは中小病院外来におけるパネル・マネージメントとIPE/IPWの実践コンサルティング
 プライマリ・ケアは基本的に地域でかかりつけとなっている人口集団(パネル)を対象とします。このパネルはその必要とするケアの性質によりレイヤー化が可能で、レイヤー毎に適切な担当職種がある。例えば、比較的合併症の少ない安定した慢性疾患の患者のパネルは訓練された看護師がもっとも有効にマネージメントできる。パネル・マネージメントは多職種連携で行うためIPWの典型といえるが、このモデルケースを構築します。


4.多領域の研究リテラシーを身につけるプログラムの開発
 多職種コミュニケーションにおいては、各職種における専門用語、パースペクティブ、価値観などの理解が必要ですが、それらを促進するために様々な領域の研究論文を理解するセミナーあるいは学習会を行います。例えば、質的看護研究を一つとりあげて、医学部生、薬学部生、看護学部生がそれを元にディスカッションします。また、リアルなケースをとりあげて、そこからリサーチクエスチョンを多職種で設定し、共同研究のあり方を探るようなワークショップも有用と考えています。


5.医療人の生涯教育(Continuing Professional Development: CPD)とIPE/IPWのコラボレーションの推進
 従来医療人の生涯教育は、自身の専門領域の知識と技術のアップデートを意味してきましたが、知識と技術のアップデートだけで良いパフォーマンスが保証されるわけではないことが明らかになってきています。よいパフォーマンスは、自身の所属している組織や施設の質改善、コミュニケーションやリーダーシップといった一般能力、そして資質の涵養などが複合的に作用して保証されます。これらを含む生涯学習をCPDと呼ぶようになっていますが、おそらくIPE/IPWはこのCPDと直結していると考えられます。これらの関連性を探索的に研究し、日本の医療人に有用なCPDのあり方を提示したいと考えています。

 

https://instagram.com/p/2hrrvLS-Wj/

#rose

*1:専門職、非専門職を含めますので多職種という言葉はTransprofessionalの意味でここでは使います