書評:「独立処方と補助処方~英国で広がる医療専門職の役割」

 土橋朗、倉田香織訳「独立処方と補助処方~英国で広がる医療専門職の役割」(薬事日報)を読ませていただきました。

 日本は高齢社会に突入し、病院から地域へ、キュアからQOLの維持・向上へ、単一急性疾患モデルからMultimorbidity(多疾患併存)へといった医療やヘルスケアのパラダイムが確実に変わりつつあるなかで、医療専門職の役割もそれに応じた変化を要請されているといっていいでしょう。

 これまでの病院、キュア、急性疾患のパラダイムなかで、医師はすべての権限と責任を担う役割があり、例えば薬剤の処方は、現在でも医師が独占的におこなう業務となっています。しかし、上述のパラダイム・シフトの中では、医師を中心としたチームから各医療専門職が真に協働(Interprofessional work:IPW)するチームが求められるようなり、様々な権限の移譲や役割のオーバーラップも現実的な課題として浮かび上がってくるだろう。

 この本には、一足先にそうしたInterprofessional workの推進の中で、医師以外の職種(薬剤師や看護師)による独立した処方を進めてきた英国の動きを詳細に記述されています。読み進めるうちに、英国ではこの問題が技術的、倫理的、法的に極めて慎重に検討され、しかも医師以外の処方による効果が科学的に研究され、それを元に継続的な質改善に取り組んでいることが理解できました。

 また、処方とは、「生物学的異常を是正するために化学物質による介入を行うこと」であるという以外に、「ケアの継続性を確保するため」「なに何かを与えなければならないと思う深層意識のため」等心理社会的な考察が十二分に記述されており、医師が読んでも処方の本質について多くの気づきがを得ることができます。
 これから日本で必要とされる専門職協働の本質は何か、そして何が検討され、実践されなければならないのかといったことに関して、処方という切り口で多くの学びをこの本から得ることができると思います。そういった視点から、薬剤師、看護師以外にも、医師を始めとしたすべての医療人に一読をすすめたいです。

 

 (なお、このエントリーは雑誌「薬局」に投稿した記事に加筆訂正したものです)

 

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日本の総合診療は「Generalist Medicine」と呼びたい

 総合診療科

 2017年より総合診療が19の基本専門領域の1つとして認められることになり,「総合診療専門医」が日本に誕生する道筋がつくられることになった.

 日本の総合診療の特徴は,診療所をフィールドとする「家庭医」と,病院をフィールドとする「病院総合医」のハイブリッドとして考えられているということである.こうした“ハイブリッド型”の専門医像は,世界的にみてもあまり例がない.そして,地域のニーズに合わせた活動の場の多様性に,その特長がある.しかし,こうした「科」の設定は妥当なのか?という問いが絶え間なく現れている.

 総合診療と総合内科

 診療所家庭医,小規模病院の総合診療医,大規模病院の総合診療医あるいはホスピタリストは,それぞれ仕事の内容も求められる知識や技術が違うだろうという議論はもっともであろう.実際に必要とされるタスクはあきらかに異なる.たとえば病院の総合診療医っていわゆる総合内科とどこがちがうの?っていう疑問も当然のごとく存在する.そして,既存の診療科との違いが明確ではない,といわれることも多い.

 ところで総合内科ってなんだ?っていう問いに答えるディスクールは寡聞にしてあまりきかない.実は,「総合」内科が内科全般のオールラウンダーであること以外の定義をもとめられる場合,実は総合診療医ってなんだ?っていう疑問に応えるのと同等の努力が必要であるってことは,あまり指摘されていない.つまり総合内科における「総合」ってなんですか?という,内科領域特にサブスペシャリティ領域からの質問に答えなければならないことはあまり語られていないと思う.

 総合内科医の定義をオールラウンダーだとすれば,そういう分野はもし多領域の内科医がそろっていれば,いらないのではないかという根本的な疑問に答えられない.つまり内科医不足の状況下における便宜的な存在ということになる.しかし,総合内科にアイデンティティをもっている医師はそうした便宜的な存在であることを良しとはしないだろう.つまり,Expert general internistとは何か?という質問に答えなければならないのである.

 また,非常に多い疑問は総合診療科ってどんな病気を診るんですか?という仕事の対象を疾患で定義する,あるいは,テリトリー設定で科の境界線を確認する目的の質問である.これまでの「科」の境界線を疾患の集合できめていくタイプのパラダイムでは,総合診療医はオールラウンダーとしかいいようがなくなるので,前述した便宜的専門科というふうに認識されるだろう.

GeneralismとGeneralist Medicine

 内科をはじめ各科間の境界線を上述したようなやり方で設定しようとすると,重大な問いを隠蔽してしまう.それは「総合性=Generalismとは何か」という問いである.「これがあればジェネラリストといえる」という「専門性=Expertiseは何か」ということである.
 おそらく総合診療科という名称の本来の意味は,その出自がヘルスケア・ニーズであろうと,あるいは医療政策上の要請からであろうと,あるいは医師の地域ごとの不均衡配置であろうと,本質的に「Generalist Medicine」であるというのが僕の考えである.これは,コンテキストをあえて無視しているのだが.

 たとえば北米の家庭医,英国のGP,米国のホスピタリストなどは,ふつうに見れば,いわゆるオールラウンダーという意味にとらえられることが多い.幅広くすこしづつ(むろん能力によって「少し」ではなく「たくさん」の場合もあるが)いろんなことを知っていて,実践する医師である.しかし,オールラウンダーということをもって専門性であるというのは,おそらく専門性ということばの定義からしてなじまないと思う.むろんオールラウンダーということで十分仕事はできるし,そういう医師はもとめられているだろう.が,僕はExpertiseに関心がある.なぜなら,総合性って何?という問いの追求なしでは,医師の養成のしかたが恣意的になるだろうと思うし,それだけでは個人的には,単純に「面白くない」のである.

Expert Generalist
 僕は日本の総合診療は,家庭医と総合内科医のハイブリッドであるがゆえに,「エキスパート・ジェネラリストとは何か」ということを根本的に考えねば,それは見えてこないと思う.

 ちなみに,ジェネラリストの専門性を実地診療で発揮しているなら,専門科と関係なく「総合性をもった医師」といえるだろうが,それは“ナチュラルボーン・ジェネラリスト”であろう.つまり,そもそも資質がジェネラリストのマインドセットにフィットしていた,あるいは,たまたま上司がジェネラリストの価値観をもって診療をしていた,といった“偶然性”に多くを依存したタイプのジェネラリストである.ラッキーにも総合性を獲得すること自体は否定されるものではない.かくいう僕も,正規のプログラムを経ているわけではなく,上司が優秀なジェネラリストであり,研修の場が地域だったということで,海外の家庭医からは“Self-taught family doctor”と呼ばれていたりする.

 総合診療医は“ジェネラリストとしての特別のトレーニングを受けた医師”と言い換えたほうがよいのだが,ジェネラリストの専門性を言語化し,教育できるためには,従来の医学・医療パラダイムメタ認知して省察することが必要である.

 では,ジェネラリストの専門性とは何か? この数年,この領域で精力的に研究しているReeveら 1) によれば,それは「未分化な健康問題」「複雑な問題」「きわめて幅広い健康問題」に対応できることであり,そのために「診断治療技術」「ケアの継続性」「患者-医師関係構築」という患者次第でフレキシブルに対応する領域に加えて,どんな患者でも普遍的に適用する「患者と医療者の共通基盤の形成」「解釈的医療Interpretive medicineの実践」を組み合わせられることだという.

 このReeveらが提唱しているInterpretive MedicineはGeneralismの本質をつく非常に重要なコンセプトであると思う.いずれ日をあらためて紹介,考察しようと思うが,Biographical Disruption(個人誌における混乱)の解釈(Interpretation)とPersonalized Shared decision making(個別に共有化された意思決定)をコアにした医療スタイルである.

 この定義は家庭医ならすぐ腑に落ちるのだが,たとえば総合内科にオールラウンダー内科以上の定義を求めるなら,このジェネラリストの専門性がやはり当てはまると思う.実際に僕の知っている優秀な総合内科医はみな上述した実践をやっていると思う.ただし,学問としての日本の内科学にはこのGeneralismは射程には入っていない.実際に総合内科の認定試験においてはオールラウンダーあるいは総花的内科医としての知識を問う問題が出題される.

 そして,強調したいのは,総合診療あるいはGeneralist Medicineは診る対象の疾患で規定されないってことである.

MultimorbidityとGeneralism

 僕の考えでは,ジェネラリズムについて根本的に考えるうえで重要な領域が「多疾患併存=Multimorbidity」の問題である.Multimorbidityについて考え,ケアを実践することは,実は「ジェネラリストの専門性」について深く考えるところに直結していると思う.それは,日本における「総合診療とは何か」という問いに答えようとする試みでもある.この領域の研究と教育を今後数年で相当進めていくことが,日本の総合診療の離陸のために必須となるだろう.2015年12月号の「総合診療」(医学書院)において,Multimorbidityの特集を組んだことはそうした意図もあったのである.

 

文献
1) Reeve J, et al : Examining the practice of generalist expertise ; a qualitative study identifying constraints and solutions. JRSM Short Rep 4(12) : 2042533313510155, 2013.

https://instagram.com/p/-pJ3BKy-bg/

朝焼け

研究資金のない人のためのプライマリ・ケア研究!

 家庭医を長年やっていますと、やはり自分の現場に直接かかわる研究は非常に興味がありますし、特にプライマリ・ケアフィールドで実施された研究は、自分自身の診療にあたえる影響も大きいですし、また知的な楽しみや刺激があります。ですので、研究論文を読むだけでなく、自分たちでリサーチグループ(Practice based research network:PBRN)を構築して、研究活動もやっていますが、昨年Agency for Healthcare Research and Quality:AHRQから認証を受けています!以下のリンクを御覧ください。

PBRN | 家庭医療学開発センター CFMD|日本医療福祉生活協同組合連合会

 

 ところで、プライマリ・ケア研究のためのファンド=研究資金はなかなか獲得しにくいことは洋の東西をとわず同じようです。
 米国の著明な家庭医で、疫学の専門家であり、US preventive service task forceの中心人物であるMark Ebellが2013年の北米プライマリ・ケア研究グループ(NAPCRG、世界最大のプライマリ・ケア研究の学会)の記念講演で示したプレゼンがめっぽう面白いので紹介したいと思います。

 タイトルは「Research on the Cheap: Making an Impact Without Big Grants」で、思い切り意訳すると「お金がなくてもインパクトのある研究はできるよ!」っていうタイトルです。ヤラレタ/(^o^)\ですね。
 結局研究資金獲得を目指して、たくさん書類を作って応募しても落ちる確率が高いということを統計データなど使って説明しつつ「まあ落ちてもがっかりせず、前進する方法はある」って言ってます。

 彼は、前進するために必要なのは、以下の4つをあげています。

  • 良いリサーチ・クエスチョンを生み出すこと
  • 1つの臨床問題に関してシステマティックに考えること
  • イノベーティブだが質素な(つまりあまりお金がかからない)研究デザインとツールを使うこと
  • 研究力を増幅するために、他の医者や研究者とコラボすること

 ひとつひとつみていきましょう。
1.「よいリサーチクエスチョンを生み出す」

そのためには以下の5項目が必要とされます。

  • たくさん読むこと!自分の関心領域で研究論文が薄い領域をしること
  • 自分の診療を省察すること
  • 自分の診療における前提を疑うこと
  • 権威筋を疑うこと
  • 自分が情熱をもってとりくめる領域をピックアップすること
  • 同僚と、とくに異領域の同僚とブレーンストーミングすること

 2.「1つの臨床問題をシステマティックに考えること」

その意味は以下のようになります。

*鑑別診断は何か?それらの検査前確率はどうか?

 検査閾値、治療閾値はどうか?Clinical vignetes研究が有用。この領域は非常に重要かつこれまでの研究がうすい領域である。自分たちは検査と治療の閾値をいかに決断しているのか?専門科、患者によって違うのか?この研究を通じてClinical decision toolが作成できるか?

*病歴、身体診察、診断検査をどのように使うのがベストか?それらからえられる情報をわれわれはどのように使っているのか?

 身体診察の研究はまだ十分行われていない、特に身体所見に関する評価者間の信頼性の研究が少ないので同じ患者を二人の医師が診察して比べてみる研究が必要で、Systematic reviewもまだまだニーズがある。

*Clinical decision rules:CDRsは有用か?

 既存のCDRsのプライマリ・ケア領域における妥当性の研究はニーズが高い。新しいCDRsを開発しその妥当性をしらべることも必要。CDRsのシステマティックレビュー~Meta analysisはお金がかからず、面白く、そして臨床家の役にたつ研究である。

*一般的な治療はどのくらい有効で安全なものなのか?

 この領域に関してはステマティック・レビューや益及び害に関するメタアナリシスはお金がかからない研究デザインであり、かつ非常に有用な結果を提示できる。その際、発表されていないデータを含めて検討するとより素晴らしい。発表されていないデータをいかに入手するかの方法を見つけよう。

*予後あるいは自然経過はどのようなものか?

 疾患の予後や自然史はまだ良くわかっていない。よくある症状はどのくらい持続するのか?という疑問は古くてあたらしい。そして、PBRNによる研究がよりフィットしやすい領域でもある。電子カルテのネットワークがキーになるが、それは患者の受診エピソードとケアの内容の同定が必要だからである。またシステマティックレ・ビューのよい対象領域でもある。

 

3.「イノベーティブでお金のかからない研究デザイン」

 Ebellは以下の方法をあげています。印象的なのは、メタアナリシスやシステマティックレビューをきちんと研究として位置づけていることです。また質的研究も重要だといいます。

  • Clinical vignettesを使った研究
  • メタアナリシス
  • サーベイ
  • 質的研究
  • 費用対効果研究、決断分析研究
  • ~ただしトレーニングが必要で、モデレーターを要する
  • 2次データの解析
  • データ・マイニング法

 Ebellは2つの研究グループの実践を例示していますが、論文発表の件数に比して、非常にCheapに研究をすすめているのが印象的で、意を強くします!笑


研究事例1:急性上気道感染症の研究
方法:診断検査評価、Classification and Regression Trees modelling、メタアナリシス、システマティックレビュー、Decision rule開発と妥当性検討、Clinical vignettes研究(臨床現場で出会う場面を設定して、医師の判断などをしらべる研究)
共同研究者:13名
発表論文:9本
研究資金:1600ドル(およそ16万円)

研究事例2:DNRの意思決定に関する研究
研究方法:サーベイ、カルテレビュー、多変量解析、Classification and Regression Trees modelling、ニューラルネットワーク、メタアナリシス、Decision rule開発と妥当性の検討、費用対効果分析
共同研究者:16名
発表論文:17本
研究資金:0ドル!!

 

4.まとめとして、いくつかの教訓

  • 人的ネットワークの構築とと協働をすすめること:これはPBRNの構築が相即的にあてはまなるなと思います。
  • 毎年同じ学会や研究会にでて、積極的に関わること:継続は力なりですし、人のつながりもそこでできます。
  • 自施設で、Speed-dating(お見合いパーティ) for researchのセッションをやってみる:一つか2つの研究アイデアを3分間でプレゼン、5分でディスカッションし、共同研究をしてくれるひとを見つける(ここが告白タイムか?笑)。アイデアを揉んで整理する。このプロセスを参加した研究者全員にやってもらう。で、おわったら懇親会を行う。これ面白そうです。やってみたい。
  • ある程度の研究のトレーニングを受けること:慈恵医大のプログラムなんかが非常にいいと思います。かならずもPhDコースとかでなくてもいいと個人的には思います。

臨床疫学研究室

 

 貧者のための研究手法がいろいろあって意を強くもちました笑。ただ、時間の確保が最大の課題でしょうか。

 これからも研究活動続けていきたいものです。

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角川インターネット講座5「ネットコミュニティの設計と力 つながる私たちの時代」

Kindle for Android近藤淳也 の 角川インターネット講座5 ネットコミュニティの設計と力 つながる私たちの時代<角川インターネット講座> (角川学芸出版全集) を読み終わりました! http://www.amazon.com/kindleforandroid/

 

興味深く読みました。

 

 はてなの近藤氏の企画により、サル学、哲学・科学史、SNSベンチャーなど様々な領域から、ネットコミュニティについてのエッセイが並びます。

 サルから人間への進化の過程でうまれたコミュニティとそのサイズの限界などについては、全く知らなかったので、面白かったです。

 また、少子高齢化社会というのは、こども+高齢者の数が増えるというふうにかんがえてみたときに、要はそうしたレイヤーは地域密着型の生活スタイル、あるいはコミュニティ基盤の生活スタイルがメインなのであって、これからの日本はコミュニティ単位で経済、産業、教育、ケア・医療を考えていくことがむしろ主流になるので、地域活性化にはこうした視点が必要というお話が印象に残りました。

 コミュニティ自体を原理的、本質的にみる視点がないと、単にリアルか、ネットか、という2分法にからめとられてしまいます。

 また、ネットコミュニティの成功事例の分析では、創設者のヴィジョン、そしてアーリーアダプターたちの熱量が、決定的に重要で、とにかく成功と成長だけをみていては、ほぼ失敗するようです。一緒にどんなおもしろい未来になるか、みてみようっていうような姿勢が必要なもようです。

 

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中年以上の家庭医がLow Performerにならないために

*まず、はじめに 

 中年以降~初老期にどんなスタイルのプライマリ・ケア医や家庭医になるかについて、意識的にならないとヤバい医者になりかねない。こうした感覚は実感としてわかる。

 勢いだけでUptoDateが保てなくなってきた年齢からが、ほんとうのプロフェッショナルとしての勝負どころだと思う。以下すこし自戒もこめて記述してみる。

 注:なお、この文章は2015年8月号に雑誌「治療」寄稿した内容に加筆訂正を加えたものである。

*ヤブ化とは
 藪医者になること、「ヤブ化」の定義はむずかしい。が、現象面ではいくらでもあげることができる。たとえば、「風邪症状にかならず抗菌薬を処方する」「多弁で症状の多い患者にベンゾジアゼピン系薬剤をやたらに処方する」「製薬企業の宣伝(MRなどを経由)にしたがって新薬を発売直後から使うようになる」「症状がみなれないものだったり、経過がいままでの経験と違ってきたりすれば思考停止して、すぐ紹介してしまう」「金曜日の夜に、上から目線で緊急とは思えない入院を病院に依頼する」などがその徴候である。総じて言えるのは、若い医師からは疑問符が付けられるような診療を、正しいこととして続けていることである。

 日本の保険制度においては、患者が自由に医者を選べる、言いかえれば自由にかかるのをやめることができるため、いつの間にかこなくなった患者がなぜこなくなったかを医者が知るすべがない。一般的にいえば、自分自身の診療へのフィードバックが、せいぜいレセプトの査定とかあからさまな苦情程度しかなく、質向上のためのシステムがないのである。
 もっとも重要な「診療への構造化されたフィードバックシステム」が日本のプライマリ・ケア医には保証されていないので、ヤブ化を防ぐためには、意識的な生涯学習や継続的なプロフェッショナルとしての成長戦略が必要なのである。そこで、自分なりの留意点を記述してみたい。

 

*ひとりぼっちにならないようにしよう
 診療所の医者はひとりぼっちになると、明らかに危険である。このひとりぼっちというのは、友達がいないとか、医師会にはいっていないとか、そういうことではない。自分の診療内容を語り、他のひとの診療内容をきき、なんらかのディスカッションができるコミュニティをもつということである。
 だんだん年齢を重ねていくと、他の医師からのネガティブなフィードバックはなくなってくるものである。それは、他の医師特に若い医師は単純にフィードバックに関して心理的にバリアができてしまうためである。また、病院に苦情の電話をいれる診療所医師はたくさんいるが、病院から診療所への苦情が届くということも慣習上ほとんどない。
 ひとりぼっちにならないためには、できれば地域の同じ診療所の医師同士で、バリントグループのようなあつまりがつくれると良い。そして、できれば診療の場を共有する同僚がいればよりよいだろう。病院の外来や救急などを定期的に担当し、そこに同僚をつくるのも効果的である。そして、実は診療所に医学生や研修医、専攻医がやってくることは、一時的であるとはいえ同僚を得ることになる。
 現代において、診療所医師が属するコミュニティはFace-to-faceのものに限らない。SNS(Social network service)、特にFacebookなどで、個人情報に注意しつつやりとりするのは、薄いつながり(weak ties)が現実世界にくらべて圧倒的に広く作ることができるし、実はセーフティネットとして有用である。

 いずれにしても自分の診療への他の医師からのフィードバックをおそれてはいけないし、むしろフィードバックを歓迎する気持ちを持ちたいものである。

 

*臨床スキルを維持するために病院の仕事を継続的にやってみよう
 診療所にはMedical、Non-medical両方の多様な健康問題がもちこまれるが、特に症状や疾患という側面では当然、発生頻度に応じて偏りがある。たとえば多発性関節炎の患者や肺動脈血栓症の患者が、初診で診療所にやってくることはそう多くないものである。しかしながら、診療所で出会いにくい症状や疾患は軽視していいかというとそうではないのは自明であろう。診療所で絶対みのがしては行けない症状や病態はある。たとえばアナフィラキシーの初期症状は都市部の診療所にも受診することがある。不全型川崎病も最初は「かぜをひいたようです」という訴えをもって、プライマリ・ケアの場に現れるものである。
 診療所のパネル(かかりつけ患者集団)の性質は、地域コンテキストに依存するので、ジェネラリストの家庭医といっても、実際に診ている患者の多様性には限りがある。そういう点で、疾患頻度の異なる病院において一般外来や救急外来を週1日担当したり、症例カンファレンスに参加することは、幅広いスキルの維持という点で重要である。診療所にひきこもらないようにしたい。

 たとえば僕は、週に3単位病院で一般外来、予約外来をやっているが、症状や疾患の事前確率はあきらかに診療所のそれとは異なることが実感されるものである。

 

*自分の臨床経験を過大評価しない
 それまでの臨床経験が臨床決断に影響を及ぼすことは当然であるし、それ自体は誤りではない。しかしながら、臨床経験が十分振り返られ、根拠のあるパールとして自分のナレッジベースに蓄積されているかというとそうでもない。それは、Reflection on action(行為の後の省察)を通じて、経験が、「理論化」していくというプロセスを継続的に追求するような省察的実践家の学習スタイルは、まだまだ一般的ではないからである。おそらく臨床経験は貴重ではあるが、バイアスもまた大きい。この認知バイアスはかなり問題になる。たとえば、胸痛で、非常に狭い範囲の胸痛はほぼ筋骨格系の痛みであるというのは、疫学的には確かにそうだが、しかし、他の冠動脈疾患のリスクを勘案する必要が当然あるが、この思い込みが重大な見落としになったりする。あるいは息切れで診療所を受診した場合、肺動脈血栓をみのがす認知バイアスはベテランほどありそうである。

 「経験上こうだから」という、自分のマインド傾向を「ほんとうにそうだろうか?根拠はどこか文の献等にないだろうか?」とメタ認知的に疑ってみるというのは、ヤブ化を防ぐ重要なスタイルである。

 

*自分にフィットする学習スタイルをみつけよう
 臨床を毎日コツコツやることで、経験を積めばヤブ化を防げるかというとそうではないだろう。たしかに、コツコツと診療を行い、そこから生じた疑問をコツコツと解決していくことは重要である。それは生涯教育の基盤とも言える。しかし、上述したように頻度の低い問題がどうしても学習課題にのぼってこないのが問題である。

 家庭医には「網羅性」が必要なのである。特に知識に関しては徹底した網羅性を追求しなければならない。網羅性を意識しない家庭医は、家庭医ではない。

 とすると、日々の仕事以外で学ぶ、自分なりの学習スタイルをみつけなければならない。それは、個々人によって異なるだろう。自分にとって一番Comfortableな方法はなにか?静かにジャーナルや本を読むことなのか、あるいはセミナーや学会にでて、レクチャーを受けることなのか、あるいはPBL(問題基盤型学習)ひとりひとりが自分にフィットした学習スタイルをアセスメントしなければならない。そのためには、同僚などと、かつて自分が一番感銘をうけた教育経験などを振り返ることが有用だろう。

 

 *いつの時代でも文献を読むことは大切

 論文や本を読む習慣は、今も昔も絶対的に重要である。特にヤブ化を防ぐためには、読む対象としてまず学術雑誌を重視したい。製薬会社の宣伝がたくさんのっている大手新聞社関連の商業誌はできるだけ避けたいものである。

 そして、ここでいう「文献を読む」ということは「文献を調べる」ということではない。臨床上の疑問を解決するために文献を調べることをここで意味しているかわけではない。そうではなくて、直面する臨床問題に関係なく、その領域で何がディスカッションされ、どういうリサーチがされているのかを継続的に学び考えるということは、プライマリ・ケア専門医として重要な活動という意味である。
 たとえば血液内科の専門医が「Blood」という学術誌を定期的に購読しているのは、直面する問題の解決のために読んでいるわけではない。むしろ血液内科学の全体像、あるいはナレッジベースを常に更新しつづけるためである。このことは、プライマリ・ケアでもまったく同様である。それは診療所の医療がそれ独自の専門性があるということであり、プライマリ・ケア独自の領域のナレッジベースの全体像をつかむことにつながる。
 たとえば、Annals of Family Medicine、British Journal of general practice、Family Practice(WONCA Journal)、Journal of General Internal Medicineといったジェネラリスト系の学術誌から一つ選んで、毎月目を通しつづけることは、診療所医療やプライマリ・ケアの職業的アイデンティティを確立させていく上で重要である。
 そして、国内のプライマリ・ケア関連の学術的商業誌(「治療」「総合診療」「Gノート」等)を一つ定期購読することも有用である。こうした商業誌においては、情報のキュレーションが生命線であり、どのような視点で特集を組んでいるかということに注目して選びたい。

 もちろん医師会雑誌やたとえば内科系のジャーナルで組まれている疾患や病態に関する特集を読むのも悪くはない。悪くはないのだが、むしろそれはリファレンスや調べ物をするとき、そして、これまで知らなかった概念やコンセプトを知るという点での、いわばBackground searchのために「のみ」有用だと思う。

 僕はちなみに医師会雑誌の対談の部分はなるたけ読むようにしている。なぜなら、対談には実は重要なポイントが要約的に語られていることが多いからである。

 

*ICTに親しもう
 ICTの進歩のスピードは驚くほど速い。現在では、クラウドにすべてのデータを保存し、個別のPCやスマホはネットワークがあってはじめて意味を持つようになっており、SNSも日常生活にとけこんだものになっている。たとえばFacebookのデータは自分のPCやスマホにはなく、クラウド上に存在しているのだが、そういうことをもはや意識することもなくなっている。
 こうした時代において、医者の仕事(直接の診療、マネージメント、教育や研究、プライベートライフ等)にもICTのパラダイムチェンジが大きな影響をあたえている。しかし、案外「ITは苦手」とか、「IT弱者」などと自嘲気味に語るものも中高年の医者の中には少なくないが、堀正岳氏による「ブルーバックス:理系のためのクラウド知的生産術 メール処理から論文執筆まで」講談社などを一読することで、案外ハードルは下がるはずである。

 現代においては、「ICTなしでは間違いなくヤブ化する」とはっきり断言したい。便利だからやったほうがいいよ、というレベルの話ではないのである。
 そして、僕が考えるところ、ICTでもっとも注目すべきは、SNSに代表されるあらたなコミュニケーション様式の出現であり、広範囲に構築される弱いつながり(weak ties)、そして共有の文化である。クラウドを活用して仕事をすることはこうしたことと直結しているのである。

 

*パーソナルなナレッジベースの構築とEポートフォリオ作成に挑戦してみよう
 調べたり、読んだりした文献、臨床上の気づきのメモ、診療や学習のログ、様々な動画や写真などを蓄積整理することは、古くから医師の習慣として確立した生涯学習法だったといえるだろう。この方法はより個人のコンテキストに立脚したナレッジベースの構築ともいえる。そして、それは以前の紙ベースのファイルの集積とちがって、現代においては、EvernoteDropbox等によって、個人の電子データベースとしてだれでも簡単に構築・管理できるようになった。
 しかし、この方法の欠点は、外部とのコミュニケーションを欠いていることであるが、近年電子化した個人のポートフォリオ(Eポートフォリオ)の構築が、対話型のナレッジベースとして注目されている。Eポートフォリオは、自分自身のWeb spaceを作って、そこに生涯教育あるいはCPDのカテゴリー(たとえば糖尿病の診療水準の向上等)の達成を示す成果物を登録していく活動である。Eポートフォリオは公開範囲を自分で設定し、自分の学びの経過をみてほしい人と内容を共有し、ヴァーチャル空間で対話することができる点で、生涯学習的にきわめて有用とされる。
 たとえば、印象深い事例や思いがけないデータを記録したり、日々の出来事のふりかえりを書いたりすること、すなわちReflective journalingは非常にすぐれた生涯学習法だが、これをEポートフォリオにエントリーすることによって他者とのディスカッションが可能になり、対話による新たな学びが生まれるだろう。

 Eポートフォリオは、公開範囲を限定した、自分のホームページをつくるという感覚でやっていけばほぼ間違いなく構築できる。たとえば、Google siteなどで無料で作成することができる。ハードルは低くなってきている。

 

*教えることは学ぶこと
 教えることは学ぶことという原則は、今も昔も「真」である。診療の見学をすることで、学習者は何を学ぶのか?そのためにはどんな言葉かけをすべきか?といったことについて考えることは、イコール自分の仕事の正体を省察することそのものでもある。
 例えば、安定した高血圧の患者を診察しているところを学生が見学しているときに、「安定した高血圧は医学的には特に面白いものではないから学生にみせても勉強にならないだろう」と考えたとしたら、それは間違いである。あまりにルーチン化している業務から学ぶところはないと考えやすいが、それはヤブ化の始まりかもしれない。
 そもそも「高血圧の治療目標とはなにか?」「それはどのような根拠に基づいているのか?」「今の処方内容の根拠は?」「患者の生活習慣への介入は?」「ずっと継続的に通院するのはどんな意味があるのか?」「この年令で必要な予防医学的介入項目はなにか?」「地域における高血圧患者集団へどうアプローチするか」など実はTeaching pointはいくらでもある。そして、おそらくこれらのTeaching pointは現代の医学教育では無視あるいは軽視されている部分である。プライマリ・ケアに関する学術研究誌はこのあたりの視野を大きく広げてくれるだろう。かわった症状や所見、珍しい病気が学生や研修医向けとかんがえるのは間違いである。

 

*おわりに
 プライマリ・ケア医や家庭医の生涯教育のスタイルは、おそらく「キュアからケアへ」「病院から地域へ」などと称される健康転換と、ICT技術の進歩、そして社会構成主義的学習教育観への転換など、現代の様々な変化に影響を受け、大きく変容してきている。診療所医師のヤブ化を自ら防ぎ、成長しつづけるために、省察を続けていきたいものである。

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ジェダイ・マスター的家庭医になるために

 

 Robert B. Taylor著 吉村学/小泉俊三 監訳 テイラー先生のクリニカル・パール1:診断にいたる道筋とその道標 メディカル・サイエンス・インターナショナル が出版された。

 僕が個人的に勝手に「Taylor三部作」と呼んでいる一連のRobert Taylor先生のマスターピース単著群の日本語訳が開始されたことは、まことに喜ばしい。超一流家庭医の臨床能力はこの三部作により表現されていると思っている。

 僕にとっての家庭医のジェダイ・マスターは、Ian McWhinney、Robert Taylor、そしてGayle Stephensである。Taylor先生以外はすでに鬼籍に入られたが、Taylor先生がまだまだお元気だときいている。

 この本は、目次をみると、新生児から高齢者まで、婦人科的問題から眼科的問題まではばひろくとりあげられている。米国家庭医のFull scope診療を垣間見ることができる。

 しかしながら、項目は特に網羅的というわけではなく、また項目に関連した総論的な記述がされているわけでもない。いわば、臨床医のつぶやきのようなものである。「140字で語る臨床医学」みたいな本がもしあるとすれば、ここに提示されるような形態になるかもしれない。実は最近、Twitterで書籍がかけないかとおもっているのだが・・・だから、この本は、Point of Careで臨床的な疑問を解決するためのリファレンスとしては使えないだろう。むしろこの本の価値は、Taylor先生が超一流の家庭医であり、本書でとりあげられている問題が、自身の臨床経験に由来しているというところにある。そして、それ故に通読することが重要な本であるともいえる。通読することで、マスター家庭医の頭の中を追体験してみることが可能になるのだ。

 生涯学習の重要なモメントとして、驚きや予想外のできごとを重視すべきであると、ドナルド・ショーンは言っているが、臨床上のサプライズに対して、その場をなんとか切り抜けるために、過去の経験や、文献、情報ネットワークなどを屈指するのだが、事後的にそのことを振り返ることで、自分なりにサプライズの経験を理論化することが重要だといわれている。この実践の理論の構築の習慣がマスターになるためには重要である。このプロセスが、省察的実践家として成長するプロセスそのものである。そして、この書籍の記述は省察的実践家としてのTalor先生の「実践の理論」の集積であり、パーソナル・ナレッジベースが披瀝されているということもできるだろう。

 たとえば、「発熱」002において、「熱射病は、深部体温を急速に低下させるとともに、迅速な介入が必要となる危険信号である」と記述されているが、いわゆる熱射病を熱疲労などと一緒にしてはいけないというパールである。おそらく実際にこのような経験、あるいは重篤な熱射病をそれとして認識することができない事態を目撃した経験があったのではないかと推察される。また「乳幼児と小児」048には、「5日以上発熱が続く小児では川崎病を考慮する」とサラリと書いてある。発疹やリンパ節腫脹が書かれていないところが重要である。とにかく5日熱がつづけば考えろということであるが、これが「実践の理論」であり、クリニカル・パールである。

 クリニカル・パールというのは、ヒヤリとした経験や失敗した経験から生まれるものである。しがたって、事故やミスを防ぐための認知領域の方略ともいえる。よいパールをたくさん身につけることは、医療事故をおこしにくい体質をもつというふうにいいかえることもできるだろう。

 また、クリニカル・パールは過去の文献などを参照することによってより磨かれる。単に、ひとりよがりのパールというのもあって、危ないバイアスにみちているものである。自分自身の臨床経験を課題評価するのは危険である。やはりパールは、いつの時代でも大事な文献による検討、同僚とのディスカッション、SNSなどのネットワークのなかでブラッシュアップされるべきものである。

 本書のような個人的なクリニカルパール集は、ヤブ医者にならないために、意識的に作るべきだろうと強く思う。臨床経験から疑問の抽出、振り返り/省察、文献による検討、自身の課題の記述ということが日常化され蓄積されるならば、ヤブ化は防げるだろう。

 ところで、家庭医と総合内科医の違いはどこにあるか?といった疑問に対しては本書と、著名な総合内科医であるローレンス・ティアニー先生よるクリニカル・パール群のフォーカスの仕方との差異に、一つの解答があるといえるような気もする。

 

 

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大学病院に残る医学部卒業生をどうしたら増やせるのか?

 いったいぜんたい大学医学部の教育プログラムの成果は何で図られるのか?ということに興味をもちまして、いろいろ懇談などしていますと、国家試験合格はまあ対外的には重要らしいのですが、内部的には卒業生が自分の大学病院の初期研修プログラムにどのくらいマッチするかってのが、最重要事項のようだという確信をもつに至っております。

 その大学の卒業生がその大学の研修プログラムに残らないっていうことが、大学内でこれほど問題になっているとは思わなかったですし、また基本的に大学外で職業生活をしてきたせいもあって、そうした状況にそれほど関心があるわけではなかったのですが、パートタイムとはいえ大学に出入りするようになって、そのことを考えてみようかとおもったのでした。

 まず卒前医学教育の成果=Outcomeとはなにで測定されるのかという原則的なところから考えてみます。
 卒前医学教育改革に関する提言をいくつか目を通してみますと、たとえば平成23年に発表された日本学術会議の提言「我が国の医学教育はいかにあるべきか」では、「疾病構造の変化、患者のニーズの多様化、生命科学や医療技術の急速な進歩などを背景として新しい世代の医療人の育成が求められている」といった理念的な目標にとどまっています。その他の文書をみても「患者中心の医療のできる・・・」とか「基本的人権を達成する云々・・・」といったヴィジョンが様々掲げられていますが、では大学卒前教育でこうしたヴィジョンが、どのくらい達成されているのかどうかという評価はなかなかみあたりません。研究あったら教えて下さい・・・(^_^;)。

 で、海外に目をむけてみますと、Kassebaumが医学部のゴールと関連したアウトカム測定あるいはインディケーターを提案しております*1

 この文献によると、メディカル・スクールのゴールをかいつまんで言うと以下のようになります。
入学の選抜

教育

  •  強力な基礎科学の基盤の提供
  •  模範となる臨床の知識とスキルの成長
  •  プロフェッショナルとしての態度の涵養
  •  学生とファカルティの密接なインタラクション
  •  卒後研修を成功させるための準備

キャリアと診療実践

  •  必要とされている、あるいは低く評価されている専門領域のキャリア(プライマリ・ケア等)を選ぶ医者が多い
  •  ライセンス試験(国家試験、専門医試験)の合格
  •  医療に恵まれない地域での診療実践を重視
  •  アカデミックな資源を更新すること、つまり大学での教育活動あるいは研究実践への参入

 このような領域に関して測定のやり方の方法も併記されています。

 きちんと測定していくことも重要だと思いますが、日本では、まずはこうした評価基準をつくることが重要かと思います。たとえば、CBTやOSCEもそうした評価項目になるとは思いますし、他にもあるのかもしれないが・・・。

 こういう目標をみてみると、ある大学の医学部卒業生がその大学の卒後教育プログラムに残るということが、真にアウトカムになりうるのかということに関しては、原理的には、それは違うように思うのですが、日本の医学部の教官が口をそろえて「問題だ」といっている現実は別の何かを表しているとしか思えないわけです。なにか、真のアウトカムの関連したなにかが「残る」「残らない」という言葉になっているのかもしれません(穿ち過ぎ?)。

 そこで、このことを2つの切り口からかんがえてみたいと思います。
 一つは自校教育の観点から、もう一つは学習共同体の観点からです。

 近年、大学では自校教育が注目されています(以下の記事参照)。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090722/169059/?P=1

 学生に対して建学の意義、大学史、自校の研究成果などについて教える授業のことを自校教育といいます。それは学生の大学への帰属意識が薄れているという現状に対応したものです。特に私立大学では、その目標は「愛校心」の涵養となりますが、国立大学ではどうもそうでではなくて、大学の最近の成果の講義などが多いようです。

 特に私立大学では卒業生も含めてコミュニティの形成、大学経営を支える基盤づくりとして捉えられています。いくつかの私立大医学部に出入りした経験では同窓会の存在はきわめて大きいものでした。こうした取組は、一部大学(東大等)を除くと国立大学では非常に弱いように思います。

 しかし、古臭い響きのもつ愛校心なるものを、どう高めるかという取り組みを、あまり経験のないところが急に始めるとおそらくスベる可能性が大です。むしろ、その愛校心の内実であるコミュニティづくり、もっというと学習と実践の共同体づくりを現代的にすすめるのが、今に生きる「愛校心」になるのではないかと思っています。
 例えば、今の医学部の教育が学習共同体づくりになっているのか、それを促進するカリキュラム(PBL:問題基板型学習IPE:専門職連携教育、そしてCOME:地域指向性教育、等)が重視されているのか、教員がそれに適応できるようなFDをやっているのかどうか、などが問われるでしょう。コミュニティ成立の基本は、メンバーの居場所と出番の保証です。そしてメンターとロールモデルの存在も重要です。
 そして、こうしたカルチャーが大学付属病院の医療や研修の基盤になっていないと、それこそ、教育-現場ギャップがあらわとなって、学生にはますますそっぽを向かれるでしょう。

 大学付属病院に卒業生をたくさんリクルートしたいのなら、「大学に残らないと結局生きていけない」「大学にのこればこんなに素晴らしい研究ができる」「大学にのこれば君たちはエリートの仲間入りだ」的な完全勝ち組意識丸出しのリクルートはやめることです。上述したようなカルチャーを涵養する努力を不断につづければ、たとえ目標像に到達していなくても、学生はその空気は感じるものです。そしてカルチャー改革の第一歩はおそらく、大学病院研修医のワークライフバランスの改善でしょう。
 今の勝ち組意識の高いベテラン医師とはちがって、現代の若者は生まれた時から不況が続く時代背景の中で育っています。そこを真剣に捉えないと間違えるでしょう。

 状況の変化はすぐには起こりませんが、道筋は見えているような気がします。

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*1:Kassebaum, G. The measurement of outcomes in the assessment of educational program effectiveness. Academic Medicine, 65(5), 293-6.1990