ソロプラクティス開業を考えている若い医師へのアドバイス

  最近、各専門内科や外科系各科の中堅医師から、「開業することになっているんだけど、なにを勉強すればいいの?」「研修しなくても大丈夫?」という質問をされたり、アドバイスを依頼されることが増えているような気がします。むかしみたいに、コンサルタントだけと話し合いながら開業するのは不安もあるようです。

 今回のエントリーでは、そうした方を想定して、症例を提示し、通常の生物医学的な診断治療以外のアプローチが診療所においては重要であることを理解できるように、かなり「入門的」なことを書いてみようと思います。

 

症例1 17才の女子高校生が3日前より生じた咽頭痛で来院した。扁桃の発赤、白苔付着があった。体温は37.6℃であった。

 初診患者を診る場合、今後その患者のかかりつけ医になるつもりがあるなら、「次に何かあったらまた相談してほしい」と考えたほうがいい。そのためにはこの患者にどうアプローチしたらよいだろうか。むろん十分にこちらの考えを説明し、納得のいく治療をしなければならない。

 そして、主訴は咽頭痛だが実は、いつもはこの程度では受診しないのだが、明後日学校の試験があるから今回は来院したのかもしれない。受診理由と主訴は違う。受診理由に応えるのが次の受診につながる。かかりつけ医は、主訴と受診理由の両方に応えなければならない。

 また、この地域で役に立つ存在になるためには、予防医学的介入は非常に大切である。たとえば処方箋を書きながら、喫煙の有無を聞くことは重要である。「タバコはすってないよね」という声かけはしたい。もう一つは、「ほかに心配なことは?どんなことでもいいですよ」と聞くこと。次になにか相談事があったら来てほしいからこの質問が重要となる。さらに17歳という思春期がどういう時代か。ライフサイクル上この時期がどういう時期かを知っている必要がある。

 

症例2 43歳男性で初診。主訴は頭痛のようだ

 新患である。その日はインフルエンザのシーズンにあたってしまい、時間的に余裕がなく、頭痛の性質と経過を聴取し、簡単な身体診察を行い、筋緊張性頭痛と診断。NSAIDを処方した。「あまり心配ないと思いますが、よくならなければいつでもどうぞ」と説明して診療を終えた。

 その翌日この患者は別の大学病院を受診した。

 なぜこの患者は翌日総合病院を受診したのだろうか?
 実はこの男性は、半年前から職場が変わり、終日コンピュータのディスプレイを見る仕事になり、肩こり、後頭部の「じわっ」とする痛みを自覚するようになったが、仕事の影響だろうと考えてそれほど心配していなかった。ところが2週間前に同僚がくも膜下出血で緊急手術をうけるという事件があった。そのことを夕食時妻に話したところ、「あなたの頭痛ってくも膜下出血じゃないの?お医者さんにみてもらったほうが、いいんじゃない?」といわれ、受診したのだった。

 しかし、めったに医者にかからないので緊張してしまい、質問に「はい」「いいえ」と答えるのに精一杯で、大丈夫といわれて「やっぱり仕事のせいだよな」と納得して帰ってきてしまった。妻にそのことを話すと、「ちゃんと検査してもらわないとだめよ。明日大学病院に一緒にいってあげるからMRIとかいう検査をお願いしましょうよ」ということで、翌日別の総合病院を受診したのだった。
 このケースが示しているのは、症例1で示したように、医学的診断治療に必要な情報である「主訴」となにを求めて受診したのかという「受診理由」が異なっていたということである。つまり、主訴=頭痛(Headache)、 受診理由=「くも膜下出血が心配」ということだった。
 患者は何か心身の異常を感じたり、怪我をしたりすると、「これは医者にいったほうがいい」と決断し、受診する。むろん、あまりに症状が重かければ、「この症状をなんとかしてほしい!」ということになり、主訴イコール受診理由になる。しかしプライマリ・ケア外来では、患者は自分でなんらかの決断をして受診にいたる。しかも、同じ程度の頭痛であっても、医師にかかるものもいれば、手持ちの鎮痛薬で様子をみるものもある。「医者にかかろう」と考えるなんらかのドライブがかかる理由は様々である。重い病気ではないだろうかという不安、こういう時は医者にいったほうがいいという家族内の基準、うつ気分がありものごとを悪い方にとらえてしまう状態、ライフイベントがあった、会社で医者にかかるように指示された、などがあり得るが、それらはすべて心理社会的な内容である。

 つまり、なんらかの相談で外来を訪れる患者は、医学的な主訴という医学生物学的分析が必要な要因への対応とともに、受診理由という心理社会的要因に対する対応が必要なのである。この診療の構造的特徴をかかりつけ医は熟知している必要がある。
 
症例3 1才男児が予約にてDTP1期4回目で来院。転居にて本日初診である。体温37.0℃、元気いっぱいでニコニコしている。

 この子にこれから先何かあったらまた、来院してほしいと思っているのだが、それではどうするか?

 それは、母子というユニットで考えることである。

 まずは、母親に育児上困っていることを聞くことが大切であり、質問に答えるスキルがなければならない。母子手帳を読み解く力、第1子にありがちな相談に応じる力が必要である。次に、母親の健康状態について気を配ること、とくに妊娠中に指摘されていた問題(尿糖陽性や高血圧など)を本人自身が無視している場合もしばしばある。母親の健康相談にものれるようなプレゼンスをもてば、よりかかりつけ医らしくなるだろう。

症例4 54才の鮮魚店主、男性である。2日前より急に腰痛が生じて来院。自治体健診は毎年受けているが、中性脂肪高値のみ指摘されている。

 一般的な症状に関する危険なサイン(red flags)をかかりつけ医は知っていなければならない。たとえば、急性の腰痛で高熱が出ていたら、菌血症・椎間板炎などを考慮する必要があるので「危険」である。しかし、実際には診療所では歩いて受診する腰痛患者が多いことと、歩いてこられるのであればほとんどは病歴と身体診察のみでよく、精密検査はいらないものである。

 そして、受診理由を明らかにする。

 痛み自体をなんとかしたいのか、あるいは、我慢は出来る程度だが、仕事上支障になって困っているのか、それを把握するスキルが欲しい。腰痛で、そうした診察をせずに漫然と専門科に紹介するような習慣になると、その問題で相談しに来院することが殆どなくなる可能性が高い。かかりつけ医はなんでも診れるようになる必要はないが、なんでも相談にのって問題解決への道筋をつけることはできなければならない。
 なお、中性脂肪軽度上昇なら、「健診でなにかいわれていませんか?」ときくと「特に何も言われていない」と答える患者は多い。健診異常は、しばしば患者自身の健康信念によって解釈されているので要注意である。「中性脂肪や尿酸はどうですか?」と的をしぼってきくとよい。

症例5 62才の男性会社員が、10年来の高血圧症で定期受診。血圧132/72であった。

 高血圧症のガイドラインは見たことがないという開業医は案外多い。医学教育においても、病棟研修中に高血圧症の治療がディスカッションになることはほとんどないし、外来研修でも、安定した問題ということで検討対象にならないこともある。

 しかし、診療所においては、血圧で薬を飲んでいるということはどのような意味があるのか。何のために、そして治療のゴールは何なのか。その根拠をかかりつけ医は知らなくてはならない。総合病院に安定した高血圧で通院するようになったきっかけが、それまで通院していた開業医では、高血圧についての説明をもとめても、あまりくわしい説明がなかったことである、という話はしばしば経験するところである。
 また、62歳ならば、定年の問題に注目すべきである。定年は非常に大きなライフイベントであり、そこから生活習慣の変化など、別の問題が生じていることもあり得る。「そろそろ定年ですね」という声かけは、隠れた、しかし重要な問題に気づくきっかけになるだろう。

症例6 54才女性で専業主婦。6ヶ月前に2型糖尿病指摘されて、食事指導、運動指導受けている。経口剤内服にて、HbA1c 10.8⇒9.4とコントロールは不良。娘17才、息子16才、夫59才、義母82才と同居。現時点では合併症はない。

 かかりつけ医はその患者の家族のことを把握すべきであるが、すべての患者に一律に家族の状態を聞くというわけではない。

 家族図を作成するべきトリガーがある。

 なんとなく治療がうまくいかない、どうも共通の理解基盤に立てない、服薬指導をしても飲まない、などがトリガーになる。

 この患者も実は薬を服用していなかった。そのような場合、カメラにたとえると、広角レンズを使ってアプローチするのが、かかりつけ医としての開業医の方法論である。一歩引いて患者の全景を診る。家族ライフサイクル論からすると、思春期の子供のいる家族は夫婦間満足度が最低ということである。思春期のこどもは激変期で、家族内ストレスも大きい。また54歳という年齢は親の介護に当面する年齢でもある。このような状況からこの患者が「自分の病気どころではない」と思っている可能性がある。そういう想像力をはたらかせることだ。

 実際この患者が糖尿病であるということを知っていた家族メンバーはいなかった。

 ではどうするか。まず、夫を呼べばよい。「こんど一度ご家族と一緒に来ていただけませんか?」という声かけはしばしば有効である。一般に思われているほど家族ケアは難しくはない。話すことで患者の振り返りが深まり変化が生じるものである。医師が「導く」べきなどと考えるべきではない。

 

症例7 18才 男子高校生が大学受験のための診断書作成希望で来院

 私は、現在の診療所に赴任してから約25年で、この高校生は乳児健診から診ているが、定期通院が必要な慢性の病気はない。しかしなにかあると来院している。慢性疾患はないが彼にとって私はかかりつけ医である。

 かかりつけ医とはある病気を継続的にフォローアップする医師という意味ではない。 その地域で暮らしていくうえで、医師が必要な場面があるとき、まず思い浮かぶ医師が、本来のかかりつけ医である。インフラみたいなものである。

 街が機能するためにさまざまな商店や学校などが必須のコンポーネントとしてあるが、とりあえずなんでも相談にのれるかかりつけ医もそうした共同体が存立するための要件のひとつである。こうした事例にやりがいを感じたときに、その開業医はかかりつけ医としてのマインドセットを獲得したといえるだろう。


症例8  89才の女性が来院。主症状は「夜間尿失禁」である。同居の息子夫婦に連れられて来院した。

 かかりつけ医としての開業医に今後求められる役割は、高齢者、特に虚弱高齢者のケアである。この領域についてのスキルを磨かないと、経営的にも厳しくなるだろう。通常の医学生物学的診断治療のみで解決可能な健康問題の割合は、虚弱高齢者の場合は約半分である。日本の老年医学に関する教育は貧弱なので、老年医学を、その基本的な視点も含めて学ぶことは、開業医の生涯教育上きわめて重要である。
 高齢者は漠然とした症状が多いので、まず、この人はどのような生活をしているかを調べる。ADL、IADL、認知機能、社会的サポート状況は最低限聴取したい。
 結局、この患者はもともと糖尿病、心不全で他院に通院していた。利尿剤が最近増量され、夜間尿が増えた。もともと膝関節症で動きがおそく、白内障の悪化でくらい廊下をトイレまで歩くのが困難だった。これらの要因が重なって、夜の排尿が間に合わなくなったことがわかった。これらに病態生理学的な因果関係はなかった。問題が累積した結果である。虚弱高齢者ケアにおいては、主訴に関係なく、全体を評価することが必要である。高齢者ケアは視野が広くないとできない。

ちょっと、まとめてみます。


患者さんへのアプローチ法:受診理由を探るための声かけのポイント

1.生活機能への影響は?
患者の健康問題は、患者自身の日々の生活、ADLなどの日常生活動作、あるいは仕事、学校生活などにどのような影響を及ぼしているか。
2.解釈モデルは?
患者は自分の健康問題は何に由来していると考えているか、その原因、今後の見通しをどう考えているか。
3.現在の感情は?
患者は自分の健康問題についてどういう感情をもっているか、あるいは感じているか。特にどのような不安をいだいているか
4.医療への期待は?
患者は医師あるいは医療者、施設に何を期待しているのか、何を求めて来院したのか。

After Party

 

 

13年前の「教育学」VS「家庭医療」の対談を読み直す

 今回のエントリーは,今からおよそ13年前に,当時東京大学教育学部教授でおられた佐藤学先生との雑誌企画対談を収録したいと思います。すでに,この記事を手に入れることは、現時点ではほぼ不可能なため,手元の資料をもとに再構成してみました。実際に出版されたときとは微妙に異なっていますが、ほぼ雰囲気は再現できました。

 この対談には現在の僕たちが直面する問題群や重要なキーワードがたくさんでてきますし,どのようなベクトルで行動すればいいのかのヒントが随所にあらわれているため,ぜひ若いヘルスケア・プロフェッショナルの人たちに読んで欲しいとおもったのでした。またベテランの医療者も自身の歩みを振り返るきっかけになると思います。

 当時は卒後臨床研修必修化を受けて,医学教育に関する言説が花盛りの時期で,僕もその一端にいた関係で,このような異例の対談が実現したのでした。

 今読み返すと,このときに自分が考えていたことが今も自分自身の課題になっていること,そして佐藤学先生からの影響の大きさに気づきます。

 それでは,スタートです!

 

藤沼(康樹) 僕自身が、診療所でプライマリ・ケアといって、(患者さんの病気について)最初に相談にのる仕事をしています。この雑誌の読者には、そういう方が多いのですが、教師というか、教えるものとしての仕事がすごく多いのが特徴です。もちろん、患者さんの病気について何かを教えるということがありますが、同僚である看護師さんたちと一緒に勉強をしたり、最近は研修医を受けたりもしていますので、教育にかかわる機会が増えています。
 あともう1つ、すごく重大な問題があって、生涯教育といって、医師としての自分自身をどう「教え」アップデートするか,あるいは成長していくかというようなことがあって、「教育」というのは、プライマリ・ケアの中でのキーワードだと思っています。その点で、先生の“プロフェッショナル論”というのは、僕らにとって非常に新しい視点でしたし、示唆的だなと思いました。


佐藤(学) いま、お話をうかがって、なるほどと思ったのですが、僕は、教師教育の研究という点で専門家教育に関心をもっているのですが、教師というのは、英語で“teaching profession”といいます。しかし、現在の教師たち、特に創造的に仕事をしているとか、社会的役割をきちんと果たしている教師たちの仕事を見ていますと、教えるよりも、はるかに学ぶウェイトが大きくなっています。
 だから僕は、21世紀の教師は“learning profession”、学びの専門家になるべきだと思っているんです。


藤沼 カッコいいですね!


佐藤 カッコいいでしょう?(笑)。 いつも思うんだけど、僕って、なんでこんなに次から次へとカッコいい言葉が出てくるんだろうって。天才じゃないかと思うんですよ(笑)。まあ、それはいいとして、“learning profession”だと思うんです。
 ところが、振り返ってみますと、“learning profession”は教師だけではなくて、医者とか、弁護士とか、大学の研究者のように、いわゆる専門職、広くprofessionalと呼ばれる人たち全員がそうで、何らかのかたちで教える仕事に携わっている人たちの学びのウェイトは、むしろうんと大きくなっているんじゃないかと思うのです。
 逆にいうなら、学びが豊かにならないprofessionalには仕事ができなくなってきている状況が広がっているのではないかと思うのです。これをやや理論的にいうならば、近代の専門職の規定の枠をもう1つ枠を超えたところに、新しい専門家が登場している。これは、われわれが無意識のうちなのですが、その状況に応じて、必要に迫られて、そういう状況を迎えているわけで、専門職の概念が大きな転換点を迎えていると考えるべきではないかと思っています。
 その問題を考える際に、いちばんネックになるのは、日本にはまだprofessionalという概念がないことです。これが最大の桎梏だと思っています。昨今、さまざまな専門職大学院が創られていますけれども、その多くは実務家の養成という発想ですよね。一方は、学問研究に専念する大学院ということで、完全に対極に分かれています。


藤沼 医者でもそうだと思います。


佐藤 そうですよね。そういう発想ですよね。
 日本で専門家という場合、その多くがspecialistを意味すると思うのですが、英語のspecialistを日本語に翻訳すると同じ「専門家」になってしまうものだから、professionalとの区別がつかない。だから、日本の中には専門家、専門職という意味のprofessionalという概念がほとんど成立していないのです。僕は、これがまず突破しなければいけない、大きな問題だと思っています。


藤沼 なるほど。


佐藤 そこで、professionとは何かということです。もともとprofessという言葉は、神様の宣託を受けた者、神の使命を引き受けた者のことです。ですから、professionalを最初に与えられたのは牧師です。その次にprofessionalと呼ばれたのはprofessor、大学教授です。その次が医者で、次が弁護士、その次が教師です。
 このことが意味しているのは、いわば人知を超えた仕事、本来、神様が行うべき仕事を、神様に代わってするということです。これが、近代になってきますと、神様が消えますから、残ったものは2つです。1つはpublic mission=公共的使命です。公共の福祉に貢献する、missionによって規定されている職業です。それからもう1つは、科学知識と技術です。医療が神様に代わって、祈りの作業から手当てに変る。よくいわれるhospitalというのはhospitality、つまりおもてなしだったわけです。それから、手当てにはhanding onという言葉があるように、手を置いて苦痛を和らげることです。ですから、中世の医療というのは修道院で行われました。
 それは、治療を行うと同時に、痛みを分かち合って、さらにいうと死を看取ったわけです。そういう宗教的な意味合いと、現実の医療とが一体になっていき、その中で技術の部分だけが突出して近代の専門職を創りだしました。ですから、近代の専門職というのは、基本的に科学技術に支えられているわけです。
 そういう意味での専門職ですから、そこでの実践というのは、科学技術を合理的に適用するのだという考え方です。もちろん、ここで専門分化は始まっているのですが、ともあれ、その近代の専門職がいま、壁に当たっていると僕は見ています。もともとmissionと専門的な知識・技術、そして社会的責任にによって支えられていた  professionalの概念がないので、専門家教育が(本当の意味の)専門家教育にならないわけです。


藤沼 ちょっと政治的な話になってしまうのですが、先生はこの本の中で、教育の公共性がネオコンみたいなかたちで失われていって、ある意味、市場原理の中で本来、公共性をもっている学校が、ショッピングモールのようになっていると…(おっしゃっています)。
 たぶん医療も、かなりそういう側面があると思います。


佐藤 あるでしょうね。


藤沼 たとえば患者さんのことを、最近はconsumerといったりします。
 そのあたりのことでいうと、医者は、今度はconsumerに合わせてどういう商品を提供するのかという発想で技術を身につけたりしなければならないのではないか?みたいな傾向が、けっこうここのところあって、そのあたりが医学教育の現場にも影響しているかなと思っています。
 僕なんかは、先生のおっしゃるpublic missionというのはすごく重要だと思います。たぶん、いまの医学教育というのは、ある意味でbiomedicalモデルでかなり押していきますから、医師にイメージというのは、ある意味で車の修理に近くなっているかもしれません。つまり、故障しているのはどこで、それをどういうふうに修理するかを勉強するというイメージです。ところが、医学部に入るときには、ぜんぜんそうじゃなくて、わりと「社会のためになるにはどうするか」とか、「どうしたら人の役に立てるだろうか」という感じで入ってくるのですが、だんだんそれが風化していってしまって、けっこうcynicalになるんです。


佐藤 まったくそうですよね。


藤沼 そのあたりの状況というのは、先生のご著書を読んでいると、学校の先生たちが陥っている状況と似ているなと思ったんです。


佐藤 医療も教育も似ていると思うんですが、末端に行くと、二極分解しているんじゃないでしょうか。ある宗教家が面白いことを言っているんですが、「いまや、宗教的なものは教会から最も遠いところにある」と。これは納得できますよね。つまり、教会が宗教性を失っているわけですよ。日本の寺院もそうですよね。宗教的な事柄が、ほんとうに宗教的なものとしてあるのは、いちばん末端の、宗教とはおよそ縁のない人たちのところにあって、彼らは祈ることで宗教的なものの価値を引き出しているわけです。そういう面は、やはりあると思います。
 だから、医療においても、最も医療的なものは、もしかすると大学の医学部から最も遠いところにあるのかもしれない。それで、プライマリケアに従事されている方の中に二極分解が起こっているんじゃないかと推察するのです。


藤沼 かなり当てはまると思います。


佐藤 これは教育もそうですが、一方では、サービスになり、商品になってconsumerに消費されていく医療がある。そしてもう一方では、サービスではなく責任なのだというかたちで、患者の問題を引き受けていく医療がある。そうやって引き受けていく中で、医療のもつmissionの意味とか、医療の深い知恵や高い技術といったものが改めて問い直されていくというかたちではないでしょうか。


藤沼 先生のご著書には、たとえば学校が危機に瀕しているというときに、たしかに制度的な問題解決法というのがあるんだけれども、存在論的な問い方で、「教師とは何か」とか、「学校とは何なのか」「教育って何なんだ?」というようなことを問い直さない限り改革はあり得ないという書き方をされていました。いまの医療は、たぶんそういうところがあって、「医者って何だ?」「医療とは何だ?」ということを問い直す時期にきているんだと思います。
 そこで、先生の「学び」という言葉、いい学びとは何かということなのですが、特定の技術のエキスパートとか、科学的技術の適用者ということではなくて、先生が先ほどおっしゃったprofessionalとして育つための学びとはどんなものなんでしょうか。


佐藤 それはすごく難しい問題ですが、まず、professionalが使っている専門的知識や技術とはどういう性格のものかということを考えます。そのときに、僕はよく職人と比較するんです。職人の場合には模倣で学びます。


藤沼 親方に従事して学ぶ方法ですね。


佐藤 そうです。たしかに、教師や医師や弁護士の場合も、その側面があることは、あながち否定できませんよね。たとえば研修病院に行って、いい先生につくかたちで、見よう見まねでいろいろなものを吸収する部分というのが必ずあると思います。それは一種徒弟制度的な学びです。この機能を、おそらくは専門家教育は失ってはいけないと、僕は、一面ではそれを認めています。
 たとえばわれわれは研究者養成をやっていますが、これはmentoringといってteachingよりもゆるやかなかたちのもので、親方を見習うようなかたちの学びです。大学院での指導教官のことを、英語でadvisorともいいますが、mentor professorといういい方もあります。弁護士の場合も、弁護士事務所に入ると、最初はバリバリやっている人の横についてやり方を学んできますが、この要素というのは抜きがたく存在します。
 僕も、院生には「まず、俺の真似をしろ」と言います。要するに、お作法を学ぶわけです。たとえば資料の扱い方、論文発表の仕方、提示の仕方、議論の仕方といったものは、お作法として身につけないと、この業界では務まりません。そのお作法の1つ1つが、プロになっていく上では重要なわけです。
 では、職人とは何が違うかというと、経験からだけは学べない最先端の技術だとか、その道の専門家しかもっていない知識といったものがある。しかもその部分の多くは、おそらく他者の経験、自己の経験の省察から導き出されるようなもので、いわば実践知のようなものです。その知識や見識がしっかりしているから、われわれは専門家を信頼できるわけです。その点が、たぶん職人とは違う。しかし、それがどう学ばれるかとなると、ものすごく難しい問題です。
 僕はよく例に出すのは、自転車の乗り方です。「自転車に乗るには、ペダルはこう踏んで、ハンドルはこう握って…」と分析して伝えたとしても、おそらく乗れませんよね。なぜ乗れないかということですが、どんなに科学的な技術を利用しようとしても、実践的な問題の解決には独自の文法があるはずで、そこを習得しなければいけないということです。個々の要素をいくら学んでもできません。


藤沼 すると、ただ経験するだけでは駄目で、ただ真似をしていても駄目で、ただ本を読んでいても駄目だということですね。


佐藤 そうです。ちょうど、子どもが母国語は文法を意識しなくても喋れるように。だけど、それを教育するためには、それを分析的にきちんとした知識にしていかないと、専門家教育は成り立たないと僕は思っています。ですから、すぐれた医療をしている人、あるいはさまざまに複雑な問題解決に立ち会っている人たちの仕事から学びながら、それをできるだけ目に見える技術や知識のかたちにしないと、専門家教育は成り立たない。


藤沼 言語化するということですか。


佐藤 そうです。理論化するということです。implicitな、つまり見えないセオリーを発見し、啓発していく。この機能がないと、できません。そして、これはたぶん、専門家教育の中に最初から埋め込まれていると思います。
 というのは、いわゆるprofessional educationがスタートしたのは1870年代のハーヴァード大学においてなんですね。ロースクールとか、メディカルスクールが実際に専門家教育を始めたときに、採用された方法は事例研究です。ロースクールの場合は判例研究、医療の場合は臨床研究をします。そして、医学教育の場合はフレックスナー(A. Flexner)のレポートというのが1910年に出ます。これで、ジョンズホプキンス大学が、大学院における医学の専門家教育のモデルを創るわけです。このフレックスナー・レポートの中にあったのは臨床科学です。つまり、ベッドサイドで実際に臨床をしながら、それまでの医学的な専門的技術・知識を統合するというプログラムで、その前に教養教育があるということが前提で、それは共通しています。
 たぶんそれは、実践的な診断と判断のためのものだと思います。ですから、普通、教育というと知識を教育するんですけれども、専門家教育というのはeducation for judgmentといって、判断力を形成するもので、そういう独自の方法をもってきたと思うのです。専門家の学びというのは、一般の学びとは違ったスタイルをとるわけです。事例を学びながら、そこに埋め込まれた目に見えない関係とか、見えない真理というものを絶えず判断しながら行っていく。つまり、既存の医学教育の研究で、いくら最先端の知識をもっていても、それはレパートリーでしかないわけで、実際の診断から医療のプロセスに組み込んでいく能力や判断力はつきません。そういう教育が必要なんだと思います。


藤沼 僕がやっているような仕事は、「僕の専門はこれですから、こういう患者さんだけ来てください」というわけではなく、non-selectiveに患者さんをうけとめるというような側面が強く、、前もって準備するということができません。患者さんが目の前に来てから、「え?」「知らない!」「どうしたもんかな?」というようなことがすごく多い領域なんです。そういうときには、スタッフで「あの患者さんなんだけど…」みたいな感じで、ワイワイやるんですが、たしかに言語化はしていないかもしれません。経験というのはたしかにあるんですが。


佐藤 勘とか、コツとか、経験からくる洞察というのが、非常に重要な意味をもっていますよね。


藤沼 たとえば若い先生に教えるときには、実際にはケースでディスカッションをするんですけど、ケース・メソッドみたいなものを少しフォーマルにやって、それを言語化させるというのがいい方法でしょうか。


佐藤 先ほど言いましたが、近代の専門職概念の壁というのは、そこにあると思うんです。近代の専門職教育というのは、基本的に専門的な技術の実証主義によって固められてきましたので、専門分化がどんどん進みましたよね。それで明らかになった知識や技術というものを、患者のケースにおいて適用していくわけですね。


藤沼 そうですね。


佐藤 そこにいくつかの問題があって、知識の階層秩序をつくるんですね。基礎科学がいちばんトップにいて威張っています。それから応用科学があって、臨床科学があって、いちばん末端で実践に携わる人間が、いちばん下に置かれます。教師がそうです。


藤沼 医者もそうです(笑)。


佐藤 基礎科学の連中がいちばん威張ってますよね。


藤沼 う~ん(笑)。


佐藤 個別になればなるほど、地位が落ちていくんですね。これは変な話です。患者にいちばん近いところが、いちばん貶められているんですから。しかも、この教育方法というのが、基礎から順番に入っていくんです。教職もそうで、教育原理から入って、だんだん専門分化して、最後に実習です。
 この知のヒエラルキーの構造というのが、壁にぶち当たっているんです。そのことを最初に指摘したのは、ドナルド・ショーン(Donald Schön)という哲学者です。“Reflective Practitioner”という概念で「反省的実践家」といっている本ですが、technical expertはもはや市民が直面している問題をまったく扱えなくなっているというんです。それはなぜかというと、自分の専門じゃないと切ってしまうからです。


藤沼 なるほど。


佐藤 それから、患者の声を聞こうともしないで、診断して、当てはめるだけです。いまの市民というのは、非常に複雑な社会環境や医療状況の泥沼であえいでいるわけです。それを、高みの見物をしているようなものだという立派な批判です。


藤沼 重要な指摘だと思います。


佐藤 やはり、いま活躍している専門家たちは、皆、そのドロ沼に降りて行って、患者と一緒に格闘しているじゃないか。それが、従来の専門職の考え方をずいぶん変えているのだというわけです。そしてそのときには、先ほど言いました、勘やコツが働くし、経験から学んだり、他の専門家と協働で仕事をする。そういう新しい専門家が登場していると、おっしゃっている本なんです。
 これは1983年に出た本ですが、僕は80年代の終わりに読んで衝撃を受けて、「これだ!」と思いました。それで翻訳したのですが、医者も、教師も、弁護士もそうですが、専門家がいま直面しているのはこの問題ではないかと思いました。


藤沼 医療も相当細分化していて「これは自分の領域じゃないな」と判断したり、「自分の領域だ」と判断したりするような、けっこうselectionせざるを得ない構造があるんですよね。だから、その点では、先生のおっしゃるような弊害が、たしかにいま出つつあると思います。
 ところで、たとえば経験から学ぶといったときに、間違えて学ぶ場合というのがありますよね。ある意味、独りよがりだったりとか、自分で納得したはいいけれども、端から見ると違うという話もあったりしますが、そのあたりでいい振り返りをするというか、省察するにはどういうふうにしたらいいんでしょう。


佐藤 これは面白い問題で、近代の専門職というのは確実性、certaintyという原理で動いているんですね。つまり、あるケースに対して、ある確実な知識や技術が緻密につくられているものほど高い専門性を与えられてきたわけです。それで、医者はトップに立ち、教師の専門性は低いとされている。なぜ教師が低いかというと、不確実性が多すぎるからです。


藤沼 primary careもそういうような扱いかもしれません。


佐藤 ところがよくよく見ると、実際には医者の仕事だって不確実性に満ちている。それを被いかくしてきただけだったんじゃないかと見えるわけです。
 専門家、つまりprofessionalのもう1つの定義をいえば、絶えず不確実性と向き合っているということで、これはほかの仕事、つまり技術者や職人と違うところです。彼らは、確実性の中で仕事をしていますが、医者にしろ、弁護士にしろ、教師にしろ、不確実性との向き合い方によって度量が決まるし、世界の開かれ方が違うと思うんです。そのときに必要なのは、「引き受ける」ということだと思うんですよ。


藤沼 覚悟ということですね。


佐藤 そう。患者を引き受けること、教師でいえば子どもを引き受けることです。自分の教科は数学だから、それ以外の悩みには応じないというのは簡単なんだけれども、やはり引き受ける(のが教師です)。そして、引き受けるところから学びがスタートする。
たぶん、いま言われた誤った学びというのも、不確実性が引き起こすものだと思います。ですから、それはpositiveな要素に転換できると思います。それには、やはり「きちんと引き受ける」こと、つまりその引き受け方において確かであることですね。それとやはり、同僚どうしで学びあうことですね。1人で学ばない。


藤沼 共同の学びですね。


佐藤 そうです。医者どうし、そして専門を越えた人たちの意見にきちんと耳を傾けて学びあうような機会を増やすしか、これには方法がないと思います。
 教師の場合には、不確実性が非常に多いものですから、学びは絶対に1人では行わないです。同僚と一緒に行います。ですから、教師の専門家としての成長は、1人では絶対に起こりません。絶えず先輩がいたり、同僚がいたりと、ともに学ぶ人間、ともに育つ人間が存在します。


藤沼 なるほど。
 話題を少し変えますが、従来、卒後研修で有名な病院とか、人気のある施設というのは、かなりcompetitiveで、そこへ入るのも大変ですし、入ってからも競争が大変です。けっこう争わせて、駄目な人は落ちていっていいかなというような雰囲気があったり…。そういうところで勝ち残ったような方たちが、臨床研修をけっこう語ってたり…。ところが、いくつかの病院では――たとえば麻生飯塚病院なんかがそうだと聞いていますが――研修医をグループとしてどう形成するかを重視しているそうです。そこの先生って井村(洋)先生なんですけど、キャラでチームを組ませる(笑)らしいです。採用するときにも、キャラで採って、いつもチームでやらせるみたいな(笑)。例えば、何か講義をするときには、研修医自身ににテーマを決めさせて、自分たちで講義しあうような形をつくるような、協同学習のようなことを重視しているようです。で、けっこうここが若い人に人気があって、いまおっしゃった、皆で一緒に学ぶみたいなことなんですが、若い人たちは、けっこうそれを求めているようです。でも多くの教育病院では、上のほうの先生たちはそうじゃなくて、「鉄は熱いうちに鍛えろ!」みたいな感じなんです。


佐藤 いわゆるトレーニングですね。


藤沼 研修医が好むやり方と、指導医がよいと信じているやり方が矛盾になってるみたいなんですよね。


佐藤 僕は、学びというのは必ず境界線を越えるものだから、越境、border crossingだといっているんです。それから、学びというのは必ず差異、differenceの中にある。だから、同一集団を作っても意味はなくて、できるだけ対論能力とか、個性(の差異)があるところに学びは成立する


藤沼 似たようなやつばかりじゃ駄目だということですね。


佐藤 そうです。学びというのは面白くて、教えるという行為は、どうやったって教科書にいくんです。知識も教科書にいくし、権力的にも教科書を引いてしまうんです。僕は、教育というのはそういう作業だと思っているんです。だから教育はいいとか、悪いとかじゃなくて、教育は必ず教科書を引いていくものです。ところが、学びというのは必ずそれを越えていっちゃうんです。だから、学びというのは公共性に開かれていると思うんです。
 その教科書による教育と、教会を越える学びとがあいまって、どちらも生きてくるんだというふうに考えているんです。


藤沼 境界線を越えるというのは、例えば、教師は学習者をコントロールできないという感じですか。


佐藤 たとえば、きょうこうやって対談しているのも、境界線を越えているわけです。そうでしょう?


藤沼 (笑)。


佐藤 普段はお会いすることもない、初めて出会った方、それもprimary careの専門家と僕のように教育のことしかわからない人とが一緒に、境界を越えながら探り合っているわけです。そして面白いことに、境界線というのは暴力と差別が発生する場所でもあるんです。ここで取っ組み合いがあるかもわからないんです。
 そういう意味で、学びというのはほんとうに面白い。1人で学ぶという場合には、やはりトレーニングになっちゃうんです。だから僕は、『ケイコとマナブ』に引っかけて、「稽古と学びは違う」って言ってるんです。
 稽古はpattern practice、あるいは既にわかっていることの習得なんですが、学びは不確実性への挑戦、未知への旅なんです。そのどちらも必要だと思いますが、いま決定的にかけているのは学びの要素だと、僕は思っているんです。既にわかった技術や知識を習得するだけで、いい医者になれるのか、いい専門家になれるのかといったら、大いに疑問です。むしろ、曖昧なものに対して開かれていくこと、あるいは複雑なものと格闘することが世界への開かれ方です


藤沼 いろんな生涯教育講座がありますが、たとえば「心電図の見方」だとか、「最近の病気の概念」だとかを勉強するというかたちのレクチャー多いのですが、どことなく、役に立たない感じがあるんですよ。さっきおっしゃったように、「ふだん悩んでいることと、ちょっと違うなあ」という感じがあります。


佐藤 もちろん、そういう知識というのは大事で、それをないがしろにしているつもりはサラサラないんですが、僕は、それはレパートリーでしか機能しないと言っているんです。料理のレシピをいくらたくさん持っていても(それだけでは意味がなくて)、実際に限られた材料と条件の中で、どういうお料理をつくるかというのが「腕」でしょう? そこの部分は、絶えず経験を通し、他者と一緒に学ぶ部分が大きいんだろうと思うんです。


藤沼 診療所の先生というのは、わりと1人のことが多いんです。開業の先生方も多くは1人です。たぶんその人たちがまとまって何かのグループを形成して、経験交流やディスカッションをしたりすることが、今後は生涯教育として(必要かもしれません)。


佐藤 それは、ほんとうは重要なことだと思います。学びはネットワーキングなんです。個々に孤立されている状況を、どうやってネットワーキングしていくか。
現在、世界的に最も注目されている学習理論は、フィンランドヘルシンキ大学の教授の、エンゲストローム(Y. Engeström)さんという方が提唱されている「拡張された学習」という理論です。この方は、やはりネットワーキングで考えています。
 僕は彼と親しくて、昨年も(東京大学で)一緒にシンポジウムをやったんですが、その彼がいちばん最近出した本が、実は医療の本なんです。それはとても面白くて、患者を中心にして、複数の医者たちがネットワーキングするんです。なぜそんなことをするかということですが、たいていの患者さんの症状は複合的でしょう? 1人の患者さんが、いくつも医者を回っている場合が多いわけですが、情報は全部分散しているわけです。そしてさらに深刻な問題は、いま、医療費が湯水のごとく使われていることです。これをネットワーキングすることによって、最小限に抑えることができますよね。
 これは、医療保険を最も有効に使うシステムでもあると同時に、医者どうしが多領域の専門家と協働することによって、専門家としての学びの機会を増やすことにもなるし、患者はあっちこっちで同じ血液検査をしなくて済む。データを共有し、複数の目で見ることによって十全な看護を受けられる。そういうことを、いまシステムとして開発しているんですよ。


藤沼 そういう試みが教育学から発信されているというのは面白いですね。


佐藤 ええ、こういう教育学者が現れているんです。私は、来年、調査にいこうと思っています。医療現場における学びなんですが、僕は、実はこの本を翻訳したいと思っているんです。これは、医療関係者に大きな転換点をもたらすと思いますよ。だって、日本でも、このままいったら医療保険はパンクしちゃうでしょう?


藤沼 病診連携とか、診診連携とかいう業界用語があるんですが、せいぜい手紙のやりとりとか、個人的なつながりでうまくできるか…ぐらいのものなんです。それがうまくいったら、たとえばコンピュータ上に共通のデータベースを持とうというレベル(です)。たぶんこの先生がいっているのは、先ほどの教育における共同の学びみたいなことですか。


佐藤 学びから拡張して、学習社会というものを考えるとわかりやすいですよね。専門かも学び、患者も学ぶ。そういう社会全体を通して、医療の改善とか、医療費負担の軽減とか、保険の円滑な活用といったものがシステムとしてできあがるじゃないですか。これは、もっともっと考えていいことだと思います。


藤沼 learningをキーコンセプトにするという感じですね。なるほど。


佐藤 学びという点で、ちょっとお答えしていなかった部分があると思うんですが、われわれは、「勉強」には慣れてきたと思うんですよ。


藤沼 たしかに(笑)。


佐藤 だけど、学びというとどうも漠然としてしまうところがあります。しかし、勉強と学びとは決定的に違うと思うんです。何が違うかというと、勉強というのはいつも終わりのスタンプです。「よくできました」のスタンプ。


藤沼 最終的には修了証がつくということですね。


佐藤 そうです。だけど、学びはいつも始まりを準備するんです。1つ学ぶと次ぎの世界がパッと開ける。だから、絶えず始まりを経験することになってくるんですね。その点で、ずいぶん違うということになります。
 これをつきつめていうなら、僕は、勉強には出会いと対話がないと思うんです。しかし、学びはいつも、出会いと対話なんです。新しい対象、新しい世界と出会い、新しい他者と出会い、新しい自分と出会う。そして、それらとの対話。つまり、対象との対話、他者との対話、自己との対話という3つの対話のシステムから成っている。これを学びと呼びます
 古今西洋の学びというのを見てみますと、実は2つの伝統をもっています。1つは、修養としての学びで、自己完成を目指すもので、これは日本の伝統の中にもありますし、西洋の修道院の学びなどがそれです。これは自分の内側を充実させて、完成に導くという感覚です。
 もう一方では、ソクラテス以来の対話の伝統です。対話を通して未知の世界を旅するということです。そのことによって、自分と世界との関係、自分と他者との関係、そして自分と自分の関係、この3つの関係を創りだしながら進んでいくようなもので、僕はそれを学びと呼んでいるんです。


藤沼 それで思い出したんですが、オランダのマーストリヒト大学という、医学教育で有名な大学があるんですが、そこで、医者にprofessionalismを教えるときの3つの領域というものがあります。それは、dealing with work、dealing with others、そしてdealing with yourselfです。これと同じですね。


佐藤 まったく同じです。


藤沼 そうすると、先生のおっしゃった学びというのは、professionalismとつながりますね。


佐藤 まったくつながります。
 これは私は、あるとき、天才的にひらめいたんです(笑)。「学びというのは、3つの対話的実践だ」と。


藤沼 いいキャッチコピーですね!(笑)


佐藤 それ以来、僕は「学習」という言葉は使わずに、「学び」といってきました。「教え」「学び」というのは宗教臭いなと、ちょっと思いましたが、それが10年ぐらい前です。いまや、「学び」という言葉は社会全体に広がっているでしょう? 皆が使うようになってしまった。


藤沼 あ、先生が最初ですか?


佐藤 僕が、本家本元です(笑)。


藤沼 失礼しました(笑)。


佐藤 以後、お見知りおきを(笑)。でも、こんなに広まるとは思わなかった。学習では嫌だし、勉強は使い古されて固着しているし、それを突破するには「学び」しかないです。Learningというのが動詞形じゃないですか。だから「学び」ということによって、動詞形の学習の概念を生み出さないと、この閉塞状況は突破できないと思ったんです。それが「学び」ということを言った最初で、ちょっとためらいながら使ったんですが、あっという間に広まりました。この本を出した頃です。
 それで逆に、いかにいまの人々が「学び」に飢えているかを知らされました。それはたぶん、何ものとも出会わない(でいるからでしょう)。新しい仕事とも出会わない、新しい他者とも出会わない、新しい自分とも出会わないような、閉じた社会なんですね。これを開くという意味において、いまおっしゃったdealing with workです。僕は、dealing with situation、あるいはconversation with situationと言ったんです。状況と対話する。そして、他者と対話――dialog with othersし、dialog with myselfです。
 この「学び」の3つの要素が、実は非常に複雑にからみあっています。だから、新しい知識を得たときには、必ず新しい他者との関係をつくっていくんですね。そして、新しい自分を見出すわけです。そういう循環、これが「学び」だと思っています。特に専門家の場合は、そういう要素を中核にもっているのではないか。


藤沼 たしかに、いまの生涯教育は勉強に近いなぁ。


佐藤 そうでしょうね。
 またちょっとカッコいいことを言いますが、専門家には2つのポケットが必要なんです。1つは、いろいろなケースについて、「やっぱり確かだ」という知識を入れる確実性のポケットです。もう1つは、曖昧なもの、不確実なものをいつまでも入れておくポケットです
 で、後者のポケットを持っていないと、「学び」は起こらないです。


藤沼 それが欠けてますね。生涯教育の中では、ほとんどやられていないかもしれない。インフォーマルなかたちでは、いろいろなディスカッションとしてやられていると思いますが、それが実は重要なのだというかたちでは出していないと思います。


佐藤 教師も同じなんです。だから、教師の話は全部が美談になってしまう。成功談になっちゃうんです。


藤沼 医者も、たしかにそうです(笑)。


佐藤 だけど、ほんとうに学ばなければいけないのは失敗のほうからなんですよ。不自由さのほうです。これが見れないんですね。それはたぶん、確実性でしか知識や認識を創っていかないからだと思います。だけど、一線の仕事をしている人は、間違いなく不確実性のほうを大前提にしてますね。わからないもの、曖昧なものを、いつまでも抱え込んでいて、だから胃が痛くなるんですけどね(笑)。
 僕は、小さい頃に医者にばかりかかったものだから、大の医者嫌いで、薬も大嫌いなので、たまに飲むとよく効きますよ。歯磨き粉でも効くんじゃないかと思うくらいです(笑)。
 いまは、過剰な医療にべったり依存しているでしょう? たとえば胃が痛くて医者のところへいくと、内視鏡で見て、「潰瘍ができてる」というので、内視鏡で取って「はい、終わりました」といって治療が終わる。そうすると、次には痔にくるみたいな話で、要するに大元(おおもと)の問題は何も解決していないですよね。要するに、ストレスフルな生活だとか、生き方、ものの考え方などの全体が、その病気にからんでいるわけだから、切るとしたらどんどん切って、体中を切らなきゃいけない。そういう患者さんがいっぱいいるわけじゃないですか。
 これはオフレコかもしれないけど、僕は大学院生の頃に潰瘍で入院したことがあるんです。ほんとうに苦しい思いをしたので、そのときの主治医の先生に、「もう僕は、酒もタバコもやめます」って言ったんです。そしたら、「それは絶対にやめたほうがいい。あなたのように神経質で、ストレスフルな人間は、むしろ酒やタバコを愉しみなさい。そのほうが、はるかに健康にいいよ」と言われて、ガーン!ときましたね。それで、いまだにやめてないですけどね(笑)。
 それはともかく、全体状況の中で診るというのはすごく大事じゃないですか。


藤沼 おっしゃるとおりです。


佐藤 そういう医者なら、信頼して任せることができる。やはり、これを切ったら、次はこれ…となるのはひどい状態でしょう?


藤沼 先生がおっしゃったことは、bio-psycho-social モデルとかいわれていて、疾患に対するアプローチの仕方について、社会的決定因子などをきちんと考えるべきだというけれども、アカデミーの世界ではまだまだマイナー(な考え方)なんですよ。そして、そういう見方と関連する領域がprimary careと老年医学とリハビリテーションと緩和ケアで、この4つというのは、従来の心臓外科だとか、脳外科だとかの病気とは趣きを異にしていて、たぶんパラダイムみたいなものが違うのかなと思っています。先生がおっしゃったようなところは、言われてはいるんだけれども、具体的にどう教育するのかということについて、あまり方法論をもっていないと思うんです。


佐藤 たとえば、素人ながら思うのは、最近は遺伝子解析がそうとう進んできているわけですよね。ある病気に対してはある遺伝子との関係が密接にリンクしているわけでしょう? ところが、いままでの医学の薬にしろ、治療法にしろ、それらは言ってみれば症状に対する効果の統計的な処理によってやられてきたわけですよね。


藤沼 そうですね。


佐藤 「これが効くはずだ」「これが有効なはずだ」というやり方をしてきたわけじゃないですか。そこへ、もう一方から遺伝子が出てくると、「(いままでのやり方は)何だったんだ?」という話が生まれるわけでしょう? つまり、症状というのは、ほんとうは個別的なもののはずで、治療法というのも個別的なはずなんですよね。それを統計的に処理するということだけでやってきたいままでの薬や療法というのは、もっと患者の固有性に即した認識の仕方をしないと駄目だったということでしょう?


藤沼 そうですね。ゲノムでガーッといくとこまでいくと、逆にこうまわって、もともとの個別性のモデルに出会うということになります。


佐藤 そういうことですよね。逆にいうと、すぐれた医者というのは、個々の患者の個別性、その患者ならではの症状の中に、きちんと、有効と思われるような医療でも疑いながら取り組んでいく医者だったはずですよね。いま、それが実証されていると思うんです。
 たしかに振り返ってみますと、そういうお医者さんはいます。僕の親友が調子が悪くて、どこの医者に行っても、病院に行っても(原因がわからなくて)駄目なんですが、やっぱりおかしいというので、最後に東大の付属病院に行ったんです。そしたら、そこの先生が、パッと診ただけで「これは難病中の難病です」と言われたんですって。先生は、どこで判断されたんですかと聞いたら、「あなたが歩いてきたときに、足音がちょっと変だったんです」と言われたんだそうです。
 それがずっと引っかかっていたので調べてみたというんですね。これは、僕にはよくわかる話なんです。僕も、学校へ行って教師の診断をやったり、援助をしたりします。そうすると、わからないことがあるんですよ。そういうときに、ちょっと気になることを見つけて、そこからたどりなおしてみて、「こういうことだったんだ」とあとからわかることがすごくあります。
 いまのその先生なんかは、症例というものをきわめて個別的なものと考えながら、いままでの知識を総動員して診察しているわけです。


藤沼 とても不思議なのは、“マスター”といわれるような臨床家の先生というのは、普通の経験なのに、それが特殊な形の長期記憶になってるんですね(笑)。


佐藤 そうそう。


藤沼 それを統合するから…。


佐藤 これは、説明しようがないんですよ。
 僕は、いままでに1万ぐらいの教室を見ています。1つの学校へ行くと全部の教室を見るんですが、1つの教室は2~3分です。これぐらい授業を見てくると、2~3分入っていると、そのクラスのどの子がどういう問題を抱えているか、みんなわかります。そして、その教師がどういう経歴を経て、いま、何に悩んでいるのかもわかっちゃうんです。そういうものなんであって、それを説明しろと言われてもできない。要するに、匂いのようなものなんですね。
 でも、その部分を、どうやれば現場に還元できるかは、研究の課題として自分に課しています。たぶん、そういう部分も含めた専門性というのが、今後、問われるんじゃないでしょうか。
 もう1つ、私のほうから医療へのお願いがあるんです。それは、ケアとキュアの関係についてです。
 ケアの部分は看護師さん、キュアはお医者さんがやっていますよね。患者の側から見ると、どっちも同じくらい大事なことです。だけど、いまの病院や医学のシステムでは、キュアのほうばかりが突出していて、ケアの人たちは地位においても下に置かれています。
 僕が、もし自分が入院するなら、ケアがセンターになっていて、そこにお医者さんが登場してキュアをやってくれる、そういう病院を求めたいですね。しかし、これはなかなかない。


藤沼 先生がおっしゃっていた、エデュケア(Edu-Care)ということですね。先生は、ケアのことをけっこう書かれていますが、教育の部分とケアの部分とが…。


佐藤 僕は、同じだと思っているんです。もともと、教育というのは子育てですから、ケアがベースにあったはずなんですね。ところが、いまの学校はケアを中心に置いていません。ケアというのは応答です。応答から始りますから、相手の脆さや叫び声を聞いて、受け止めるところから始るんです。
 先ほど「引き受ける」ところから始ると言ったのは、ケアを基盤に置こうということなんです。しかも、ケアはprofessionalの仕事じゃないんですね。日常的に、親密な立場でしかできない仕事です。だから、caringとcounselingはぜんぜん違います。


藤沼 なるほど、違いますね。


佐藤 counselingは専門家が、特定の時間にやるものです。たぶん医療もそうだし、教育もそうだけど、いちばん根柢にケアの関係がないと(駄目です)。僕は、ケアを「心くだき」「身くだき」と言っていますが、相手のために心をくだく、身をくだく。そして、そういう関係が親密な他者の中にあってはじめて、医療が成立するんだと思うんです。
 たとえば、天涯孤独な人で、病院に入院して喜ぶ人っているじゃないですか。看護師さんとお話しできて、もう退院したくないという人。


藤沼 いらっしゃいますね。


佐藤 そういう人は、病院を出てしまうと、また病気になってしまう。誰もケアする関係がないからですよね。


藤沼 先生、そんな医療の現実までよくご存知ですね(笑)。


佐藤 そういう人は、周りにいっぱいいます。だから、ケアの機能がもっときちんと生きていて、看護師さんが輝いて見える病院、お医者さんが威張っていない病院が理想ですね。


藤沼 最近の米国では、医療機関メディカルホーム(medical home)にしようという運動があります。この「ホーム」というのは、“わが家”なんですよね。医療が、あまりにもconsumerと販売店の関係みたいなことになっているので、(そういう考えが出てきたのだと思います)。そこへ行けば、自分のことを知ってくれている人がいて、長期的な障害をもっている子どもについて、そこのスタッフは皆、その子のことを知っていて、親のことを知っていて、親は(子どもを診る上での)パートナーだと(いう考え方をする)。
 もともと病院というのはそういうものだし、診療所というのはもともとそういうところだったんじゃないかという運動があって、これは先生のお話しとも呼応する部分があるんじゃないかと思います。


佐藤 学校も、ほんとうはホームにならなきゃいけないんですよね。なぜなら、人間はファミリーはなくても生きていけるけれども、ホームなしでは生きていけないと思うからです。縦家族はいなくても大丈夫だけど、自分の身を置ける場所、親密な他者に守られている場所がホームですよね。あらゆる社会施設が、ホームの要素をもつべきなのではないかと思ってしまうんです。
 そんなことを言ったら、学校はそこまでする必要はない、病院がそこまでする必要はないという議論が出てきます。もちろん、そういう議論はあるんだけど、ファミリーがなく、ホームがない人たちが、子どもにも、大人にも、老人にも増えているなかで、ホームの機能を社会全体が創りだしていくことが、絶対に必要だと思います。


藤沼 僕も校医をしていましたが、毎年、苗字が変わる子とか、きょうだいが4人いて、全員親が違うとかいう子がいたりします。家族はいるが、居場所=ホームがない。


佐藤 僕は、法務省からの依頼で少年院の委員をしているんですが、少年院に入っている犯罪少年たちは、何よりも少年院を出ることを怖がるわけですよ。これは、知られていない事実です。彼らには、少年院がホームなんです。初めて得られたホームなんですね。ホームのないところへまた出たら、また犯罪を犯すんじゃないかという恐怖がものすごいんです。


藤沼 ホームでは守られているわけですね。


佐藤 そうです。そういうのを見ていると、いろいろな社会施設がホームの機能をもって、同時に専門家が機能する。その両方を兼ね備える必要があると思うんです。ただ、これを下手にやるとまずいことになるんですね。日本でケアというと、何か温かい、やさしい心みたいなことになってしまうからおかしいんです。そうなってしまうと、老人が病院にたむろしてしまう、みたいな状況を生んでしまいます。そうではなくて、むしろ自立のためのホームなんですが、依存のためのホームになってしまってはミもフタもありません。
 でも、新しい医療のあり方としては、ホームの機能、ケアの機能を、もっと中心に置いていいのではないかと思います。


藤沼 先生の書かれた学校改革の本を何冊か読ませていただいたのですが、いま、医療機関というのはある意味で叩かれています。病院での事故をはじめとしていろんな意味で危機的状況にあると言っていいと思います。
 先生の(専門分野の)学校というのも、一時期すごく危機的でしたが、改革にかなり成功した事例もいろいろ報告されていますが、両者には相通ずるものがあるような気がしています。


佐藤 そうでしょうね。


藤沼 先生が書かれていた浜之郷小学校の例ですと、学びの権利の実現ということが1つと、もう1つ、教師たちが専門家として学び、育ちあう学校づくりということを挙げられていますが、これを病院に置き換えると、患者の権利というか、健康に対する権利の実現ということと、そこに働く職員たちが学び、育ちあうということで、かなり同じ方向かなと思ったんですが。


佐藤 たいていの学校改革って失敗してるんです。それにはいくつか理由がありますが、逆にいうと、僕の推進する学びの共同体づくりではほんとうに奇跡的なことが起こりますから、僕もびっくりします。たとえば、荒れきった中学校や高校が、1年も経たないうちに、子どもたちが1人のこらず学びに向かい出す。1人のこらず、何の問題もなくなります。学びあうというのは、こんなに重要なことなのかと思い知らされます。
 特に子どもの場合には、学びつづけているかぎり、友だちが崩れようと、家族が崩れようと、本人は絶対に崩れません。これが、僕の学んできたことです。学びに向かっていたら絶対に崩れない。これは小学生でもそうです。おとうちゃん、おかあちゃん覚せい剤打ってて、おにいちゃんはシンナー中毒だって、その横で黙々と学びます。すごいですよ。


藤沼 人間には、もともともっている学ぶ力みたなものがあるんでしょうか。


佐藤 子どもにとって学ぶ権利というのは、希望そのものなんです。これを捨ててしまうということは、自分を捨てることなんですね。将来を捨てるということなんです。
それと同時に、もう1つの真実は、一度学びに絶望した子、学びを捨てた子というのは、いとも簡単に崩れます。たとえば「友だちが悪口を言った」「先生が信じられなくなった」というと、それで世の中が信じられなくなり、大人全体が信じられなくなり、社会全体を恨むようになり、自分自身に対しても暴力的、破滅的になってしまいます。


藤沼 勉強ではなく、学びですね。


佐藤 そうです。そこで(私が)つかんだことは、ひとり残らず、子どもたちの学ぶ権利を保障する学校をどう創るかということです。ただ、それは不可能です。なぜできないか。それには理由があるんです。誰も、その責任を取っていないからです。
 学校で、その責任者は誰かというと、普通、担任だといいますが、担任は責任者ではないです。責任者は校長です。だから、欧米の学校は(定員)150人以上(の規模では)つくらないです。1人ひとりに責任が問われるから。
 日本では、(校長は)建物の責任はもつけれども、子どもに責任をもっていないから、平気で800人とか、900人の学校をつくります。だから、まずは校長に、1人ひとりの子どもの学ぶ権利を保障できるような責任を取らせることが必要です。


藤沼 僕らには、学校に対してあまりそういうイメージをもってないですね。


佐藤 ないでしょうね。でも、それはやれないことじゃないんです。教室を見て回って、先生たちを援助することが1つと、教師は専門家ですから、それぞれ考え方も違うし、持ち分も違うんですね。その多様性を生かして、1人ひとり教師が、その学校におけるmissionを見出していくことです。そして、自分の仕事は意味のある仕事なのだと、生きがいを見出していくことです。・・・的になりますからね。そのことと、専門家としての知識なり、力量を高めていく。
 そのことを求めていない教師はいません。医者も、看護師もそうでしょう? そういう学びあいがほんとうにできれば、これは実現できると思っていますし、事実、それをやると革命的なことが起こるわけです。


藤沼 やってみたくなってきた(笑)。


佐藤 学びの共同体としての病院ですね。これは、挑戦する価値ありますよね。ただ、ここで重要なのは、教師だけでは絶対にできないということです。子どもの力をかりなければムリなんですが、皆、これが抜けてるんです。3分の2は、子供たちを主人公になって創っていくんです。3分の1を教師がやっていく。そしてそのときの一番の根っこは、聞きあう関係だということです。主張しあう関係じゃなくて、聞きあう関係です。聞きあう関係というのは、引き受けあう関係です。ですから、listen to the others voiceというのが改革のスローガンです。自己主張ばかりしていても、誰も聞かないです。
聞けるようになると、お互いが引き受けあうようになっていくんですね。そういう学校をつくると、実に静かな、穏やかな学校になります。教会のように静かで、皆が満足している。自然体でにこやかです。嘘みたいでしょう?


藤沼 具体的には、どういう働きかけをされるんですか。


佐藤 3年ぐらいかけて、教室の中での共同の学びあいといって、小グループで難しい問題に取り組んでもらいます。そういう学びを、どんどん創り出します。
 中学校には、オール1の子どもも、オール5の子どももいますよね。そこで能力別編制をやったら駄目なんですが、一緒にしておいて、高校レベルとか、大学レベルの難しい課題を与えると、解けるようになるんですよ。学びあう関係ができれば、ものすごい高いレベルにいけるんです。そしたら、そのレベルを下げないことです。
 学校改革は、公共性、民主主義、それから卓越性の追求、僕はこの3つの原理で進めています。この卓越性、excellenceというのは、人と比べて自分のところのほうがいいとか、隣の学校と比べてうちのほうが学力が高いといった、競争的卓越性ではありません。医者が、「この患者ならこのレベル」というふうにやってしまったらおしまいでしょう? いまいる患者と状況の中で、最高のものを追求するじゃないですか。それでこそprofessionです。これは子どもも同じで、「この子はこのレベルだから」「このクラスはこういう状況だから」といって避けては駄目で、学びも最高のものに挑戦しようということです。これが卓越性です。
 そういう励みあいになったときに、人間というのはものすごい力をもって関係や場を、しかも、自然に創っていきます。気の流れみたいなものが、うまく起こってくるんです。そういう場所を創りたいんです。
 昔、世阿弥の『花伝書』を読んでいて、すごい言葉に出会ったんです。それは、「態」と書いて「わざ」と読ませるんです。つまり、技術というのをそういうふうに考えたんですね。要するに、人の関係というのは鋳型で、そこに態(わざ)を埋め込んでいく。だから、医療の技術にしろ、教育の技術にしろ、技術だけを教えて、それを適用するようなものではたぶんない。ほんとうに生きている「わざ」というのは、関係という鋳型の中にあるんですね。あるいは、もっといえば「引き受け方」の中にある。
そこに、専門家である教師や医者のもっているすべての知的水準と経験とが、凝縮してあると思えばいいわけです。面白いですよ、そういう研究をすると。そして、それをお互いが学びあうようになると、研修は面白いです。


藤沼 面白いと思います。


佐藤 そうでしょう? だから、僕らはビデオを活用するんです。医療もそうでしょう? オペの場面とかで使うじゃないですか。「わざ」の世界っていうのかな。


藤沼 ほかの人のやっていることを、単にまねるんじゃなくて…。


佐藤 発見していくんです。本人も気づいていないことを。


藤沼 あ、本人が気づいてないんですね。なるほど。


佐藤 「なんであのときに、待ったをかけたの?」「どうしてあのオペを、ちょっと中断したの?」「なんであのときに血液の状態にチェックを入れたの?」と、そういうことは研究する価値、大いにありなんです。そこから、ものすごい世界が開けるんですから。


藤沼 読者には、医者になり立てでちょうどトレーニングを開始したぐらいの人たちもいるのですが、そういう方たちに何かメッセージがあれば、ぜひお願いします。


佐藤 医療の仕事というのは、尊い仕事だということを何よりも(大事にしてください)。たぶん、いまの医学教育の中では、ご本人は気がつかないと思うんです。僕は、医学部の学生と接触する機会もありますし、前に学生たちにインタビューしたこともあるのですが、いちばん感じたのはその点です。
 教師もそうなんです。自分たちのやっている仕事が、きわめて尊い仕事であることの自覚というか、誇りを失わないでいただきたいなと思います。それはたぶん、すごく大きな世界だろうと思います。いまの医学教育の中では、きょうお話ししたような、ある種のholistic approach、primary careが大事にする「患者を引き受ける」ということ、「引き受けて、一緒に問題解決にあたる」という、この部分が抜けていると思いますし、missionの教育も抜けていると思います。何のために医療をやっているのかということです。それともう1つ、職業倫理の教育も抜けていると思います。これは責任の問題です。私たちは、社会に対してある責任を担っているということです。
 アメリカの医学教育には、「医者はベッドのそばで育つ」という言葉があるそうです。患者の状況との接点に、いつもいちばん大切なものがあるということでしょう。たぶん、近代の専門職がいちばん下に置いたところに、いちばん大切なものがあるのだという、その発想を大切にしていただきたいと思います。それがたぶん、これからの時代における医療従事者、医学研究者のいちばんのポイントかなというふうに思います。僕自身も、教育学というのをそういうふうに考えてきましたし、そこにはほんとうに面白い、重要な世界がありますよということを、メッセージとして伝えたいと思います。

 

このエントリーは「JIM」2006年05月号 (通常号) ( Vol.16 No.5)に掲載された,「JIMで語ろう “学び”は越境する―教育の革命家と家庭医との対話から」佐藤学・藤沼康樹に若干の加筆訂正を加えたものです

 

Untitled

かかりつけ医機能を本気で身につけるには?

 日医かかりつけ医機能研修制度については、日本医師会「かかりつけ医機能」に関して以下のように「定義」を明示しているところに注目すべきであろう。

 

1.患者中心の医療の実践

2.継続性を重視した医療の実践

3.チーム医療、多職種連携の実践

4.社会的な保健・医療・介護・福祉活動の実践

5.地域の特性に応じた医療の実践

6.在宅医療の実践

 

 この1.〜6.で列挙された項目に使われている用語が国際的に通用する内実のある用語として用いられているとすれば、これらを実践できる能力=コンピテンシーは、現代的な意味での地域基盤型プライマリ・ケア担当総合診療医、すなわち家庭医(General PractitionerあるいはFamily Doctor)と「全く」同義である。

 これらのコンピテンシーを身につけるためにいわゆる専門研修プログラム(レジデンシー)があるのであってみれば、これらのコンピテンシー群を、出自がきわめて多様な日本の開業医、診療所医師、一部の病院医師などの現実にプライマリ・ケアを担っている、担わざるを得ない医師集団に実装するための方略は相当困難であることが予想される。すくなくともこれまで様々な国とそこにおけるヘルスケアシステムが取り組んできたそのようなプログラムは相当練り込まれたものだったが、エストニア等を除けば必ずしも成功しているわけではない。

 少なくとも日本医師会のこのプログラムが採用しているような、講義&見学あるいはシャドゥイングといった方略で、国際常識にみあう家庭医のコンピテンシーを実装できると想定するのは、あまりに非現実的であり、ある種のExcuseではないかという疑念をもつむきもあるだろうと思われる。おそらく実際に運営側もそう考えていないのではないだろうか。

 ところで、私自身も中心メンバーのひとりとなって6年前に構想・構築した以下の慈恵医大の家庭医療ブラッシュアッププロジェクトは、実は現在はじまった日医かかりつけ医機能研修制度と、奇しくも同じ対象と目的を想定したものであった。

 このプロジェクトの3年間の運営経験から現時点で言える教訓は、

1.10人以内の学習コミュニティ形成がもっとも重要である。学習共同体Learning communityの形成については、参加する医師の出自がバラバラでよく、同じ地域の医師である必要はない。助け合い、学び合う気風は日常業務で疲れた医師の間でも発生しうることを実感した。

2.自ら課題設定し、調べ、発表=共有する成人学習の原則を徹底すること。成人学習理論は一部のシニカル理性の医師の間でいわれているような「虚妄」ではない。

3.テーマ別の講義、疾患別の講義ではなく、複雑なケース・事例にもとに放射的なディスカッションに基づく課題設定のプロセスが重要であること。

4.自分で担当したテーマについては、文献だけでなく、自分の診療圏に関連した役所や地域の多職種などに直接会いにいって、インタビューしたり、ケースを共有する中で深める参加者が多かった。これも成人学習の原則を自然に参加者が生かしていた。

5.やはり月1回のFace-to-FaceのDirect Communicationの機会が重要であり、すべて遠隔ではなかなか学習が進まないこと。

6.このコースの修了生がファシリテータとして成長しうること

7.費用に関しては、参加者が本当に意義のある学びだと感じれば、ある意味「いくらでも」出すという意見が多かったこと。

 といったところである。

 まとめよう。かかりつけ医機能を、それなりに意欲のある既存プライマリ・ケア担当医に実装させたいのなら、現在行われている「日医型」ではなく

  • 成人学習理論に基づくカリキュラム構築
  • 学習コミュニティの形成

 の2つがポイントである。カリキュラムの原型はすでに開発済みである。

 まずは1年間継続する10名からなる学習コミュニティを全国に100くらい作ること、各県に2つくらいのコミュニティを形成してみよう。そこでCase-basedの月一回の4時間位のセッションを実施するのだ。ファシリテータは新世代の家庭医療専門医や総合診療専門医が担ってくれるだろう。このコースが2−3クールできれば、コース修了者がファシリテータを担うことができるだろう。

 そして、学習コミュニティはコース修了後も継続することが可能であり、メンバーの日常診療の重要なリソースとして機能するだろう。

 今後日本の10年間において、真のかかりつけ医機能=家庭医のコンピテンシーのプライマリ・ケア医への実装は重要課題である。日医が自らのパブリックイメージ〜昭和レガシー的既得権益集団という一般のイメージ〜からの脱却を本気で考えるなら、こうした大胆な施策にリソースを投入すべきだと思うのだ。

 

Wall of Portraits 1

 

ブログとインターネット

 長らくブログ更新できずにいましたが、代替としてPodcast配信などしておりました。しかしながら、更新していないにもかかわらず毎月1000以上のビューがあり、古いエントリーもよく読んでおられる熱心な読者の方たちがいることを知り、大変もうしわけなく思っております。

 実は2018年暮れから今年のはじめに体調を崩して入院治療などしておりました。2月20日現在は、ほぼ通常生活にもどり、仕事や発信なども普通にできるようになっております。病いとはなにか、現代の病院の文化とはなにか、患者は何を忖度して入院生活や外来通院を続けるのかなど、多くの気付きと発見がありました。また、SNSなどを通じて多くの方からの励ましの言葉も頂戴し、たいへんありがたく思っております。

 最近はSNS、特に脊髄反射的なTwitter言論や嗜癖性の高いYouTube動画のようなあまり良質とはいえないインターネットの日本的状態が指摘されているように思います。しかし、ポッドキャストそしてかろうじてブログは、自由で開放的で生産的な古き良きインターネット(?)文化がまだ生きているように思います。ということで、以前のような論文型の書き込みは相対的に少なくなりますが、このブログ更新と活性化を心がけていきたいと思います。ブログのタイトルもマイナーチェンジしております。

 また、中断していた写真撮影も再開して、ブログに活用していく計画です。

 開かれた言論空間、例えば、評論家の宇野常寛さんが提唱している「遅いインターネット計画」に、自分も寄与していきたいと思います。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

Wall of Portraits 2

 

高齢者多疾患併存、その診療のコツ

日本における多疾患併存の現状はまだまだ明らかになっていない

 多疾患併存(Multimorbidity)とはいくつかの慢性疾患各々が病態生理的に関連するしないにかかわらず「併存」している状態であり、診療の中心となる疾患を設定しがたい状態をいいます。例えば、慢性心不全骨粗しょう症、転倒傾向、糖尿病、慢性閉塞性肺疾患うつ状態を伴う血管性認知症が併存するような場合をおもいうかべてみてください。

 多疾患併存の状態では、どの科の専門家が中心となるべきかが明確になりにくく、ケアが科別に分断され、容易にポリファーマシーや予期せぬ入院などを生じやすいとされます。

 現在ワールドワイドでプライマリ・ケア研究における最もホットなトピックスが多疾患併存です。しかしながら先進国の中でこの問題に、今まさに直面しているはずの日本では、最近までほとんど研究がなかったのです。しかし、最近私達(CFMD)のレジデンシー出身の家庭医療専門医で、現在京都大学所属の青木拓也Drらの先駆的な研究[1]により、日本おける以下のような状況が一定明らかになってきています。

1.悪性疾患+消化器疾患+泌尿器疾患+心血管疾患+代謝性疾患の組み合わせの他疾患併存では顕著な多剤投薬状態になっている

2.悪性疾患+消化器疾患+泌尿器疾患、呼吸器疾患+皮膚疾患、骨疾患+関節疾患+消化器疾患の3つのパターンの他疾患併存では、一日の服薬の回数がより頻繁になっている

  

多疾患併存における治療負担の視点とアプローチの方向性

 複数以上の慢性疾患をもつ患者は、様々な治療に対しておおきな負担感を感じています。May[2]はこうした患者の負担を治療負担(Treatment burden)と呼び、注意を促しました。治療負担の主たる要素には、

*治療とその目的を学ばなければならないこと

*服薬などの治療に対するアドヒアランスを維持すること

*ライフスタイルを変え、治療のモニタリングを自分で行うこと

などがあります。

 この治療負担とうまく折り合いをつけて生活するために、「疾患の知識」「社会的サポート」「レジリエンス」が患者には必要となります。

 見方を変えれば、治療負担を軽減し、治療負担に耐えられるように援助するということが多疾患併存のマネージメントであるともいえるでしょう。

 

高齢者多疾患併存へのアプローチのコツ

 多疾患併存への臨床アプローチは、まだ確立したものないといえます[3][4]。ただ、私自身はその「コツ」といえるようなものはあると考えています。それをいくつか紹介します。

1.患者及び家族と「どこを治療やケアの落とし所にするか?」を探っていくという姿勢をもつことです。疾患毎の診療ガイドラインの推奨の「加算」がベストの治療であるとういう認識からはスッパリと縁を切りましょう。

 

2.まず一歩ひいて全体をつかみましょう。高齢者においては、主症状が特定の疾患の診断と直結する頻度はおよそ40%であるという研究もあります[5]ADLIADL、認知機能、社会サポートなどに関する評価をおこない、生活の様子を具体的にイメージできるようにしましょう。そして僅かであっても改善可能なポイント群があれば、チームでアプローチするのです。

 

3.通院している医療機関代替医療施設をリストアップし、最新状況を把握しましょう。どのくらいの頻度で、何が行われているのかを具体的に把握し、OTC利用もしらべておきたいですね。そして、多くの専門科が関わっている場合、その役割を再評価し、処方などの一本化をめざしましょう。

4.高齢者多疾患併存でキーとなる疾患及び健康問題は、私の経験上、

慢性心不全

慢性閉塞性肺疾患

認知症

筋骨格系の慢性疼痛

孤独と貧困

であると思います。

 これらに対する必要最低限かつ根拠のある投薬にくわえて、非薬物治療(食事や運動、鍼灸等)の積極利用、ソーシャル・サポートの構築などをこころがけましょう。

 

5.80才以上で、双極性障害統合失調症で通院している患者も多いものです。担当精神科医と積極的に情報交換すると事態が整理される場合が多いようです。

 

6.治療負担になりやすい高齢者の骨粗鬆症治療に関して、その適応を慎重に判断しましょう。

 

 総じて高齢者多疾患併存へのアプローチは、患者の価値観、生活ルーチンの持つ意味等「主体としての患者」を診るという医療ジェネラリズムの本質につながるところがあると私は考えています。

 真の主治医意識を持って取り組むとよい結果が得られることが多いと思います。

 

[1]: AOKI, Takuya, et al. Multimorbidity patterns in relation to polypharmacy and dosage frequency: a nationwide, cross-sectional study in a Japanese population. Scientific reports, 2018, 8.1: 3806.

[2]: May C, et al: We need minimally disruptive medicine. BMJ, 339: 485–487. 2009

[3]: Smith, S. M., Soubhi, H., Fortin, M., Hudon, C., & O’Dowd, T. (2012). Managing patients with multimorbidity: systematic review of interventions in primary care and community settings. Bmj, 345, e5205.

[4]: WALLACE, Emma, et al. Managing patients with multimorbidity in primary care. bmj, 2015, 350.jan20 2: h176.

 

[5]: Fried, L. P., Storer, D. J., King, D. E., & Lodder, F. (1991). Diagnosis of illness presentation in the elderly. Journal of the American Geriatrics Society, 39(2), 117-123.

 

注)このエントリーは医学書院「総合診療」2018年8月号に寄稿したものに加筆訂正を加えたものです

The Line

看護研究が家庭医療に寄与するもの

Introduction

 看護研究に医師が日常的に接するという場面はこれまであまりなかったのではないかと思います。看護研究は看護の研究であって、医師の仕事や役割は看護とはちがうところにあるとかんがえられていたこともその原因のひとつでしょう。看護師と医師はそれぞれ独自のプロフェッショナルアイデンティティがあるということは、以前にくらべてかなり明確に医療会では意識されてきていると思います。むろん一部の古い世代では、看護は医師の補助、介助の仕事であるというふうな言説はのこっていて、看護師が行う看護研究の具体的イメージがまったくもてていない現状もあると思います。さらに、医師の卒前医学教育では、専門職連携教育(IPE)が徐々にひろがりつつあって、看護師の職能を理解する機会は増えてきています。例えば、すくなくとも看護の独自業務としての、保助看法における「療養上の世話」に対する認識は医師の間でもかなり理解されてきたといえるでしょう。しかし、看護学あるいは看護研究とは何かといった内容のカリキュラムが医学部で行われているという話は、あまりききません。

 しかしながら、結論からいうと私が専門とするプライマリ・ケア、家庭医療学、医学教育の領域では、看護研究の成果は極めて有用だと考えています。

 

看護研究と家庭医療学

 家庭医療学(Family Medicine)とは、シンプルにいえば「質の高いプライマリ・ケアを地域住民に効果的、効率的かつ公平に提供することに資する学問領域」のことです。そして、プライマリ・ケアに従事する医師の基盤的学問でもあります。ただし、日本においては歴史的にプライマリ・ケアの担い手医師は、専門医である開業医により多く担われてきました。感染症が主たる健康問題だった時代には非常に有効なシステムでした。しかし、慢性疾患から退行性変化へ健康転換がすすむとともに、現代に必要なプライマリ・ケア医をそれとして養成する必要性が認識されるようになり、海外ではスタンダードな存在である家庭医やGP(一般医)が注目され、その基盤となる学問領域としての家庭医療学も認知度が上がってきています。

 さて、上述した家庭医療学の定義の一つ一つの言葉を取り上げてみると「プライマリ・ケア」「質」「地域」「住民」「効果的」「効率的」「公平」といったキーワードが、研究の領域を示すといえるので、狭義の医学研究である「疾患を対象とする生物医学的な研究」にとどまらないものであることが理解できると思います。こうした家庭医療学のパースペクティブStangeらはGeneralist Wheel[1]として俯瞰的に提示しています。プライマリ・ケア担当の総合診療医である家庭医が現場で遭遇し、解決・安定化を求められる領域、具体的対象の例、研究方法を整理すると

1)臨床医 自己への気付き、省察ジャーナリング

2)関係性 対人関係 参与観察

3)患者・家族・地域社会 個々の価値 深いインタビュー

4)正義 社会的価値 政策分析

5)システム 組織 ヘルスサービス研究

6)優先順位 医療の価値 費用効果分析

7)疾患 自然科学的対象 疫学や実験医学

8)情報技能 根拠に基づく医療(EBM) 教育学

9)統合 ヘルスケアと癒し 越境的研究や混合研究

の9つとされ、医学生物学、疫学、医療社会学、人類学、心理学、政策科学など多くの学問領域がクロスオーバーしている領域であることがわかります。こうした領域設定は、あきらかに現代的な看護研究とホモロジーがあり、しかも研究方法論に関して共有できるものもすくなくありません。

 ただし、北米やヨーロッパにおいてさえ、家庭医療学への研究ファンドは必ずしも多くありません。しかし、プライマリ・ケアの重要性は各国の医療保健政策のステイクホルダーにはよく理解されており、近年急速に発展してきている分野といえます。

 

卒後医師研修、医学教育と質的看護研究

 次に、医学教育、特に卒後研修において看護研究の成果を導入した経験を紹介したいと思います。

 臨床の場面において、複雑な(complex)問題に直面した際に若い医師が抱えやすいいくつかの困難性がありますが、その中の一つに「複雑であることをどのように分析・記述し、伝え、共有すればいいのかわからない」ということがあります。

 実際に経験した教育事例ですが、あるレジデント(専攻医)が癌のエンドステージの患者の受け持ち医になりました。丁寧に家族に病状を説明した翌日、患者の家族に呼び止められ「うちのひとは、大丈夫なんでしょうか?」と聞かれたので、ふたたび丁寧に説明したのですが、その次の日も家族に病棟で呼び止められ、説明をしたとのことでした。ベッドサイドの回診のときも家族に「つかまって」しまい長い話をきかされたり、さらに状態安定しているので、家に帰れるうちに帰りましょうと提案すると「家ではとても面倒見れないです」と断られたとのことでした。専攻医は私に「どうも話が通じない、理解の悪い家族」だと思うが、どうしたらいいのでしょうという相談をしたのです。

 そもそも人間は、論理や仮説に基づく行動をしないことがしばしばあり、人間の主観とそれに内在する不合理性に焦点をあてなければうまく説明できない現実が多く存在します。特に生身の人間に向き合う医療現場ではしばしば困難な問題としてそれが立ち現れます。こうしたことに対しては、質的看護研究による様々な対象研究と理論構築が参考になります。複雑困難な事例を前にして、その事例をフレーミングする枠組みや記述するボキャブラリーが「自分自身の人生経験」しかなければ、ただ困惑するだけでしょう。 

 私は、平 [2]による終末期がん患者を看取る家族が様々な緊張状態とどのようにして折り合い、乗り越えているのか?という問いに対する質的研究を専攻医に紹介しました。この研究では家族が折り合うためのストラテジーとして、「状況や自分の行動を受け入れる」「面倒や負担から自分を守る」「可能な添い方を試みる」といったカテゴリーを抽出しています。終末期のケアにおいて、家族が何度も病状の説明を求めたり,「本当に治らないのでしょうか?」「何かよい治療がほかにあるんじゃないでしょうか?」といったことについて若い医師が対応する場合、そうした家族の行動を「病状理解が十分でない」と評価しがちですが、この質的研究によれば家族は状況を受け入れるための「吟味」をしていると理解することができます。また,自宅への退院をすすめる際に「この状態では家にかえれない」「入院をつづけてください」と家族から意見が出た場合「自宅での介護にあまり熱心ではない」などと評価しがちですが、実際には状況に折り合いをつけるために「家族を守る」という戦略を採用していると理解することができます。質的看護研究の中には、医療における複雑で困難な状況を理解するためのタームとモデルを提供しているものがあります。専攻医はこの研究論文を読み、自分の患者やその家族の捉え方が、狭かったことに気づき、この家族への対応を看護師と相談しながら、うまく行うことができるようになりました。

 別の事例を紹介します。超高齢社会である日本において、定期訪問診療はプライマリ・ケアにたずさわる医師にとって非常に重要な仕事となってきています。一人の若いレジデントがある単身生活の高齢者の定期訪問診療を担当していました。「一人暮らしで寂しくないですか?」ときくと、「さびしいときもあるね・・・」というこたえがかえってきて、施設で生活したほうが、他の人もいるし気が紛れていいのではないか」と私に相談したのでした。

 通常若い医師は、家族としては、自分とその周辺の家族くらいしか知らなかったりするので、「正常」にみえる家族構成はかなり狭い場合があり、単身世帯だったり、少し変則的な家族に出会ったりすると、ハッピーにみえなくて、なんとかならないのか!と考えてしまったりします。

 この医師の指導する側としては、「この方のQOLはどうなんだろうね?」と問いかけてみました。このときに、たとえば一定の数の単身生活高齢者を対象にして、なんらかのQOL測定ツール(例えばSF-36)によるサーベイを実施したという研究は、果たして役にたつでしょうか?私の考えでは、むしろ田村[3]によるひとり暮らしの高齢女性のQOLに関してグラウンデッド・セオリーを用いた質的研究論文の方が役にたちます。この研究によると、ひとり暮らしの高齢女性のQOLは「しあわせ型」「心残り型」「あきらめ型」「うらみ・くやみ型」の4パターンに識別され、特に「一人暮らしをどうして選んだのか」という要因が重要で、特に自分で意識的に選んだレイヤーは「しあわせ型」と「心残り型」に集中するという知見が非常に興味深いと思います。論文自体もいきいきと記述されており、すでに発表されてから20年以上が経過していますが、いまでも色あせない印象があります。この論文をこのレジデントに読ませたところ「自分の人に対するみかたの幅の狭さを実感した」「この枠組みを念頭に、患者さんと対話してみたいと思う」とコメントが得られました。

 この教育事例にように、優れた質的看護研究はそれを読むこと自体が医師に対してきわめて教育的であるということがわかります。

 対象の理解と説明、すなわち意味(meaning)の探求をめざす質的研究は、本来的には処方的研究、つまり「こういう場面ではこうしなさい」という推奨をめざすものではありません。しかし、質的看護研究との対話によって、自分自身の認知バイアスに気づき、別の視点から患者や家族に向き合えるようになるという意義は、医師にとっては非常に大きいことだと考えています。現在の日本の医学教育においては、こうした側面への教育はほとんどなく、医師個人の資質に還元されてしまうところがあり、へたをすると不適切な「オレ流」の患者さん理解が横行してしまう現状もあります。

 私は、良い質的看護研究は「医療における意味」の探求成果として、すべての医療職が共有すべきと考えています。

ヘルス・システムと看護研究

 次に、私が関心を寄せている看護研究領域として、ヘルス・システムを対象とした研究群があります。ナイチンゲールの活動の歴史をみればわかるように、もともと看護師は一定のポピュレーション(入院患者、地域住民等)に対して看護師集団として取り組むという特徴を持っています。また、病院や施設という医療やケアの環境調整、チームのスムーズな運営、指揮命令系統の最適化などが、看護師という仕事の本質と関連しています。また、この看護が対象とする「一定のポピュレーション」には地域=共同体=コミュニティも含まれます。

 看護師はしばしば個別ケアの場面でその仕事の内容が語られることが多いですが、例えば、ナイチンゲールをモデルにした藤田和日郎の手によるマンガ「ゴースト・アンド・レディー」には、個別ケアと組織マネージメントを有機的に結びつける看護師の様子が活写されています。

 たとえば、RCTなどによりその有効性、安全性が科学的にあきらかになった看護師の介入行為としての「身体抑制はしない」というエビデンスが、それまでのその施設で伝統的におこなわれてきた身体抑制をいかにゼロまでもっていくか、という課題はエビデンスをどう組織文化にしていくことができるかという研究分野でもあります。医師の場合、エビデンスに基づく医療を実践するかどうかは、あくまでその医師個人の意識の問題になっていることが多いのです。しかし、看護は組織で動きますので、どうしたらそのエビデンスを組織に実装できるのかというまったくちがった動きをします。こうした、Evidence based practice implementationEBP実装)をむしろ医師が学ぶべき時代になっていると思います。例えば、アイオワ大学の看護学部が提案している、EBPの実装プログラムであるアイオワモデル[4]はとても洗練されており、すべての医療者が一読したい内容をもっています。

 病院における医療の質の担保をどうするのか、そして安全性をどう確保するのかついては、組織変革が重要で

 さて、2006年に米国のThe National Institute of Nursing Researchが発表した、インパクトの大きい看護研究10[5]をみてみると、以下のようなテーマのヘルスシステム変革に関連した研究が多く取り上げられています。

*不十分な看護師の配置が患者のリスクを増大させる

*若者が健康的な運動食事習慣を確立することを看護師が援助できる

*看護師を中心とした多職種チームの介入により、都市部の黒人の高血圧を改善させることができる

*若いマイノリティの女性のHIVのリスクを減らすために看護師が介入できる

*高齢のヒスパニックの関節炎のセルフマネージメントを改善させる看護師による地域基盤型プログラムの効果

*ケアの場がかわることを看護師が援助することで、退院する高齢患者のアウトカムが改善する

低所得者層の母子への看護師による家庭訪問が有効である

こうしたリストの論文を読みながら、では自分の地域では、あるいは病院では何が可能かを医師も含めたチームで考え、とりくんでいくことは、とてもワクワクすることです。

まとめ

 看護学自体が極めて広大な領域を対象としており、医師にとってもその専門性によって、関心をもつ看護研究の分野は違うでしょう。たとえば、感染症の専門家なら院内の感染コントロールシステムの構築に関する研究に興味をもつだろうし、心臓血管外科なら、手術室の効率的な運営に関する研究に興味があるだろうと思います。今回の論考では家庭医であり、医療者教育をライフワークとしている私自身が看護研究をどのように利用しているかについて述べました。結局看護研究がめざすところも、家庭医療学がめざすところも、ひとりひとりの患者さんのQOLを改善させること、住民が地域の中で充実した生を生き抜くことができるよう支援することですし、同時に限られたリソースで最大のパフォーマンスを発揮することにあります。実際の医療現場だけでなく、研究においても看護師と医師が「専門職連携」をすすめ、Interprofessional researchをそれぞれの地域で進めていければと思っています。

 

[1]: Stange, K. C. et al. Developing the knowledge base of family practice. Family Medicine 33: 286-297, 2001

[2]: 平典子: 終末期がん患者を看取る家族が活用する折り合い方法の検討. 日本がん看護学会誌 21: 40-47 2007

[3]: 田村やよひ:一人暮らしの女性老人のクオリティ・オブ・ライフ 自己概念とLife Satisfactionを中心として, 看護研究, 25, 249-264, 1992

[4]: Cullen L: Strategies for Nursing Leaders to Promote Evidence-Based Practice, 看護研究 43 : 251-259. 2010

[5]: Changing Practice, Changing Lives: 10 Landmark Nursing Research Studies : National Institute of Nursing Research, U.S. Dept. of Health and Human Services, National Institutes of Health, 2006

 

なお、このエントリーは医学書院「看護研究」2016年12月号 に寄稿した原稿を元に、加筆訂正して作成したものです

 

Vacant house

日本の総合診療が学ぶべきもの

日本の総合診療は諸外国の実践から何を学ぶべきか?

 

 現在議論されている日本における総合診療が、諸外国ではどのような医療形態にあたるのかは実は明確になっていない。Family Medicine(北米、東アジアでの名称)あるはGeneral Practice(欧州、コモンウエルス圏での名称)とされるものなのか、あるいはGeneral Medicine(欧州、コモンウエルス圏での名称)あるいはGeneral Internal Medicine(北米での名称)、Hospital Medicine(米国での名称)を包含するものなのか?
 これまでの日本における総合診療に関する議論の経過とステイクホルダー達の発言をたどる限り、日本の総合診療専門医の医師像とは、

1.診療所(病院も含む)の非選択的外来診療、在宅医療、地域の保健予防活動を担うプライマリ・ケアの専門医(ほぼ家庭医療に一致する)
2.病院において必要に応じた病棟医療、一部救急医療や外来診療を担うPhysician for adult medicine≒ホスピタリスト≒(総合)内科医

 のハイブリッド型と言えるだろう。そして諸外国においてはこの二つの専門医像は異なる領域であり、これまでの世界的な常識では、同じ研修プログラムによって生み出される専門医とは考えられていないと思われる。しかし、日本の文脈でこの二つの医師像が総合診療医というひとつの名称で呼ばれていることの意味を、私は深く探るべきであろうと考えている。
 総合診療自体が、もともと最初に定義されたものではなく、これからの日本の医療においてどのような医師が必要になるのかという論点で、様々なレイヤーで行われてきた放射的な議論から「帰納的」に生み出された日本独自のコンセプトであるという認識が必要である。
 

 日本の医療あるいはヘルスケアシステムの今後を構想する上では、
1.少子高齢化と人口減少
2.経済的低成長の持続と国家財政の逼迫
3.疾病構造の変化と国民の医療に対するニーズの変化・多様化
 を基調とした上で、医療の「質」「提供の妥当性」「費用対効果」「公平性」をバランス良く保ち[1]、地域ごとに医療・介護・福祉の提供体制の最適解を追求する「地域包括ケア」を構築する必要がある。そのためには、英国など欧州に代表されるようなプライマリ・ケアを中心とした医療システムの再構築が、日本においても必要であろう。

 また地域基盤型ケアにおける統合(水平統合)と施設間連携における統合(垂直統合)が地域包括ケアの本質であるといえる。そして、水平統合は専門職連携がキーであり、垂直統合においては、医療における価値を共有した(規範的統合)連携のキーとなる専門職がそれぞれの施設に存在する必要がある。
 日本における総合診療医とは、こうしたプライマリ・ケアを中心としたヘルスケアシステム、そして地域包括ケアが機能することに資する専門医であるといえるのではないだろうか。つまり、施設のコンテキストに次第でその業務の内容を変化させ、必要な知識や技術を伸長させ、ある時期は診療所で、またある時期は病院病棟でも機能できるような医師のことといえるだろう。

 こうした医師像は、米国で家庭医が病院病棟を担っている地域にそのホモロジーをみることができるが、殆どの国では病院とプライマリ・ケアにおける役割が完全に分離しているため、直接日本が参考にできる事例は少ないと思われる。
 しかし、むしろ様々な国における家庭医療やホスピタリスト医療の構成要素をハックし、日本にビルトインすることは可能である。まずはトライしてみる、そしてきちんと評価し、フィードバックするというような試みは緊急的にも必要である。前例主義が主流の日本の医療政策立案環境において、トライ&エラー&フィードバックといったやり方は根付いたものではないが、医療システムの再構築が喫緊の課題であるがゆえに、今こそそれをやるべきではないだろうか。そこで、


1.プライマリ・ケア中心のヘルスケアシステムにおける登録制導入の重要性
2.病院医療における総合診療部門の必要性
3.総合診療医を量的質的に確保するための医学部卒前卒後教育のカリキュラム
4.各科専門医から総合診療医へのコンバートを可能とするための条件整備

 について、各国の状況から急ぎ輸入すべきものはなんだろうかと考えてみたい。

1.登録制を導入している代表的な国は英国であり, そのプライマリ・ケアシステムを参照して,様々なEU諸国が導入してきていることは周知の事実である。近年登録制を導入した先進国の成功例としてはノルウエー があげられるだろう。

 そして、すくなくともフリーアクセス自体の国民の健康へのインパクトや費用対効果へのポジティブな影響は実証されていないと思われる。おそらく日本におけるフリーアクセス「主義」は現時点ではイデオロギーでしかない。

 特に注目したいのはエストニアの試みである。1991年の独立以降,eHealth戦略のヴィジョンのもと登録制にもとづくプライマリケアの構築とエビデンスに基づく医療政策立案実行を掲げている。
 今後の日本においては,私の考えでは、逼塞状況にあるマイナンバー制度の活用と,日本の実情を加味した一定の登録制を急ぎ導入する必要があるのではないだろうか。また,この制度はかかりつけ医の診療報酬上の重視というような,患者負担を増加させる方向ではなく,むしろ登録制に乗る患者の自己負担を軽減する方向ですすめるべきであろう。


2.地域包括ケア時代における病院医療では,地域との連携,垂直統合がキーであり,規範的統合の要となる病院部門が必要である。その病院部門は総合診療部門である。この病院における総合診療診療の担い手が病院総合医と呼ばれることが多い。しかし、このモデルとして参照できる国は比較的少ない。おそらくもっとも近い構造を持つものが米国におけるホスピタリストである。ホスピタリストの主たる役割は、外来診療を担うプライマリ・ケア医(家庭医)から患者を引き継いで入院診療を行い、治療終了後は再びプライマリ・ケア医に患者を戻すことであり、病院における医療のリーダーとされていて,基本的にジェネラリストである。ほぼ成人患者を対象とするが、病棟さえも、守備範囲である限り、年齢性別、疾患を問わない事例も少なくない(成人の入院と同時に、小児の軽い肺炎や、妊婦の妊娠悪阻、出産直後の健康な母子などの入院事例を並行で診療することがある)。長くアテンディング制の伝統のある米国において,病院医療に特化した専門職は当初の予想をこえて広がってきている。

 日本のコンテキストにおいては,おそらく米国型のホスピタリスト制度の参照は部分的であろう。が,病院医師の働き方改革として「交代制」「チーム制」をとるホスピタリストの働き方は注目すべきである。また,日本の病院の医師は,プライマリ・ケア外来や救急外来,さらには在宅診療までやっていることもあり,その仕事の内容は実質的に総合診療に近いところがある。おそらく日本の総合診療は診療所から病院病棟勤務まで仕事内容にグラデーションと多様性があるといってよい。

 米国の家庭医療部門はかなりの高機能の病棟部門を持っている場合があるが,これはその部門とつながっている地域の家庭医が診ている患者のための病棟である。つまり,地域の不特定多数に開かれた病棟ではない。不特定多数に開かれているのは救急部門と一般内科病棟である。この違いは地域包括ケア時代における日本の病棟医療を考える時に極めて示唆的である。たとえば地域包括ケア病棟を担当する医師は総合診療医がベストであるといえるのではないだろうか。なお。米国のホスピタリストとして仕事をする医師の出身レジデンシーは内科及び家庭医療科であることにも注目したい。

3.総合診療医のキャリアを選ぶ医師をどう確保するかということについては,各国が苦闘している状況がある。しかし,一定のコンセンサスは出ており,オーストラリアやカナダの取り組みに注目したい。答えはシンプルであり,医学教育の場を地域に広げること,地域での医学教育に取り組む医師を確保することである。
 米国が1960年台後半に家庭医療の専門医制度を構築する際に,大学での家庭医療部門を同時に設置したが,その際にリーダーとして採用した教授陣は地域の先鋭的な総合診療医だったことを思い出すべきである。既存アカデミーの価値観の中からは,あたらしいカテゴリーのリーダーは生まれないという視点からの施策である。当時の米国においては家庭医療は明らかにイノベーションだったからである。

 日本の総合診療の発展が当初期待されたほどには生じなかった 主たる理由はここにあるのではないだろうか。既存の価値観を持つ 教員のよこすべり人事ではイノベーションがおこるはずがないからである。今からでもおそくないので,真の総合診療のリーダーをテニュアとして大学が採用し,そして大学病院の経営への貢献でエフォートを評価しないことで,日本における大学総合診療部門の再興に取り組むべきである。

4.診療各科医を総合診療医にコンバートする方略としてもっとも注目すべき国の一つは,またしてもエストニアである。1991年(旧ソ連から独立)よりプライマリヘルスケアに注力すでにプライマリケア医として働いている地域の医師、小児科医、婦人科医、救急医はパートタイムで再訓練を受けられるしくみになっている。つまり、家庭医の研修は当初オーダーメイドの再教育プログラムとして開始された。3年間におよび、最終試験を経て終了となるこのプログラムは1991年から2004年まで行われたとのことである。また、タイでは5年以上の地域医療での勤務歴があれば総合診療専門医へのアクセスの門戸をひらいている。
 シンガポールでは一度病院等で勤務した医師が家庭医を目指す場合は2つのルートがある。一つは各FM Residency programに申し込んで3年間の研修を受けるルート。もう一つが既存の勤務先で勤務を続けながら家庭医になるためのトレーニングを受けるGDFMのコースである。医師の中には現在の勤務を続けながらも家庭医療の専門医の資格を取りたいと考えている医師、家庭の事情によりResidency Programには進めない医師もいるため、そのような医師に対して2年間のパートタイムの教育を提供することで家庭医療専門医を増やしていく取り組みを行っている。これは日本が見習いたい制度である。
 いずれにしても,さまざまなルートで総合診療医へのキャリアチェンジが可能になる仕組みを至急構築すべきである。

 ただし、不幸にも日本においては総合診療専門医制度はガバナンスと理念に欠ける専門医機構がすべてをルールするといういささか前近代的なスタイルでの運営が始まっており、現場のエキスパートジェネラリストがその運営に関与できない現状がある。この状況もハックして変化をもたらすことも必要であろう。

 

[1]: Boelen, C. Prospects for change in medical education in the twenty-first century. Academic Medicine, 1995; 70(7); 21-8.

Lunch