角川インターネット講座5「ネットコミュニティの設計と力 つながる私たちの時代」

Kindle for Android近藤淳也 の 角川インターネット講座5 ネットコミュニティの設計と力 つながる私たちの時代<角川インターネット講座> (角川学芸出版全集) を読み終わりました! http://www.amazon.com/kindleforandroid/

 

興味深く読みました。

 

 はてなの近藤氏の企画により、サル学、哲学・科学史、SNSベンチャーなど様々な領域から、ネットコミュニティについてのエッセイが並びます。

 サルから人間への進化の過程でうまれたコミュニティとそのサイズの限界などについては、全く知らなかったので、面白かったです。

 また、少子高齢化社会というのは、こども+高齢者の数が増えるというふうにかんがえてみたときに、要はそうしたレイヤーは地域密着型の生活スタイル、あるいはコミュニティ基盤の生活スタイルがメインなのであって、これからの日本はコミュニティ単位で経済、産業、教育、ケア・医療を考えていくことがむしろ主流になるので、地域活性化にはこうした視点が必要というお話が印象に残りました。

 コミュニティ自体を原理的、本質的にみる視点がないと、単にリアルか、ネットか、という2分法にからめとられてしまいます。

 また、ネットコミュニティの成功事例の分析では、創設者のヴィジョン、そしてアーリーアダプターたちの熱量が、決定的に重要で、とにかく成功と成長だけをみていては、ほぼ失敗するようです。一緒にどんなおもしろい未来になるか、みてみようっていうような姿勢が必要なもようです。

 

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中年以上の家庭医がLow Performerにならないために

*まず、はじめに 

 中年以降~初老期にどんなスタイルのプライマリ・ケア医や家庭医になるかについて、意識的にならないとヤバい医者になりかねない。こうした感覚は実感としてわかる。

 勢いだけでUptoDateが保てなくなってきた年齢からが、ほんとうのプロフェッショナルとしての勝負どころだと思う。以下すこし自戒もこめて記述してみる。

 注:なお、この文章は2015年8月号に雑誌「治療」寄稿した内容に加筆訂正を加えたものである。

*ヤブ化とは
 藪医者になること、「ヤブ化」の定義はむずかしい。が、現象面ではいくらでもあげることができる。たとえば、「風邪症状にかならず抗菌薬を処方する」「多弁で症状の多い患者にベンゾジアゼピン系薬剤をやたらに処方する」「製薬企業の宣伝(MRなどを経由)にしたがって新薬を発売直後から使うようになる」「症状がみなれないものだったり、経過がいままでの経験と違ってきたりすれば思考停止して、すぐ紹介してしまう」「金曜日の夜に、上から目線で緊急とは思えない入院を病院に依頼する」などがその徴候である。総じて言えるのは、若い医師からは疑問符が付けられるような診療を、正しいこととして続けていることである。

 日本の保険制度においては、患者が自由に医者を選べる、言いかえれば自由にかかるのをやめることができるため、いつの間にかこなくなった患者がなぜこなくなったかを医者が知るすべがない。一般的にいえば、自分自身の診療へのフィードバックが、せいぜいレセプトの査定とかあからさまな苦情程度しかなく、質向上のためのシステムがないのである。
 もっとも重要な「診療への構造化されたフィードバックシステム」が日本のプライマリ・ケア医には保証されていないので、ヤブ化を防ぐためには、意識的な生涯学習や継続的なプロフェッショナルとしての成長戦略が必要なのである。そこで、自分なりの留意点を記述してみたい。

 

*ひとりぼっちにならないようにしよう
 診療所の医者はひとりぼっちになると、明らかに危険である。このひとりぼっちというのは、友達がいないとか、医師会にはいっていないとか、そういうことではない。自分の診療内容を語り、他のひとの診療内容をきき、なんらかのディスカッションができるコミュニティをもつということである。
 だんだん年齢を重ねていくと、他の医師からのネガティブなフィードバックはなくなってくるものである。それは、他の医師特に若い医師は単純にフィードバックに関して心理的にバリアができてしまうためである。また、病院に苦情の電話をいれる診療所医師はたくさんいるが、病院から診療所への苦情が届くということも慣習上ほとんどない。
 ひとりぼっちにならないためには、できれば地域の同じ診療所の医師同士で、バリントグループのようなあつまりがつくれると良い。そして、できれば診療の場を共有する同僚がいればよりよいだろう。病院の外来や救急などを定期的に担当し、そこに同僚をつくるのも効果的である。そして、実は診療所に医学生や研修医、専攻医がやってくることは、一時的であるとはいえ同僚を得ることになる。
 現代において、診療所医師が属するコミュニティはFace-to-faceのものに限らない。SNS(Social network service)、特にFacebookなどで、個人情報に注意しつつやりとりするのは、薄いつながり(weak ties)が現実世界にくらべて圧倒的に広く作ることができるし、実はセーフティネットとして有用である。

 いずれにしても自分の診療への他の医師からのフィードバックをおそれてはいけないし、むしろフィードバックを歓迎する気持ちを持ちたいものである。

 

*臨床スキルを維持するために病院の仕事を継続的にやってみよう
 診療所にはMedical、Non-medical両方の多様な健康問題がもちこまれるが、特に症状や疾患という側面では当然、発生頻度に応じて偏りがある。たとえば多発性関節炎の患者や肺動脈血栓症の患者が、初診で診療所にやってくることはそう多くないものである。しかしながら、診療所で出会いにくい症状や疾患は軽視していいかというとそうではないのは自明であろう。診療所で絶対みのがしては行けない症状や病態はある。たとえばアナフィラキシーの初期症状は都市部の診療所にも受診することがある。不全型川崎病も最初は「かぜをひいたようです」という訴えをもって、プライマリ・ケアの場に現れるものである。
 診療所のパネル(かかりつけ患者集団)の性質は、地域コンテキストに依存するので、ジェネラリストの家庭医といっても、実際に診ている患者の多様性には限りがある。そういう点で、疾患頻度の異なる病院において一般外来や救急外来を週1日担当したり、症例カンファレンスに参加することは、幅広いスキルの維持という点で重要である。診療所にひきこもらないようにしたい。

 たとえば僕は、週に3単位病院で一般外来、予約外来をやっているが、症状や疾患の事前確率はあきらかに診療所のそれとは異なることが実感されるものである。

 

*自分の臨床経験を過大評価しない
 それまでの臨床経験が臨床決断に影響を及ぼすことは当然であるし、それ自体は誤りではない。しかしながら、臨床経験が十分振り返られ、根拠のあるパールとして自分のナレッジベースに蓄積されているかというとそうでもない。それは、Reflection on action(行為の後の省察)を通じて、経験が、「理論化」していくというプロセスを継続的に追求するような省察的実践家の学習スタイルは、まだまだ一般的ではないからである。おそらく臨床経験は貴重ではあるが、バイアスもまた大きい。この認知バイアスはかなり問題になる。たとえば、胸痛で、非常に狭い範囲の胸痛はほぼ筋骨格系の痛みであるというのは、疫学的には確かにそうだが、しかし、他の冠動脈疾患のリスクを勘案する必要が当然あるが、この思い込みが重大な見落としになったりする。あるいは息切れで診療所を受診した場合、肺動脈血栓をみのがす認知バイアスはベテランほどありそうである。

 「経験上こうだから」という、自分のマインド傾向を「ほんとうにそうだろうか?根拠はどこか文の献等にないだろうか?」とメタ認知的に疑ってみるというのは、ヤブ化を防ぐ重要なスタイルである。

 

*自分にフィットする学習スタイルをみつけよう
 臨床を毎日コツコツやることで、経験を積めばヤブ化を防げるかというとそうではないだろう。たしかに、コツコツと診療を行い、そこから生じた疑問をコツコツと解決していくことは重要である。それは生涯教育の基盤とも言える。しかし、上述したように頻度の低い問題がどうしても学習課題にのぼってこないのが問題である。

 家庭医には「網羅性」が必要なのである。特に知識に関しては徹底した網羅性を追求しなければならない。網羅性を意識しない家庭医は、家庭医ではない。

 とすると、日々の仕事以外で学ぶ、自分なりの学習スタイルをみつけなければならない。それは、個々人によって異なるだろう。自分にとって一番Comfortableな方法はなにか?静かにジャーナルや本を読むことなのか、あるいはセミナーや学会にでて、レクチャーを受けることなのか、あるいはPBL(問題基盤型学習)ひとりひとりが自分にフィットした学習スタイルをアセスメントしなければならない。そのためには、同僚などと、かつて自分が一番感銘をうけた教育経験などを振り返ることが有用だろう。

 

 *いつの時代でも文献を読むことは大切

 論文や本を読む習慣は、今も昔も絶対的に重要である。特にヤブ化を防ぐためには、読む対象としてまず学術雑誌を重視したい。製薬会社の宣伝がたくさんのっている大手新聞社関連の商業誌はできるだけ避けたいものである。

 そして、ここでいう「文献を読む」ということは「文献を調べる」ということではない。臨床上の疑問を解決するために文献を調べることをここで意味しているかわけではない。そうではなくて、直面する臨床問題に関係なく、その領域で何がディスカッションされ、どういうリサーチがされているのかを継続的に学び考えるということは、プライマリ・ケア専門医として重要な活動という意味である。
 たとえば血液内科の専門医が「Blood」という学術誌を定期的に購読しているのは、直面する問題の解決のために読んでいるわけではない。むしろ血液内科学の全体像、あるいはナレッジベースを常に更新しつづけるためである。このことは、プライマリ・ケアでもまったく同様である。それは診療所の医療がそれ独自の専門性があるということであり、プライマリ・ケア独自の領域のナレッジベースの全体像をつかむことにつながる。
 たとえば、Annals of Family Medicine、British Journal of general practice、Family Practice(WONCA Journal)、Journal of General Internal Medicineといったジェネラリスト系の学術誌から一つ選んで、毎月目を通しつづけることは、診療所医療やプライマリ・ケアの職業的アイデンティティを確立させていく上で重要である。
 そして、国内のプライマリ・ケア関連の学術的商業誌(「治療」「総合診療」「Gノート」等)を一つ定期購読することも有用である。こうした商業誌においては、情報のキュレーションが生命線であり、どのような視点で特集を組んでいるかということに注目して選びたい。

 もちろん医師会雑誌やたとえば内科系のジャーナルで組まれている疾患や病態に関する特集を読むのも悪くはない。悪くはないのだが、むしろそれはリファレンスや調べ物をするとき、そして、これまで知らなかった概念やコンセプトを知るという点での、いわばBackground searchのために「のみ」有用だと思う。

 僕はちなみに医師会雑誌の対談の部分はなるたけ読むようにしている。なぜなら、対談には実は重要なポイントが要約的に語られていることが多いからである。

 

*ICTに親しもう
 ICTの進歩のスピードは驚くほど速い。現在では、クラウドにすべてのデータを保存し、個別のPCやスマホはネットワークがあってはじめて意味を持つようになっており、SNSも日常生活にとけこんだものになっている。たとえばFacebookのデータは自分のPCやスマホにはなく、クラウド上に存在しているのだが、そういうことをもはや意識することもなくなっている。
 こうした時代において、医者の仕事(直接の診療、マネージメント、教育や研究、プライベートライフ等)にもICTのパラダイムチェンジが大きな影響をあたえている。しかし、案外「ITは苦手」とか、「IT弱者」などと自嘲気味に語るものも中高年の医者の中には少なくないが、堀正岳氏による「ブルーバックス:理系のためのクラウド知的生産術 メール処理から論文執筆まで」講談社などを一読することで、案外ハードルは下がるはずである。

 現代においては、「ICTなしでは間違いなくヤブ化する」とはっきり断言したい。便利だからやったほうがいいよ、というレベルの話ではないのである。
 そして、僕が考えるところ、ICTでもっとも注目すべきは、SNSに代表されるあらたなコミュニケーション様式の出現であり、広範囲に構築される弱いつながり(weak ties)、そして共有の文化である。クラウドを活用して仕事をすることはこうしたことと直結しているのである。

 

*パーソナルなナレッジベースの構築とEポートフォリオ作成に挑戦してみよう
 調べたり、読んだりした文献、臨床上の気づきのメモ、診療や学習のログ、様々な動画や写真などを蓄積整理することは、古くから医師の習慣として確立した生涯学習法だったといえるだろう。この方法はより個人のコンテキストに立脚したナレッジベースの構築ともいえる。そして、それは以前の紙ベースのファイルの集積とちがって、現代においては、EvernoteDropbox等によって、個人の電子データベースとしてだれでも簡単に構築・管理できるようになった。
 しかし、この方法の欠点は、外部とのコミュニケーションを欠いていることであるが、近年電子化した個人のポートフォリオ(Eポートフォリオ)の構築が、対話型のナレッジベースとして注目されている。Eポートフォリオは、自分自身のWeb spaceを作って、そこに生涯教育あるいはCPDのカテゴリー(たとえば糖尿病の診療水準の向上等)の達成を示す成果物を登録していく活動である。Eポートフォリオは公開範囲を自分で設定し、自分の学びの経過をみてほしい人と内容を共有し、ヴァーチャル空間で対話することができる点で、生涯学習的にきわめて有用とされる。
 たとえば、印象深い事例や思いがけないデータを記録したり、日々の出来事のふりかえりを書いたりすること、すなわちReflective journalingは非常にすぐれた生涯学習法だが、これをEポートフォリオにエントリーすることによって他者とのディスカッションが可能になり、対話による新たな学びが生まれるだろう。

 Eポートフォリオは、公開範囲を限定した、自分のホームページをつくるという感覚でやっていけばほぼ間違いなく構築できる。たとえば、Google siteなどで無料で作成することができる。ハードルは低くなってきている。

 

*教えることは学ぶこと
 教えることは学ぶことという原則は、今も昔も「真」である。診療の見学をすることで、学習者は何を学ぶのか?そのためにはどんな言葉かけをすべきか?といったことについて考えることは、イコール自分の仕事の正体を省察することそのものでもある。
 例えば、安定した高血圧の患者を診察しているところを学生が見学しているときに、「安定した高血圧は医学的には特に面白いものではないから学生にみせても勉強にならないだろう」と考えたとしたら、それは間違いである。あまりにルーチン化している業務から学ぶところはないと考えやすいが、それはヤブ化の始まりかもしれない。
 そもそも「高血圧の治療目標とはなにか?」「それはどのような根拠に基づいているのか?」「今の処方内容の根拠は?」「患者の生活習慣への介入は?」「ずっと継続的に通院するのはどんな意味があるのか?」「この年令で必要な予防医学的介入項目はなにか?」「地域における高血圧患者集団へどうアプローチするか」など実はTeaching pointはいくらでもある。そして、おそらくこれらのTeaching pointは現代の医学教育では無視あるいは軽視されている部分である。プライマリ・ケアに関する学術研究誌はこのあたりの視野を大きく広げてくれるだろう。かわった症状や所見、珍しい病気が学生や研修医向けとかんがえるのは間違いである。

 

*おわりに
 プライマリ・ケア医や家庭医の生涯教育のスタイルは、おそらく「キュアからケアへ」「病院から地域へ」などと称される健康転換と、ICT技術の進歩、そして社会構成主義的学習教育観への転換など、現代の様々な変化に影響を受け、大きく変容してきている。診療所医師のヤブ化を自ら防ぎ、成長しつづけるために、省察を続けていきたいものである。

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ジェダイ・マスター的家庭医になるために

 

 Robert B. Taylor著 吉村学/小泉俊三 監訳 テイラー先生のクリニカル・パール1:診断にいたる道筋とその道標 メディカル・サイエンス・インターナショナル が出版された。

 僕が個人的に勝手に「Taylor三部作」と呼んでいる一連のRobert Taylor先生のマスターピース単著群の日本語訳が開始されたことは、まことに喜ばしい。超一流家庭医の臨床能力はこの三部作により表現されていると思っている。

 僕にとっての家庭医のジェダイ・マスターは、Ian McWhinney、Robert Taylor、そしてGayle Stephensである。Taylor先生以外はすでに鬼籍に入られたが、Taylor先生がまだまだお元気だときいている。

 この本は、目次をみると、新生児から高齢者まで、婦人科的問題から眼科的問題まではばひろくとりあげられている。米国家庭医のFull scope診療を垣間見ることができる。

 しかしながら、項目は特に網羅的というわけではなく、また項目に関連した総論的な記述がされているわけでもない。いわば、臨床医のつぶやきのようなものである。「140字で語る臨床医学」みたいな本がもしあるとすれば、ここに提示されるような形態になるかもしれない。実は最近、Twitterで書籍がかけないかとおもっているのだが・・・だから、この本は、Point of Careで臨床的な疑問を解決するためのリファレンスとしては使えないだろう。むしろこの本の価値は、Taylor先生が超一流の家庭医であり、本書でとりあげられている問題が、自身の臨床経験に由来しているというところにある。そして、それ故に通読することが重要な本であるともいえる。通読することで、マスター家庭医の頭の中を追体験してみることが可能になるのだ。

 生涯学習の重要なモメントとして、驚きや予想外のできごとを重視すべきであると、ドナルド・ショーンは言っているが、臨床上のサプライズに対して、その場をなんとか切り抜けるために、過去の経験や、文献、情報ネットワークなどを屈指するのだが、事後的にそのことを振り返ることで、自分なりにサプライズの経験を理論化することが重要だといわれている。この実践の理論の構築の習慣がマスターになるためには重要である。このプロセスが、省察的実践家として成長するプロセスそのものである。そして、この書籍の記述は省察的実践家としてのTalor先生の「実践の理論」の集積であり、パーソナル・ナレッジベースが披瀝されているということもできるだろう。

 たとえば、「発熱」002において、「熱射病は、深部体温を急速に低下させるとともに、迅速な介入が必要となる危険信号である」と記述されているが、いわゆる熱射病を熱疲労などと一緒にしてはいけないというパールである。おそらく実際にこのような経験、あるいは重篤な熱射病をそれとして認識することができない事態を目撃した経験があったのではないかと推察される。また「乳幼児と小児」048には、「5日以上発熱が続く小児では川崎病を考慮する」とサラリと書いてある。発疹やリンパ節腫脹が書かれていないところが重要である。とにかく5日熱がつづけば考えろということであるが、これが「実践の理論」であり、クリニカル・パールである。

 クリニカル・パールというのは、ヒヤリとした経験や失敗した経験から生まれるものである。しがたって、事故やミスを防ぐための認知領域の方略ともいえる。よいパールをたくさん身につけることは、医療事故をおこしにくい体質をもつというふうにいいかえることもできるだろう。

 また、クリニカル・パールは過去の文献などを参照することによってより磨かれる。単に、ひとりよがりのパールというのもあって、危ないバイアスにみちているものである。自分自身の臨床経験を課題評価するのは危険である。やはりパールは、いつの時代でも大事な文献による検討、同僚とのディスカッション、SNSなどのネットワークのなかでブラッシュアップされるべきものである。

 本書のような個人的なクリニカルパール集は、ヤブ医者にならないために、意識的に作るべきだろうと強く思う。臨床経験から疑問の抽出、振り返り/省察、文献による検討、自身の課題の記述ということが日常化され蓄積されるならば、ヤブ化は防げるだろう。

 ところで、家庭医と総合内科医の違いはどこにあるか?といった疑問に対しては本書と、著名な総合内科医であるローレンス・ティアニー先生よるクリニカル・パール群のフォーカスの仕方との差異に、一つの解答があるといえるような気もする。

 

 

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大学病院に残る医学部卒業生をどうしたら増やせるのか?

 いったいぜんたい大学医学部の教育プログラムの成果は何で図られるのか?ということに興味をもちまして、いろいろ懇談などしていますと、国家試験合格はまあ対外的には重要らしいのですが、内部的には卒業生が自分の大学病院の初期研修プログラムにどのくらいマッチするかってのが、最重要事項のようだという確信をもつに至っております。

 その大学の卒業生がその大学の研修プログラムに残らないっていうことが、大学内でこれほど問題になっているとは思わなかったですし、また基本的に大学外で職業生活をしてきたせいもあって、そうした状況にそれほど関心があるわけではなかったのですが、パートタイムとはいえ大学に出入りするようになって、そのことを考えてみようかとおもったのでした。

 まず卒前医学教育の成果=Outcomeとはなにで測定されるのかという原則的なところから考えてみます。
 卒前医学教育改革に関する提言をいくつか目を通してみますと、たとえば平成23年に発表された日本学術会議の提言「我が国の医学教育はいかにあるべきか」では、「疾病構造の変化、患者のニーズの多様化、生命科学や医療技術の急速な進歩などを背景として新しい世代の医療人の育成が求められている」といった理念的な目標にとどまっています。その他の文書をみても「患者中心の医療のできる・・・」とか「基本的人権を達成する云々・・・」といったヴィジョンが様々掲げられていますが、では大学卒前教育でこうしたヴィジョンが、どのくらい達成されているのかどうかという評価はなかなかみあたりません。研究あったら教えて下さい・・・(^_^;)。

 で、海外に目をむけてみますと、Kassebaumが医学部のゴールと関連したアウトカム測定あるいはインディケーターを提案しております*1

 この文献によると、メディカル・スクールのゴールをかいつまんで言うと以下のようになります。
入学の選抜

教育

  •  強力な基礎科学の基盤の提供
  •  模範となる臨床の知識とスキルの成長
  •  プロフェッショナルとしての態度の涵養
  •  学生とファカルティの密接なインタラクション
  •  卒後研修を成功させるための準備

キャリアと診療実践

  •  必要とされている、あるいは低く評価されている専門領域のキャリア(プライマリ・ケア等)を選ぶ医者が多い
  •  ライセンス試験(国家試験、専門医試験)の合格
  •  医療に恵まれない地域での診療実践を重視
  •  アカデミックな資源を更新すること、つまり大学での教育活動あるいは研究実践への参入

 このような領域に関して測定のやり方の方法も併記されています。

 きちんと測定していくことも重要だと思いますが、日本では、まずはこうした評価基準をつくることが重要かと思います。たとえば、CBTやOSCEもそうした評価項目になるとは思いますし、他にもあるのかもしれないが・・・。

 こういう目標をみてみると、ある大学の医学部卒業生がその大学の卒後教育プログラムに残るということが、真にアウトカムになりうるのかということに関しては、原理的には、それは違うように思うのですが、日本の医学部の教官が口をそろえて「問題だ」といっている現実は別の何かを表しているとしか思えないわけです。なにか、真のアウトカムの関連したなにかが「残る」「残らない」という言葉になっているのかもしれません(穿ち過ぎ?)。

 そこで、このことを2つの切り口からかんがえてみたいと思います。
 一つは自校教育の観点から、もう一つは学習共同体の観点からです。

 近年、大学では自校教育が注目されています(以下の記事参照)。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090722/169059/?P=1

 学生に対して建学の意義、大学史、自校の研究成果などについて教える授業のことを自校教育といいます。それは学生の大学への帰属意識が薄れているという現状に対応したものです。特に私立大学では、その目標は「愛校心」の涵養となりますが、国立大学ではどうもそうでではなくて、大学の最近の成果の講義などが多いようです。

 特に私立大学では卒業生も含めてコミュニティの形成、大学経営を支える基盤づくりとして捉えられています。いくつかの私立大医学部に出入りした経験では同窓会の存在はきわめて大きいものでした。こうした取組は、一部大学(東大等)を除くと国立大学では非常に弱いように思います。

 しかし、古臭い響きのもつ愛校心なるものを、どう高めるかという取り組みを、あまり経験のないところが急に始めるとおそらくスベる可能性が大です。むしろ、その愛校心の内実であるコミュニティづくり、もっというと学習と実践の共同体づくりを現代的にすすめるのが、今に生きる「愛校心」になるのではないかと思っています。
 例えば、今の医学部の教育が学習共同体づくりになっているのか、それを促進するカリキュラム(PBL:問題基板型学習IPE:専門職連携教育、そしてCOME:地域指向性教育、等)が重視されているのか、教員がそれに適応できるようなFDをやっているのかどうか、などが問われるでしょう。コミュニティ成立の基本は、メンバーの居場所と出番の保証です。そしてメンターとロールモデルの存在も重要です。
 そして、こうしたカルチャーが大学付属病院の医療や研修の基盤になっていないと、それこそ、教育-現場ギャップがあらわとなって、学生にはますますそっぽを向かれるでしょう。

 大学付属病院に卒業生をたくさんリクルートしたいのなら、「大学に残らないと結局生きていけない」「大学にのこればこんなに素晴らしい研究ができる」「大学にのこれば君たちはエリートの仲間入りだ」的な完全勝ち組意識丸出しのリクルートはやめることです。上述したようなカルチャーを涵養する努力を不断につづければ、たとえ目標像に到達していなくても、学生はその空気は感じるものです。そしてカルチャー改革の第一歩はおそらく、大学病院研修医のワークライフバランスの改善でしょう。
 今の勝ち組意識の高いベテラン医師とはちがって、現代の若者は生まれた時から不況が続く時代背景の中で育っています。そこを真剣に捉えないと間違えるでしょう。

 状況の変化はすぐには起こりませんが、道筋は見えているような気がします。

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*1:Kassebaum, G. The measurement of outcomes in the assessment of educational program effectiveness. Academic Medicine, 65(5), 293-6.1990

「診療ガイドライン」と「診療マインドライン」

 John GabbayとAndrée le Mayは英国のプライマリ・ケア診療のエスノグラフィー研究を約9年間にわたって行った*1
 非常に興味深いその結果を、いくつか紹介してみよう。

 まず、GPの役割は以下の4つがあるとのこと。これらは全体に複雑で、混乱しやすく、同時に生じ、不測の事態が生じやすく、対立を生むこともあるとのことだが、この役割の記述は、日本の家庭医にもほぼあてはまると思う。

*Clinical Domain

診断、処方、検査、アドバイスと説明、紹介、アドボカシー

*Managerial Domain

リソース・人材・ロジの管理、質のモニタリングと改善、ITシステムの開発、契約や法的必要事項の遵守、プライマリ・ケア・トラスト(英国独自の制度です)の取り扱い、診療所スタッフのトレーニング
*Public Health Domain

疾患予防、スクリーニング、ヘルスプロモーション、健康教育、疾患サーベイランス、担当地域を知る

*Professional Domain

Keeping up to date、診療の振り返り、教育と指導、同僚ネットワークの涵養、家庭医療のプロモーション、信頼の維持

 

 そして、彼らが見出したのは、家庭医(GP)の臨床的な判断は、いわゆる診療ガイドラインではなく、マインドライン(Mindlines)と呼ぶようなものに従っているということだった。このマインドラインは著者らの造語である。

 この診療マインドライン(Clinical mindlines)とは、どういうものだろうか?
 その定義は、Internalized collectively reinforced,partly tacit, guidelines-in-the-head that clinicians use to guide their practiceとされ、内在化されて、集合的に強化されており、部分的には暗黙知的であるような、臨床家が自身の診療をガイドしている「自分の頭のなかのガイドライン」がマインドラインである。その特徴を以下に列挙してみよう。

  • フレキシブルで、融通が効き、実践的で、文脈を考慮している
  • 非線形かつ合理的でパターン認識化されている
  • これまでいわれてきた各種認知モデルとしての、「ヒューリスティック」「Illness script」あるいは「経験則(Rules of thumb)」に比べて、より幅広いものである
  • 診療に影響をあたえる、フルレンジの要求や各種制限、複数の役割を考慮にいれている
  • 他者の実践的な知識が一人の人間の認知に具現化している
  • 複数の素材をKnowledge-in-practice-in-contextに変容させている


 この診療マインドラインのイメージをJohn Gabbay and Andrée le Mayは以下のように図示している*2

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 では、なぜ、リサーチエビデンスは家庭医のマインドラインに組み込まれないのか?その理由として彼らは以下のような理由を挙げている。

  • リサーチエビデンス、およびそれを土台にした診療ガイドライン
  • 複数の役割を対象にしていない
  • 実践的な知ではない
  • フレキシヴィリティに欠ける
  • コンテキストが単一である
  • 長年かけて積み重ねられたマインドラインよりよいものとは思われない
  • よく調べない限り、妥当とはみなされない

 さらに、非常に興味深いのは、このマインドラインは、ソーシャルにあるいは組織的に他の医療者のマインドラインとリンクして、集合知を形成しており、集団的マインドラインとでもいえるようなものを、以下の図のようなイメージで、形成していることである。

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 このような集合知「実践の共同体」Wengerら)そのものともいえるだろう。

 かれらのエスノグラフィーによるプライマリケアや家庭医療における診療マインドラインの発見は、教育や研究に非常に有用なフレームワークを与えてくれるだろうが、特にプライマリケアにおけるジェネラリストのナレッジマネージメント、生涯学習、Continuing professional developmentはどうあるべきかという疑問に大きなヒントを与えてくれると思われる。

 家庭医がマインドラインをどのように涵養していくかについての研究は、これからの課題だろうが、僕自身の臨床経験からいえることは、このマインドラインというコンセプトは非常にしっくりくるということである。そして、マインドラインは、おそらく総合性、あるいはGeneralismの本質とつながっている。

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*1:Gabbay, John, and Andrée Le May. Practice-based evidence for healthcare: Clinical mindlines. Routledge, 2010.

*2:Gabbay, J., & le May, A.. Evidence based guidelines or collectively constructed “mindlines?” Ethnographic study of knowledge management in primary care. BMJ, 329(7473), 1013. 2004

米国家庭医療から何を学ぶか?患者中心のメディカルホームへ:Part 1

 プライマリ・ケアに携わる医師のトレーニングは、常にその国や地域のヘルスケアシステムから要請される医師像に依拠するものである。しかし、例えば心臓外科医ならば、心臓外科医にもとめられる臨床能力のコンテンツはヘルスケアシステムに依存することなく設定されるだろう。なぜなら、心臓外科医は、どの地域、どの国でも行う仕事は基本的に同じだからである。したがって、例えば日本で心臓外科をやるために米国でトレーニングをうけるというのは正当であるといえるだろう。しかし、プライマリ・ケアにおいてはこの心臓外科のトレーニングモデルを導入するのは、違和感がある。

 プライマリ・ケアを専門とする医師は、そういう点でSystem-oriented specialtyであるといえるだろう。従って、米国のプライマリ・ケア専門医の一つである家庭医療の実践内容や専門医研修プログラム(レジデンシー)が設定する教育目標やカリキュラムをそのまま日本に適用することは不可能である。しかし、米国のレジデンシーには、家庭医療が専門科として認められるようになってから、時代の変化に応じて、家庭医が果たすべき役割を検討し、質の向上に取り組み、様々な教育上のイノベーションを展開してきた歴史がある。


 Taylor*1は、米国家庭医療の歴史には3つの時代区分があるとして、その時代の背景、家庭医療の状況、その時代に必要だったリーダーシップのタイプについて論述している。整理してみると以下のようになる 。

The early years  1960年台~70年台後半   黎明時代 ゲリラ 戦士型|
The growth years  1970年台から90年台    成長時代 マネージャー型
The emerging years 1990年台後半から現在まで 新時代  ファシリテータ型 

 

 米国には、過度の専門分化により身近に質のよいかかりつけ医が失われているという市民団体の問題提起を受けて、国家として家庭医療の専門医を発足させた歴史があるが、実は世界的にみると、医学界内部からジェネラリストの必要性の認識が高まり、その教育や研究を切り出して部門として独立させたという歴史はないといってよい。

 例えば英国のNHSにおけるGPの役割は、保健医療政策から生み出されたものである。プライマリ・ケア重視のヘルスケアシステムの構築を決定し、そのシステムに必要なのがGP(general practitioner)であるから、既存の医師をGPにtransformすべしという政策にもとづいている。つまり、英国の医師集団がGPDrivienのヘルスケアシステムを生み出したわけではない。そもそも英国においてGPが独自の学会(RCGP)をつくることを医師会がみとめたのは、1953年であり、歴史的にはそれほどふるいことではない。それ以前にGPが独自に学会を作ろうとしたときにそれをブロックしたのは、実は内科学会と外科学会であったとされている。それは、「いや、そんな独立するなんていわないで一緒にやればいいじゃないか」というのが内科学会や外科学会らの主張であった。そしてRCGPの設立を実質的にサポートしたのは当時の英国厚生省であった。


 2015年現在、日本における総合診療の専門性の確立に関しては、市民レベルと政策レベル双方から期待されて進んでいる事は、これまでの各国の経験と相似であるといえるだろう。そして、既存の医学アカデミーが最後のバリアになっていることも、これまた世界史の上では定番の動きである。


 さて、米国では1960年台に入って、公民権運動、女性解放運動、ベトナム反戦運動などに象徴される時代背景をもとに、市民運動として家庭医療の確立が求められるようになった。家庭医療は当時の医学エスタブリッシュメントに対するいわばカウンターカルチャーであり、その推進者はファウンダーらしい独特の個性とある種の野蛮なリーダーシップを兼ね備えていたという。その後、多くの医学生がレジデンシーに参入するようになり、急速に家庭医療の展開規模が大きくなり、診療、教育、研究いずれも大きな展開がもとめられる状況になり、有能なマネージャーがリーダーとして必要とされた。その後米国の医療環境が変化するにつれ、家庭医療の道をえらぶ医学生が減少するようになったが、様々な交渉や変化に適応し、連携やイノベーションを生み出すことが求められるようになり、組織ファシリテータとしての役割がリーダーに求められるようになっている。

 外からみると米国の家庭医療には盤石の基盤があるようにみえるが、必ずしもそうではない。英国のようにヘルスケアシステム(National health service)上、GP(家庭医)の役割が明確に位置づけられているがゆえに、存立基盤に関して根本的な問い直しを必要としない国と違って、ある意味で米国の家庭医療は「存在論的不安」につねに直面しているといってよいだろう。定期的に開催されているKey Stoneカンファレンスに代表されるように、常に自らの現状を見つめなおし、課題を設定し、改革を行い、評価することを継続し続けてきた。そのダイナミックな改革の取り組みの経験から、日本がプライマリ・ケアの再編を構想するために学ぶことは極めて多い。

 では、日本のプライマリ・ケアは米国家庭医療の試みから、今どんなを学ぶことができるだろうか。次のブログ・エントリーでは、2000年代前半よりに米国家庭医療学会が一貫して重視し、取り組んでいる患者中心のメディカル・ホーム(Patient centered medical home:PCMH)のプロジェクトを紹介する。さらに、家庭医資格の維持と生涯教育を連動させようとする資格更新制度を紹介したいと思う。

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アジサイ

*1:Taylor, R. B.. The promise of family medicine: history, leadership, and the age of aquarius. The Journal of the American Board of Family Medicine, 19(2): 183-190 2006

診療所で家庭医がヤブ化しないための10の原則(承前)

 いよいよ診療所の医者がヤブ化していく姿が、同世代でチラホラとみえるようになってきた。

 若い医師は決してその医者になにかを指摘することはないので、ヤブ化している本人がそれに気づくこともない。また、日本はフリーアクセスということになっているので、患者からのフィードバックが苦情くらいしかないため、根拠なく自信をもっている診療所家庭医(自分も含めて)は結構多い。

 自分もそういう年代になってきて、どうしたらいいのか、いろいろ考えているが、とりあえずの原則を10個くらい、自戒も含めてひねり出してみる。おそらくどこかで読んだ文献から記憶をたどっているのだが、それぞれの項目についての考察は徐々に発表していこうと思います。

 

  1. ひとりぼっちにならないようにしよう
  2. スキルを維持するために病院の仕事もしよう
  3. 自分の臨床経験を過大評価しないようにしよう
  4. 自分にフィットする学習スタイルをみつけよう
  5. 文献を読むことはいつの時代も大切にしよう
  6. ICTマスター(GMailGoogle DriveDropboxEvernoteFacebookあたりを使える程度でOK)になろう
  7. 印象深い事例や思いがけないデータは記録して、ふりかえりを書こう
  8. 教えることは学ぶことなので教育をやろう
  9. 新薬に飛びつかないようにしよう
  10. パネルマネージメントに挑戦しよう(以前のブログエントリー参照してください)

 

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