*まず、はじめに
中年以降~初老期にどんなスタイルのプライマリ・ケア医や家庭医になるかについて、意識的にならないとヤバい医者になりかねない。こうした感覚は実感としてわかる。
勢いだけでUptoDateが保てなくなってきた年齢からが、ほんとうのプロフェッショナルとしての勝負どころだと思う。以下すこし自戒もこめて記述してみる。
注:なお、この文章は2015年8月号に雑誌「治療」寄稿した内容に加筆訂正を加えたものである。
*ヤブ化とは
藪医者になること、「ヤブ化」の定義はむずかしい。が、現象面ではいくらでもあげることができる。たとえば、「風邪症状にかならず抗菌薬を処方する」「多弁で症状の多い患者にベンゾジアゼピン系薬剤をやたらに処方する」「製薬企業の宣伝(MRなどを経由)にしたがって新薬を発売直後から使うようになる」「症状がみなれないものだったり、経過がいままでの経験と違ってきたりすれば思考停止して、すぐ紹介してしまう」「金曜日の夜に、上から目線で緊急とは思えない入院を病院に依頼する」などがその徴候である。総じて言えるのは、若い医師からは疑問符が付けられるような診療を、正しいこととして続けていることである。
日本の保険制度においては、患者が自由に医者を選べる、言いかえれば自由にかかるのをやめることができるため、いつの間にかこなくなった患者がなぜこなくなったかを医者が知るすべがない。一般的にいえば、自分自身の診療へのフィードバックが、せいぜいレセプトの査定とかあからさまな苦情程度しかなく、質向上のためのシステムがないのである。
もっとも重要な「診療への構造化されたフィードバックシステム」が日本のプライマリ・ケア医には保証されていないので、ヤブ化を防ぐためには、意識的な生涯学習や継続的なプロフェッショナルとしての成長戦略が必要なのである。そこで、自分なりの留意点を記述してみたい。
*ひとりぼっちにならないようにしよう
診療所の医者はひとりぼっちになると、明らかに危険である。このひとりぼっちというのは、友達がいないとか、医師会にはいっていないとか、そういうことではない。自分の診療内容を語り、他のひとの診療内容をきき、なんらかのディスカッションができるコミュニティをもつということである。
だんだん年齢を重ねていくと、他の医師からのネガティブなフィードバックはなくなってくるものである。それは、他の医師特に若い医師は単純にフィードバックに関して心理的にバリアができてしまうためである。また、病院に苦情の電話をいれる診療所医師はたくさんいるが、病院から診療所への苦情が届くということも慣習上ほとんどない。
ひとりぼっちにならないためには、できれば地域の同じ診療所の医師同士で、バリントグループのようなあつまりがつくれると良い。そして、できれば診療の場を共有する同僚がいればよりよいだろう。病院の外来や救急などを定期的に担当し、そこに同僚をつくるのも効果的である。そして、実は診療所に医学生や研修医、専攻医がやってくることは、一時的であるとはいえ同僚を得ることになる。
現代において、診療所医師が属するコミュニティはFace-to-faceのものに限らない。SNS(Social network service)、特にFacebookなどで、個人情報に注意しつつやりとりするのは、薄いつながり(weak ties)が現実世界にくらべて圧倒的に広く作ることができるし、実はセーフティネットとして有用である。
いずれにしても自分の診療への他の医師からのフィードバックをおそれてはいけないし、むしろフィードバックを歓迎する気持ちを持ちたいものである。
*臨床スキルを維持するために病院の仕事を継続的にやってみよう
診療所にはMedical、Non-medical両方の多様な健康問題がもちこまれるが、特に症状や疾患という側面では当然、発生頻度に応じて偏りがある。たとえば多発性関節炎の患者や肺動脈血栓症の患者が、初診で診療所にやってくることはそう多くないものである。しかしながら、診療所で出会いにくい症状や疾患は軽視していいかというとそうではないのは自明であろう。診療所で絶対みのがしては行けない症状や病態はある。たとえばアナフィラキシーの初期症状は都市部の診療所にも受診することがある。不全型川崎病も最初は「かぜをひいたようです」という訴えをもって、プライマリ・ケアの場に現れるものである。
診療所のパネル(かかりつけ患者集団)の性質は、地域コンテキストに依存するので、ジェネラリストの家庭医といっても、実際に診ている患者の多様性には限りがある。そういう点で、疾患頻度の異なる病院において一般外来や救急外来を週1日担当したり、症例カンファレンスに参加することは、幅広いスキルの維持という点で重要である。診療所にひきこもらないようにしたい。
たとえば僕は、週に3単位病院で一般外来、予約外来をやっているが、症状や疾患の事前確率はあきらかに診療所のそれとは異なることが実感されるものである。
*自分の臨床経験を過大評価しない
それまでの臨床経験が臨床決断に影響を及ぼすことは当然であるし、それ自体は誤りではない。しかしながら、臨床経験が十分振り返られ、根拠のあるパールとして自分のナレッジベースに蓄積されているかというとそうでもない。それは、Reflection on action(行為の後の省察)を通じて、経験が、「理論化」していくというプロセスを継続的に追求するような省察的実践家の学習スタイルは、まだまだ一般的ではないからである。おそらく臨床経験は貴重ではあるが、バイアスもまた大きい。この認知バイアスはかなり問題になる。たとえば、胸痛で、非常に狭い範囲の胸痛はほぼ筋骨格系の痛みであるというのは、疫学的には確かにそうだが、しかし、他の冠動脈疾患のリスクを勘案する必要が当然あるが、この思い込みが重大な見落としになったりする。あるいは息切れで診療所を受診した場合、肺動脈血栓をみのがす認知バイアスはベテランほどありそうである。
「経験上こうだから」という、自分のマインド傾向を「ほんとうにそうだろうか?根拠はどこか文の献等にないだろうか?」とメタ認知的に疑ってみるというのは、ヤブ化を防ぐ重要なスタイルである。
*自分にフィットする学習スタイルをみつけよう
臨床を毎日コツコツやることで、経験を積めばヤブ化を防げるかというとそうではないだろう。たしかに、コツコツと診療を行い、そこから生じた疑問をコツコツと解決していくことは重要である。それは生涯教育の基盤とも言える。しかし、上述したように頻度の低い問題がどうしても学習課題にのぼってこないのが問題である。
家庭医には「網羅性」が必要なのである。特に知識に関しては徹底した網羅性を追求しなければならない。網羅性を意識しない家庭医は、家庭医ではない。
とすると、日々の仕事以外で学ぶ、自分なりの学習スタイルをみつけなければならない。それは、個々人によって異なるだろう。自分にとって一番Comfortableな方法はなにか?静かにジャーナルや本を読むことなのか、あるいはセミナーや学会にでて、レクチャーを受けることなのか、あるいはPBL(問題基盤型学習)ひとりひとりが自分にフィットした学習スタイルをアセスメントしなければならない。そのためには、同僚などと、かつて自分が一番感銘をうけた教育経験などを振り返ることが有用だろう。
*いつの時代でも文献を読むことは大切
論文や本を読む習慣は、今も昔も絶対的に重要である。特にヤブ化を防ぐためには、読む対象としてまず学術雑誌を重視したい。製薬会社の宣伝がたくさんのっている大手新聞社関連の商業誌はできるだけ避けたいものである。
そして、ここでいう「文献を読む」ということは「文献を調べる」ということではない。臨床上の疑問を解決するために文献を調べることをここで意味しているかわけではない。そうではなくて、直面する臨床問題に関係なく、その領域で何がディスカッションされ、どういうリサーチがされているのかを継続的に学び考えるということは、プライマリ・ケア専門医として重要な活動という意味である。
たとえば血液内科の専門医が「Blood」という学術誌を定期的に購読しているのは、直面する問題の解決のために読んでいるわけではない。むしろ血液内科学の全体像、あるいはナレッジベースを常に更新しつづけるためである。このことは、プライマリ・ケアでもまったく同様である。それは診療所の医療がそれ独自の専門性があるということであり、プライマリ・ケア独自の領域のナレッジベースの全体像をつかむことにつながる。
たとえば、Annals of Family Medicine、British Journal of general practice、Family Practice(WONCA Journal)、Journal of General Internal Medicineといったジェネラリスト系の学術誌から一つ選んで、毎月目を通しつづけることは、診療所医療やプライマリ・ケアの職業的アイデンティティを確立させていく上で重要である。
そして、国内のプライマリ・ケア関連の学術的商業誌(「治療」「総合診療」「Gノート」等)を一つ定期購読することも有用である。こうした商業誌においては、情報のキュレーションが生命線であり、どのような視点で特集を組んでいるかということに注目して選びたい。
もちろん医師会雑誌やたとえば内科系のジャーナルで組まれている疾患や病態に関する特集を読むのも悪くはない。悪くはないのだが、むしろそれはリファレンスや調べ物をするとき、そして、これまで知らなかった概念やコンセプトを知るという点での、いわばBackground searchのために「のみ」有用だと思う。
僕はちなみに医師会雑誌の対談の部分はなるたけ読むようにしている。なぜなら、対談には実は重要なポイントが要約的に語られていることが多いからである。
*ICTに親しもう
ICTの進歩のスピードは驚くほど速い。現在では、クラウドにすべてのデータを保存し、個別のPCやスマホはネットワークがあってはじめて意味を持つようになっており、SNSも日常生活にとけこんだものになっている。たとえばFacebookのデータは自分のPCやスマホにはなく、クラウド上に存在しているのだが、そういうことをもはや意識することもなくなっている。
こうした時代において、医者の仕事(直接の診療、マネージメント、教育や研究、プライベートライフ等)にもICTのパラダイムチェンジが大きな影響をあたえている。しかし、案外「ITは苦手」とか、「IT弱者」などと自嘲気味に語るものも中高年の医者の中には少なくないが、堀正岳氏による「ブルーバックス:理系のためのクラウド知的生産術 メール処理から論文執筆まで」講談社などを一読することで、案外ハードルは下がるはずである。
現代においては、「ICTなしでは間違いなくヤブ化する」とはっきり断言したい。便利だからやったほうがいいよ、というレベルの話ではないのである。
そして、僕が考えるところ、ICTでもっとも注目すべきは、SNSに代表されるあらたなコミュニケーション様式の出現であり、広範囲に構築される弱いつながり(weak ties)、そして共有の文化である。クラウドを活用して仕事をすることはこうしたことと直結しているのである。
*パーソナルなナレッジベースの構築とEポートフォリオ作成に挑戦してみよう
調べたり、読んだりした文献、臨床上の気づきのメモ、診療や学習のログ、様々な動画や写真などを蓄積整理することは、古くから医師の習慣として確立した生涯学習法だったといえるだろう。この方法はより個人のコンテキストに立脚したナレッジベースの構築ともいえる。そして、それは以前の紙ベースのファイルの集積とちがって、現代においては、EvernoteやDropbox等によって、個人の電子データベースとしてだれでも簡単に構築・管理できるようになった。
しかし、この方法の欠点は、外部とのコミュニケーションを欠いていることであるが、近年電子化した個人のポートフォリオ(Eポートフォリオ)の構築が、対話型のナレッジベースとして注目されている。Eポートフォリオは、自分自身のWeb spaceを作って、そこに生涯教育あるいはCPDのカテゴリー(たとえば糖尿病の診療水準の向上等)の達成を示す成果物を登録していく活動である。Eポートフォリオは公開範囲を自分で設定し、自分の学びの経過をみてほしい人と内容を共有し、ヴァーチャル空間で対話することができる点で、生涯学習的にきわめて有用とされる。
たとえば、印象深い事例や思いがけないデータを記録したり、日々の出来事のふりかえりを書いたりすること、すなわちReflective journalingは非常にすぐれた生涯学習法だが、これをEポートフォリオにエントリーすることによって他者とのディスカッションが可能になり、対話による新たな学びが生まれるだろう。
Eポートフォリオは、公開範囲を限定した、自分のホームページをつくるという感覚でやっていけばほぼ間違いなく構築できる。たとえば、Google siteなどで無料で作成することができる。ハードルは低くなってきている。
*教えることは学ぶこと
教えることは学ぶことという原則は、今も昔も「真」である。診療の見学をすることで、学習者は何を学ぶのか?そのためにはどんな言葉かけをすべきか?といったことについて考えることは、イコール自分の仕事の正体を省察することそのものでもある。
例えば、安定した高血圧の患者を診察しているところを学生が見学しているときに、「安定した高血圧は医学的には特に面白いものではないから学生にみせても勉強にならないだろう」と考えたとしたら、それは間違いである。あまりにルーチン化している業務から学ぶところはないと考えやすいが、それはヤブ化の始まりかもしれない。
そもそも「高血圧の治療目標とはなにか?」「それはどのような根拠に基づいているのか?」「今の処方内容の根拠は?」「患者の生活習慣への介入は?」「ずっと継続的に通院するのはどんな意味があるのか?」「この年令で必要な予防医学的介入項目はなにか?」「地域における高血圧患者集団へどうアプローチするか」など実はTeaching pointはいくらでもある。そして、おそらくこれらのTeaching pointは現代の医学教育では無視あるいは軽視されている部分である。プライマリ・ケアに関する学術研究誌はこのあたりの視野を大きく広げてくれるだろう。かわった症状や所見、珍しい病気が学生や研修医向けとかんがえるのは間違いである。
*おわりに
プライマリ・ケア医や家庭医の生涯教育のスタイルは、おそらく「キュアからケアへ」「病院から地域へ」などと称される健康転換と、ICT技術の進歩、そして社会構成主義的学習教育観への転換など、現代の様々な変化に影響を受け、大きく変容してきている。診療所医師のヤブ化を自ら防ぎ、成長しつづけるために、省察を続けていきたいものである。