3つのパートに分けて、いぜんにPublishした対話(現在は手に入らないようですので)をこのブログに再録したいと思います。対話のお相手は旧知の看護学研究者・教育者です。Family Medicineと看護学は様々なオーバーラップする領域があり、お互いに刺激しあいコラボをすすめることは、プライマリ・ケアの質、妥当性、効率性、公平性を保証することに資すると考えております。家庭医療教育と看護教育の越境がわたくしの仕事のモジュールの一つにもなっています。
では、お楽しみください。
看護師の20%が四年制大学卒
家庭医 現在は,看護師の20%が4年制大学卒だそうですね.
看護教育者 私が看護師になろうと思った時代と,現在の看護界・看護教育の状況はずいぶん変わりました.現在は,各県に複数の看護大学ができるまでになり,その数は全国で180校以上にのぼります.学生たちには大学に入るのが当然という志向性があります.「看護師になりたい」という気持ちのある学生も多いですが,看護師にならないけれども,大学だから入学したという学生もいます.
家庭医 看護大学はプロフェッショナルスクール,職業訓練校ではないということですか?
看護教育者 はい.ただそうはいっても,大学を卒業することによって看護師の国家試験受験資格が得られるので,養成教育的な側面はあります.
家庭医 おそらく医師は,そういうことをあまり知りません.医師側の嘆きとして最近よく聞くのは,大卒の看護師は現場ですぐ「使えないなあ」ということですが.
看護教育者 確かに,看護学校は現場ですぐ使える実践力の教育をするのですが,大学では看護師としてすぐに使える教育はしていません.ただ,大卒看護師も看護学校の人たちと一緒に就職して3年辛抱すれば追いつくと大学の先生にはいわれましたし,実際に自分でもそうだったと思います.
私が自分の進路を決めたのは,高校3年生になってからです.大学に行くつもりではいても,自分の思い描く将来像がしっくりこなくて悩んでいた時期がありました.その頃に千葉大学に看護学部ができて,大学で看護師の養成がなされるということを知りました.それまで看護が身近な存在だったわけではないけれど,将来への志向性として,「自分が大学教育を受け,女性として生涯,社会で働いて生きていくとしたらどういう仕事があるか」と考えた際に,看護師という選択肢が入ってきたわけです.その段階ではもちろん「大卒看護師」の明確なイメージがあるわけではありませんでした.ですが当時の看護系の大学が少ない状況のなか,大学で教育を受けるなかで,大卒看護師は看護界で大きな役割を果たすことができそうだ,という漠然とした思いが出てきました.
家庭医 当時すでに大学での看護教育では,リーダーシップ教育のようなものが含まれていたのですか?
看護教育者 そうですね.当時の看護学部の教員には,自分たちが看護学の学問体系をつくっていくという意気込みがありました.私たち学生も,「医学よりも後発の看護学という学問が発展するなかで,人びとの健康な生活を支えていくことができる」という教育を受けました.そうして看護大学を卒業すると同時に,保健師の資格も取れます.
家庭医 ということで,この対話のテーマは「看護学を知りたい!」です.「看護師」を知りたいのではなく,「看護学」を知りたい.
いかに個を継続して診ていくか―家庭医看護教育に共通のエッセンス
看護教育者 看護教育は,「1人ひとりの患者さんに,対応していくか」という教育です.もちろん,たとえば脳卒中の患者さんにはこういう看護というように,パターン化され整理されてきてはいます.でも,そのパターンがある患者さんには合わないことが多々あるので,いかに個人個人に合った看護をしていくかという教育が,大学教育のなかで発展しています.
家庭医 なるほど,それはすごく家庭医と共通する発想です.患者Aさんをダシにして高血圧を学ぶのではなくて,高血圧をもっているAさんを学ぶという意味ですよね(笑).
看護教育者 そうです,そうです.
家庭医 特定のAさんとか,Aさんの家族,特定の町,特定のものに継続的にかかわるという視点は,まさに僕らが提唱している家庭医の原則です.だから,「虚血性心疾患を1例診ています」ではなくて,「〇〇さんを診ています」といいます.
家庭医の継続性とは,慢性疾患を継続的に診るということではなくて,田中一郎くんだったら,田中一郎くんにずっと継続して関わっているというイメージなのですよ.予防接種や乳幼児健診をやって,小学生になってケガして来たらケガのケアをする.中学になると,いろいろな感染症にかかったり,高校生になってタバコを吸っていることがわかったら介入したり.病気やライフ・イベントはエピソードであって,あくまで連続しているのは家族や特定の個人なのです.そうなると僕らも,病気だから診ているのではなく、地域で暮らしを支援しているイメージなのです.
僕は家庭医である自分のことを,「八百屋のオヤジ」だといっています.昔は八百屋は「最近,あのバアちゃん来ねえな.大丈夫かな」みたいに(笑),地域の情報収集・発信センターであり,よろず相談所のようなところだったんです.いまの診療所は、どちらかというと「自分はこれができます」という商品をショーケースに並べていて,買いたい人はどうぞというスタイルが増えていますが,それは家庭医とはちょっと違うのですよね.
看護教育者 家庭医のアプローチを,いま初めて認識しました.私も実は,大学時代に訪問看護や外来看護の実習をして,病棟の看護ではなくこういう場だったら継続的に患者を看ていくことができるのかなという思いが芽生えました。患者さんの家を訪問することによって,本当のその人の生活が見えて,必要な生活支援が見えた.また,多摩全生園で大学時代最後の実習をしました.ライ予防法で隔離はされていましたが,あそこは典型的な高齢者社会でした.高齢化するなかで,生活の場と病院と保健センターとが一体になり,地域の高齢者の予防からターミナルまでをやっていた1つのモデルです. このようなケアを地域でやっていけるといいな,とすごく思いました.
看護は,場面場面しか関われなくても,継続していくことさえできれば,自分1人ではなくても皆でフォローしながらその人たちを支援していくことができるのではないか,という発想で教育をしてきました.
知っておきたい看護援助の視点
家庭医 家庭医が患者に継続的に関わっていく際,たとえば「老老介護でおばあちゃんが疲れていて大変」という問題があると認識できたとします。でも医者は看護師とは違ってそれに介入するスキルや実践するための教育を受けていないし,どうしたらいかわかりません.そこで,看護師に介入してもらいます.問題に対する認識は共通しているのだけれど,実践の武器やツールが違うために,役割が分かれるイメージです.だったら医師は,看護の「武器」である視点を知る必要があるでしょう.先生は「高齢夫婦のケアしあう関係を促進する看護援助に関する研究」という論文を発表されています(千葉看護学会会誌 7(1):20‐26,2001.).この論文の視点を知ることにより,患者に対する看護学のエッセンスがわかるように思います.
看護教育者 地域に対する看護,さらに継続的に人へのケアをしていきたいという思いから,この論文を書きました.高齢者の在宅の訪問をして,その人たちの生活の場で看護援助は何ができるのか探るなかで,高齢者が高齢者を介護する,いわゆる「老老介護」や,高齢者の生活では患者と介護者がお互いに支えあっているという現実を見たのです.そして,まずは要介護の人にも支援は必要だけれども,介護している配偶者や家族にも援助が必要だということに気づきました.両方に援助しなくてはいけない.
IPE(Inter Professional Education)も相互作用を重視していますが,夫婦でも相互作用・関係性に注目しなくてはいけないのではないかと。さらに,もともとは夫婦としてお互いに支えあって生きてきたわけですから,その支えあう状況それぞれに看護することによって,お互いに支えあう関係が修復され,より発揮していくことができるということを論文にまとめました.
家庭医 一般的に「介護者の健康にも注意しよう」とはいわれていますが,この論文では当面の在宅ケアの対象となっている患者と配偶者とのケア基盤を同等にとらえていて,「まったく同等の関心を払うべき」といっています.おそらく,いまの在宅のカンファでは,主に寝たきりの旦那の話をして,介護者は背景因子の1つとなってしまいます.
看護教育者 それには,「介護保険の対象は誰なの?」という制度上の問題もあるでしょう.ですがこれは研究なので,患者と介護者のそれぞれに,きちんとそれぞれの必要な看護を提供するということを強調しています.
家庭医 おそらく「介護者も重要だ」という言い方をしつづけると,ずっと背景因子のままなのです.だからこそ,高齢者医療を支える人たちに,看護学の立場からこのような発信をしてほしいですよね.そういうことを感じました,僕は.
看護教育者 ああ,ありがとうございます.研究を通してこの発想に自分が行き着くまでに,やはり時間がかかりましたよ.
家庭医 おそらく家庭医は,こういう「家庭のなかの関係性」にも関心をもってアプローチしています.ただやはり,じゃあどうやって介入しよう?となる.そこで看護研究を知って,看護師と協働し,お互いに本領発揮をしていければ,と.看護研究を読んで思うのは,本当に守備範囲が広いのですよね.今特集でも家庭医からみて興味深い看護研究もいくつか取り上げさせていただきました.
Illness(病い)アプローチを看護に学ぶ
家庭医 医学教育では,頭痛を診る際には症候論から始まります.いつから痛くて,どんな痛みがあって随伴症状は何かと問診し,鑑別診断をする.必要ならばさらに画像診断などをして診断をつけることが,やたら学ばれています.
ところが,僕ら家庭医の場合はそれだけでは難しいのです.たとえば,頭痛で来た患者さんを普通に診て,「片頭痛ですね,この薬を飲んでください」と言うと,患者さんは不本意な顔をしている.なぜかというと,実は頭が痛いのはもう2年ぐらいだけど,その人は自分で頭痛のセルフケアができていた.しかし2週間前に同僚がクモ膜下出血で倒れて心配になったので,今日は会社を休んで受診してきた.片頭痛という診断がほしいのではなくて,クモ膜下出血が心配で来たわけです.このように家庭医療学では,主訴と受診理由を分けて考えるんですよ.
看護教育者 へぇー.
家庭医 「頭痛」がその人にとってどういう意味(meaning)があるのかということを探るのです.片頭痛という診断はディジーズ(disease)であり,そこで行われるのは「疾患に対するアプローチ」だけれど,もう1つアプローチとしてイルネス(illness)があり,その人にとってその症状がどんな意味があるのかをとらえなくてはいけないのです。
いまの医学教育はほとんどがディジーズアプローチです。イルネスアプローチは系統的ではないから難しい.でも,昔から名医といわれた人は実は患者の受診する「理由」に対応していた可能性が高いのです.このように「この病気の意味は何か」ということを研究は,おそらく看護のアプローチとかなり重なると思うのです.
看護教育者 そう思います.看護の対象もイルネスですもの.看護研究は,その人にとってのイルネスの本当の意味,生活への影響というものを探索してきているので,意味論の研究はたくさんありますよ.ここ30年のあいだの発展はすさまじいものがあります.
家庭医 そうですよね.そこを看護にもっと研究してもらって,医学に還元してほしいなと(笑).おそらく看護学の人たちのなかには,医者は看護研究に興味がないだろうと思っている人が多いと思うんですよ.だから発信していない.でも,家庭医は看護研究に興味があるので(笑).
看護教育者 そうですね.いままで看護は,研究の方法論や研究の質向上など,いかに看護独自のアプローチを研究として発展させるかということに努力してきたのです.看護実践にいかに還元するか,というところまでは考察されてきていますが,さらに世の中に,医師に還元するというところまではいっていなかったですね.
家庭医 そこをぜひ.たとえばある患者の受診理由が実は親族の死に対する悲嘆(グリーフ)反応だったという時に,医師は「悲嘆過程の問題だな」とわかりますし,うつと診断した人には薬を出すかもしれません.でもさらに生活調整やほかのアプローチが必要,という時には看護の出番ですよね.その時に,「この人はグリーフだからよろしく」とふると,看護師が看護のアプローチをその患者さんにしてくれる,というような連携が必要なのです.
看護教育者 ああ!
家庭医 そのための看護研究を,医師のところに発信してもらえることが必要です.あるいは,イルネスに対応する機会が多い現場の看護師が,それらの知見をわかったうえで,さらに自分で探る力を研究のなかで養っていく,そういうパワーがほしいのです.
パート1はここまで・・・
この対話の一部はJIM 2010年7月号に掲載されています。